第0話「その果たし状、受け取りたくない」
「ルカ・ミレット。貴様に決闘を申し込む」——大講堂に響いたその一声で、周りの空気が一瞬で凍りついた。名指しされた当の俺だけが、壇上で(え、今の挨拶、そんなに滑ってたか?)と、見当違いの反省をしていたわけだが。
新入生代表の挨拶を終えて、壇を下りかけたところだった。数百人ぶんの視線が、声の主と俺のあいだを忙しく往復している。振り返れば、最前列で一人の男がまっすぐこちらを指さして立っていた。銀の髪に青い瞳、制服を寸分の隙もなく着こなした、絵札の王子みたいな顔だ。
名前を思い出すより先に、前世の記憶が勝手に答えを寄越す。オスカー・グランツベルク。公爵家の嫡男で、この学院で俺がいちばん関わりたくない相手である。
しかも厄介なことに、俺はこの学院の顛末をだいたい知っている。前世で同居していた妹が、とある恋愛ゲームに狂っていた。舞台はまさに、このグランシェルテ王立学院。そして俺に割り当てられた席は、下町のパン屋あがりの平民特待生ときた。
物語の終盤、俺はこの高慢な公爵令息を断罪して破滅させる役どころ、らしい。冗談じゃない。誰が好き好んで、公爵家相手の修羅場に首を突っ込むものか。その筋書きから、俺は全力で降りるつもりでいたのに。
「入学試験の首席を、平民の分際で私から奪ったそうだな」
ああ、そういうことか。要は次席が首席に噛みついている図である。プライドの塊みたいな貴族が、平民に負けて我慢ならなかった——わかりやすい話のはずだった。
「よって貴様と雌雄を決する。逃げれば、貴様の勝ちは認めん」
ざわめきが波になって広がる。壇上の学院長が困り顔で咳払いをした。俺はといえば、頭の隅でまるきり別のことを考えている。(順位はとっくに発表済みだし、雌雄を決するも何も、もう勝敗ついてるのでは……?)
もちろん口には出さない。正論で殴り返すのが、この手の相手にはいちばん面倒な一手だからだ。俺が望むのは穏便に三年を過ごして卒業すること。それに尽きる。因縁も修羅場もこっちからは丁重にお断りしたい。
「……謹んで辞退します。争いごとは苦手なので」
できるだけ角の立たない言い方を選んで深く頭を下げた。これで場は丸く収まる。そう踏んだ俺の読みは、続く一言であっさり砕ける。
「辞退は認めん。追って果たし状を送る」
果たし状。この平和なはずの学園に、いきなり物騒な四文字が舞い込んだ。呆気に取られる俺を置き去りにして、オスカーは長い脚で講堂を出ていく。残されたのは羨望と同情が妙な比率で混ざった全校の視線と、壇の上でぽつんと突っ立つ俺だけ。
据わりの悪い感覚が、胸の底にわだかまった。何百人もいるこの学院で、あいつはよりによって俺を選んで名指しした。宣戦布告のはずなのに、どうしても「選ばれた」みたいな感触が消えてくれない。……いや、嬉しくなんかないぞ。断じて、嬉しくないからな。
——あれから、ふた月。
春はいつのまにか初夏へ移り変わり、俺の平穏なはずの学院生活は、見事に予定と違う形で回っている。
「首席くん、今週の果たし状はもう届いた?」
教室でそう尋ねられるのが、すっかり日常になった。届いた、と答えるしかない。毎週きっちり一通、公爵家の白い便箋が俺の机に置かれている。青い封蝋には双頭の鷲。あいつは学院の決闘規定を律儀に守って、申請書の写しまでご丁寧に添えてくるのだ。
「今週の種目は木剣だってさ」「賭けの景品は?」「知らん。どうせまた、うちの実家のパンだろ」
そう、なぜか賭けの景品はいつも俺の実家のパンなのである。下町のパン屋の焼きたてを、公爵家の跡取りが大真面目に欲しがってくる。意味がわからない。封蝋を割るたび、達筆で「くるみパン一斤」と書いてあるのを見て、俺は毎度ため息をつくはめになる。
先週は「どちらが購買のパンを速く食べ切れるか」という、決闘の名を借りたただの早食いだった。その前は詰め将棋まがいの盤上遊び。剣で始まったはずの勝負が、週を追うごとにどんどん脱線していく。あいつの中で「決闘」の守備範囲は、ずいぶん広いらしい。
学院じゅうが「今週もやってるな」という生温かい目で俺たちを眺め、この騒ぎはもう名物の域に入りつつあった。逃げても逃げても追ってくる宿敵と週に一度の勝負。避けたかった修羅場とは方向性がだいぶ違うが、これはこれで立派な非日常だと思う。
最初のうちこそ本気で逃げ回っていた俺も、この頃はすっかり肝が据わってきた。どうせ勝っても負けても、来週にはまた新しい果たし状が届く。断り続けたところで無駄なのだと、ふた月かけて骨身に染みたのだ。せめて木剣の握り方くらいは、真面目に覚えておくべきだったかもしれない。
そして今日もその日だ。医務官と審判役の上級生が見守る中庭で、俺は木剣を構えるふりをしながら、腹の底で盛大に嘆いていた。
視界の端で、オスカーが木剣を抜く。所作の一つひとつに無駄がなくて、こっちの腰の引けた構えとは、比べるのも失礼なくらい様になっている。あの顔で、あの佇まいで、賭けているのがくるみパン一斤だという事実。誰かこの絵面のちぐはぐさに、そろそろ気づいてくれないだろうか。
(頼むから誰か、俺のささやかな平穏を返してくれ)
開始の鐘が鳴る。今週の決闘がまたしても幕を開けた。




