第32話 エピローグ
「ママ、さっきからいい匂いがしてるんだけどまだぁ?」
「待ってて、今ちょうどできたところだから!」
廊下からタマラの声がする。アガサはキッチンで焼きリンゴを作っているところだった。
ミトンをはめた手でオーブンからトレイを取り出す。ジュクジュクと蜜を垂らす焼きリンゴの出来栄えを確認していると、タマラが芳醇な香りに釣られてやって来た。
「わぁすごい! 五個もあるよ! パパとママとマーフィー夫人と私の分……余った一個貰ってもいい?」
「残念だけど、これはカイルのものなの。今日は彼の快気祝いでもあるんだから」
カイルの名前を聞いたタマラは顔色を変えた。
「ちょっと待って! 聞いてないよ!? 今日カイル来るの?」
「前に言ったじゃない。忘れたの?」
アガサはミトンを外すと、顔を顰めてタマラに顔を向ける。タマラは耳まで真っ赤になりあたふたとし出した。
「早くそれ言ってよ! ちょっと待って、お気に入りの服に着替えて来る!」
タマラは騒々しくキッチンを出て自分の部屋に飛んでいった。娘の後ろ姿を見て、アガサはやれやれとため息をつく。タマラと入れ替わるように、今度はジェフリーがやって来た。
「タマラったら何やら騒いでたけどどうしたの?」
「カイルが来ると知ったら慌てておめかしするみたい。今の子はませてるわね」
アガサが苦笑しながら説明すると、ジェフリーは衝撃を受けたようにその場に固まった。
「こんな悲劇ってある? せっかく娘ができたのに、もう他の男に目移りしてしまうなんて。『パパのお嫁さんになる』と言ってもらうのが夢だったのに!」
「仕方ないわよ。この年で命懸けで守ってもらうなんて強烈な経験をしたら、ハンサムなパパでも歯が立たないと思う」
アガサは肩をすくめて言ったが、ジェフリーのショックは想像以上に大きいようだ。
「信じらんない。カイルといえどもタマラの心を盗む奴は許せない。来たらとっちめてやる!」
身に覚えのないことでジェフリーに責められるカイルを想像したら、アガサはおかしくなって声を出して笑った。カイルもさぞ災難だろう。
「そうだ、ここで話すべきか迷ったんだけど、姉さんのことで……」
「ん? エルザがどうしたの?」
今度はジェフリーが言いにくそうに切り出したので、アガサはキョトンとした。
「アガサに一言謝りたいんだって。今回の件で利用されて、結果的にけしかける形になったから……」
「そうなの? 別に会ってもいいわよ?」
「本当にいいの? 怒ってない?」
「あのプライドの高いエルザが謝るなんて、よほど反省したってことでしょ? それなら受けてあげなきゃ」
それでも、ジェフリーは迷った顔をしている。だからこう付け加えた。
「それより、もう彼女のアシスタントはやらないこと。私たち家族を優先してね」
「も、もちろんだよ! 僕だっていつまでも情けない弟じゃいられない」
それを聞いてアガサはふふっと笑う。ジェフリーに「情けない弟」という認識があったことが意外だったからだ。エルザと仲直りするのは歓迎するが、今度はジェフリーをこき使わせないつもりだ。
三十分ほどしてから手土産を持ったカイルが訪れ、ささやかなパーティーが開かれた。カイルはこういった場所に慣れてないらしく、照れ隠しのために難しい顔になっていた。
「どうしてカイルはしかめ面してるの? 何か気になるの?」
「べっ別に、家族団らんに慣れてないだけです!」
タマラが気安く話しかけると、カイルは慌てて否定した。姉を亡くして以来一人暮らしのカイルにとっては、こういう空間が慣れないのは仕方ないところである。実際は恥ずかしがってるだけなのは分かるが、つくづく不器用な性格だとアガサは思う。
もっとも、アガサもずっと母娘二人きりだった。ジェフリーに至っては、今までは職場に寝泊まりすることが多かった。ここにいる全員が、家族の温かさに初めて触れる。今の巡り合わせが何だか不思議に思えてくる。
タマラはカイルを意識して、服だけでなく髪型まで変えてきた。お下げの髪を下ろしてハーフアップにしたのだが、カイルは繊細な乙女心には全く気づいていない様子。しかし、タマラがカイルに話しかけるたび、ジェフリーは細かく反応し、アガサは笑いをこらえながら見守っていた。
