1:もう時間がない
織部には今、最悪の事態が訪れていた。母親が亡くなったのだ。
このままだと離れて暮らす父親の家に引き取られることになる。
いま住んでるマンションで父親と生活したことはない。
たまにマンションにやって来たことはある。
だが「子供は黙っていろ」「誰のおかげで食えるんだ」
この二つのセリフしか織部の記憶には残っていない。
母親が入院した6年前も、父親の家に引き取られそうになったことがある。
その時は、父親の会社の加藤という男が、織部の腕をむりやり
引っ張って連れて行こうとした。
子供だと思って強引に言うことを聞かせようとする遣り口は、
父親が部下に命じたものに違いない。
(あの尊大な父親がやりそうなことだ)
だから加藤には悪いと思いつつも、織部は彼の手首に思いっきり
噛みついて断固拒否を貫いた。代わりに父親の部下達が、
住んでるマンションに世話係として現れるようになってしまったのだが…
『今度はもっと上手くやらなければ』
今日、織部は母親の葬儀中、父親や部下達の目を盗んでこっそり
抜け出した。
マンションに戻って荷物をまとめ、一人暮らしを始める算段をしていたのだ。
だが計画は失敗に終わった。
織部も高校生になり、凶暴性が増していると警戒したのか、
敵もさる者
『あいつらマンションの契約を解除しやがった……』
「くそっ」織部は自宅のマンションの前で悪態をついた。
既にパスワードはロックされ、エントランスにすら入れなかった。
『こんなことしたって、俺は決してあの男の言いなりになんかならない !』
天涯孤独の母親は20歳の頃に働いていたバーで、客であった父親と
出会っている。
そして織部が生まれたわけだが、父親には正妻がいる。
いつも織部達のところに帰ってくる父親ではなかった。
やがて織部が小学校に上がる頃、母親は強い希死念慮に
襲われるようになり、
織部が小学4年生の時にとうとう精神病院に入ってしまった。
『この豪華なマンションをあの男から与えられ、
あの男の愛情だけを頼りに生きてたような女性だった……』
少しだけマンションを見上げ、元気だった頃の母親との思い出に
浸る織部だったが、もう時間がない。
いつ父親の部下達に見つかって連れ戻されるか分からないのだ。
織部はもうマンションを振り返らず、足早に埠頭に向かった。
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