第10話 リスの伝文
フェリックス様がリスの前に片手を差し出す。
「読んだら返しますから、少しだけ貸してください」
リスは二、三度ちょこちょこと頭を動かした後、頬袋からクルミを取り出して彼の手に乗せる。そして身体を横たえて尻尾を巻き付け、目を閉じる。彼の用が済むのを大人しく待っているかのよう。
フェリックス様はクルミを割って巻紙を取り出す。あまりにも悪びれず、慣れた手つき。私は思わず言ってしまった。
「いつも、こんな風にして人の伝文の横取りを……?」
フェリックス様は苦笑し、リスと私とを交互に見る。
「『いつも』じゃありませんよ。今日は、このリスがいかにも目につくよう部屋の周りをうろついているものだから、シャーズでなくたって捕まえたくなります」
そう言うとフェリックス様はリスの運んできた文書に目を落とした。わずかの間そうしていて、すぐに納得したように顔を上げる。
「この城の家令に宛てた報告書です。あなたも、読みますか」
「私は字が読めませんので……」
断ろうとしたけど、フェリックス様はそれを制して私に巻き紙を持たせる。そんなに言うなら、と、私は巻紙を開く。リスがキィと短く鳴いた気がした。
そこで私は不思議な体験をした。
巻紙を開いて、連続した線の形をながめた瞬間、なぜかそれが言葉として伝わって来たのだ。例えば、一番最初の行は、「親愛なるモリスへ」と言っている気がする。
……私、文字を読んでいる。夢でも見ているみたいだ。
起きていることが信じられなくて、私は巻紙から顔を上げた。すると、いつの間にかフェリックス様が私のすぐ隣に来ていた。彼は私の肩越しに熱心に紙切れを覗き込んでいる。前のめりになっていて、彼の顎が私の肩に付きそうなくらい。
これはよくない。せっかく差を付けて座ったはずだったのに。彼の方が降りて来て、私と同じ敷物の上に座ってしまった。しかも、随分と距離が近いじゃないか。
私の視線に気づいてフェリックス様が言った。
「読めますか?」
「あ、はい」
「そう。でもそれは僕のせいではないですよ。リスがあなたに読ませているのです」
衣装箱の上で寝ていたリスがいつの間にか立ち上がり、尻尾をぴんと立て、大きな目で私を凝視している。
「でも、あの……」
私はすぐに別の問題にぶつかった。
「文字が読めても、何の事だかさっぱり分からない……」
「それもそうですね」
フェリックス様がうなずく。
おかしな事になった。モリス宛ての文書の内容を、フェリックス様が解説してくれることになったのだ。
「まずは僕の身辺調査ですね。少し前まで王宮で書記官をしていて、真面目で優等生だったと書いてあります」
ん?! 彼の言うことが腑に落ちなくて、私は文書を二度見する。報告書はこう言っている。
「――書記官として宮廷勤めをしていたが、どのような活動をしていたのか、残念ながら情報がない。情報がないのは、彼が問題を起こさない優等生だったからなのか、それとも食わせ者だったからなのか、全くもって不明だ。」
食わせ者。それだ。それに違いない。何せ、ペテン師を悠々とペテンにかけるような人なのだから。相手が並みの人間ならなおのこと。
そしてこの時、私は気づいたのだ。彼の言っていることは嘘ではないけど、事の一面でしかない。用心してかからねば。
紙切れを持つ手に力が入る。フェリックス様は巻紙の上を指さして言う。
「次はここ。僕を誰かと結婚させようとしても無駄だということです」
私はその部分の記述を目で追う。
「――恋愛相手はいたが、いずれも深入りしないで終わっている。それと、あえてルメール伯と結婚したがる家門はないだろう。そうならないよう、アルトード侯がにらみを利かせている。」
ご本人に結婚する気がないし、フェリックス様と結婚したい人もいないのだと、私の頭は理解した。ここで、知らない名前が出て来た。
「アルトード侯?」
「僕の父の生家です。王都でも随一の権力者。父はそこからの分家で、親族連中とは仲が悪いらしく、関わらないようにしてきました」
彼の説明はヴァロン侯が言っていたことと一致する。
「ではそのアルトード家というのは、あなた様がジャンヌ様と結婚することに、反対しないのですか?」