料理が特別得意ではないアガサも、マーフィー夫人に手伝ってもらいながら頑張って腕を奮った。そして、デザートの焼きリンゴは一人で仕上げた。
「焼きリンゴ懐かしいなあ。昔、アガサと二人で作ったことあったね。あの時は失敗してしまったけど」
「あれは、あなたが実験を優先したから失敗したのよ。私は普通に作りたかったのに!」
もう昔の思い出話をしても心が痛まない。笑い話にできるまでずい分と時間がかかってしまった。
焼きリンゴまで平らげて食後のお茶を楽しんでいると、タマラがぴょんと椅子から下りてこう切り出した。
「実は、みんなに見せたいものがあるの。この日のために準備してきたんだから、ねっカイル!」
カイルは何のことか察したらしく、ハッとした顔をしてから神妙に頷く。一体何のことやらとアガサとジェフリーが首をひねる中、タマラは両手を前にかざし、呪文を唱える構えを取った。
「天地の礎よ、一つに還れ。光、顕現せよ」
タマラが伸ばした手の先に小さな光の球体が発生する。それはまばゆくも柔らかな光を放ち、手の中に収まるほどの大きさしかないのに、周囲を暖かくするほどの熱量を持っていた。
「タマラ……あなた光の魔法を使えるようになったの?」
アガサが席を立ちおずおずと尋ねると、タマラは小さく笑った。
「カイルと特訓した結果だよ。四大魔法の精度を上げる練習をしてきたの。そしたら、ほら」
アガサは胸がいっぱいになって言葉が出なかった。光の魔法を習得したタマラ。とても誇らしいと同時に、自分の手の届かないところへ行ってしまいそうな一抹の寂しさが湧き起こる。でも子供とはそういうものだ。いつか親の手を離れて巣立つものである。
隣のジェフリーを見ると、彼は口をぽかんと開けてその場に固まっていた。同じく感動しているのかと思いきや、はっと我に返り慌てて声を上げた。
「ばかっ! そんな危険なものを家の中でやるな!」
タマラはびっくりして光の玉を消す。ジェフリーは椅子から立ち上がり、タマラのそばまで飛んでいった。
「これはただの光の玉じゃない、小さくても太陽と同じ威力を持つんだ。力加減を間違えたら大事故につながる。狭い家の中でやって事故が起きたら大変だ」
「でもパパは出張授業でやってたじゃない?」
「あれはギリギリまで力を抑えたの。魔法の威力を制御するのも鍛錬が要る。だからこれからは広い場所でやるんだよ」
ジェフリーはタマラの両肩に手を置いて一気にまくし立てたが、一通り言いたいことを言うと、今度はタマラを力いっぱい抱きしめた。
「よくやったな、タマラ。おめでとう。パパはすごく嬉しいよ……今日は記念すべき日だ」
今度はゆっくりした口調で噛み締めるように言葉をかける。その声は少しくぐもっていた。
*
しばらくしてカイルが帰り、一通り片付けをしてタマラも部屋に戻った。夫婦二人きりになったところへ、ジェフリーが声をかけた。
「アガサ、ちょっといい? 渡したいものがあるんだけどリビングに来てくれない?」
「ちょうど片付けが終わったからすぐ行くわ」
この時のジェフリーは、少しかしこまっていた。今更遠慮する関係でもないのにと思いながらリビングに向かうと、彼は緊張した面持ちで手にリングケースを持っていた。
「ジェフリー、それ……」
「やっと渡せる。十年間手元に置いといたんだ。一生会えなかったら棺に一緒に入れてもらおうと思ってた」
ジェフリーはそう言うと、指輪を差し出した状態で、アガサの前に片膝をついて跪いた。
「愛しいアガサ、あなたを一生幸せにします。どうか一緒になってください」
宝石のような緑色の目がまっすぐアガサを射抜く。アガサはしばらく言葉を失っていたが、みるみるうちに目から涙が溢れ出した。
「はい……こちらこそ……よろしくお願いします」
プロポーズの定型句。だが、二人にとってはこれ以上ない愛の言葉だ。
「ありがとう……アガサ……愛してる」
緊張から解放されたジェフリーは穏やかな笑顔を浮かべ、すくっと立ち上がり唇を重ねる。やっとここまで来た。一度引き裂かれた二人は、大変な苦労をしてまたここまで戻ってきたのだ。
「僕のアガサ……ずっと一緒だよ……何があっても守り抜くから……」
「私こそあなたを守る。最後の日までよろしくね……」
二つの影が一つに重なる。そして、今度こそその手を離すまいと心に誓うのだった。