「ヴァロン家は地方の有力者です。都でもその影響力は無視できない。アルトードの脅しは通用しないと思いますね」
「へえ……」
私の知らない権力図の世界だ。私は思わず振り返ってフェリックス様の横顔を見つめる。
彼の端正な顔立ち。優雅な身のこなし。本来ならば私とは口も聞かないような別世界の人。そんな人が私の隣に座っていて、同じ話題で会話をしている。ものすごく不思議な気分だ。
私が巻紙から目を離しているのに気づき、彼は先を促した。
「次に進みましょうか」
「あ、はい」
私は再び並んだ文字を見つめる。慣れないことをしているものだから、だんだんと疲れてきた。
「『リュシアン王子の支援者がネズミ使いを雇って、王子の結婚を阻止しようとしている』、とあります。これは驚いた。僕も初めて知りました」
ネズミ使いというのは、ネズミを使い魔とする術者のことだ。雇われるくらいだから、普通の使い魔が敵わないくらい、強力な魔力を使うのだろうと想像する。……そして私の頭は、これ以上の理解を拒否した。
「全然分かりません。なぜ王子の結婚の、邪魔をする必要があるのですか?」
「いい質問ですね。理由は、支援者が、彼ら自身の選んだ相手とリュシアン王子とを結婚させたがっているからです。ヴァロン侯のご息女ではなくて、もっと扱いやすい、彼らにとって都合のよい相手とね」
フェリックス様がよくしゃべるので、つられて私も余計なことを聞いてしまう。
「すると支援者にとっては、ジャンヌ様がリュシアン王子以外の人、たとえばあなた様と結婚してしまえば好都合ということになりますよね。……まさか、あなた様は王子の結婚を邪魔しに来たのですか?」
「違います」
フェリックス様は即答し、いちいち強調して言う。
「僕はジャンヌと結婚しに来た。そうしたら、たまたま、ジャンヌの隣にリュシアン王子がいた。それだけのことです」
「……」
これは半分くらい本当だと思った。ジャンヌ様が先で、リュシアン王子の件は二次的なもの。でも、たまたまじゃない。彼は王子がいるのを承知で、正面切って城に乗り込んできたのだ。ジャンヌ様の恋人が王子であっても別の男でも、そのようにしただろう。
私はちらりと横目でフェリックス様の様子を窺う。彼は文書を見ているようで見ていない。何やら考え事をしている。
文書にはまだ続きがある。この部分で最後だ。
「――使い魔の関わる事象は解明されないことが多いものだが、フェリックスが記録した文書では明快に結論付けされている。全ての報告書が、だ。偶然とは思えない。もしかしたら今回のネズミ使いの件では彼が役に立つだろう。何事も使いようだ。」
ありそうなことだと思った。フェリックス様はご自身でも使い魔に詳しいと言っていたし。でも、そのことを周囲には言わなかったようだ。
そんなものかもしれない。自分に使い魔がいたとしても、聞かれない限り自分からは言い出したりしないし、人の使い魔のこともわざわざ聞いたりしないものだ。隠している訳ではないけれど、あえて触れない。それは心のどこかに恐れがあって、話題にするのを避けているせいかもしれなかった。
最後の最後に書かれているのは、「君の友より ……」……。ええっと、この部分は人の名前?
「ギィのサインです。本物だ」
フェリックス様が言う。いつの間にか彼の意識は紙の上に戻っていた。
そうか、サインか。偉い人のサインというのは一見すると訳の分からない模様のように見えるものだ。
「ギィというのは誰ですか?」
「ギィは宮廷魔術師です。大変な力を持っている。この城の家令はすごい人物と知り合いですね」
モリスも謎の多い人だ。私がこの城に来た時、すでに彼は家令だった。彼がこの城に来る前のことは、誰も知らない。
リスが短く鳴いた。それが合図だった。もう一度私が巻紙の文字を見つめると、それはいつものように意味の分からない線の連続に戻った。
私はフェリックス様に巻紙を返す。フェリックス様は立ち上がって、衣装箱の上のリスに、巻紙の入ったクルミを返しに行く。
リスはクルミを前足で受け取ると頬袋に押し込んだ。飛び跳ねるようにして走り、あっという間に閉じた天幕の隙間から外に出て行った。
「ネズミ使い、か……」
フェリックス様は立ったままでつぶやく。そして歩いて来ると、迷わず私の隣に座った。




