第1話:救世主の帰還と10平米の現実
前作を読まなくても理解できるようにしています。
が、読まれた方がより深く理解できると思います。
酸性雨が叩きつける窓の音も、ネオンの光が毒々しく滲んだシン新宿の街並みも。
どちらも彼女にとっては等しく無意味なノイズに過ぎない。
ハッカーのミントは、自室のブラインドの隙間から、ミラーグラス越しにその無機質な景色を眺めていた。
彼女の部屋には、ノイズひとつない。完璧に最適化された、血の通わない静寂がそこを支配している。
この10平米の自室こそが世界のすべてであり、完成されたモノクロームの宇宙だ。
サーバーユニットの排熱によって常に乾燥した空気が保たれた、完結したシステム。
彼女は情報の海へと深くダイブするための端末として、自身の存在を究極まで削ぎ落としていた。
「一人で完結していたワタシの人生は、確かに効率的だった(はず)」
夢の中のミントは、無機質な声で独りごちる。
そこでは、彼女自身が巨大な演算装置の一部となったかのように、
機械的に、かつ冷徹にギグをこなしていく姿があった。
他者との関わりはすべて、厳格な契約と利害関係によってのみ成立し、
予測不能な感情という変数は、実行前にすべてパージされる。
この完璧に最適化されたモノクロームの宇宙は、平穏を装いながら、ゆっくりと、
だが確実に彼女のシステムを侵食し、摩耗させていた。
ただ、かつて異世界パンガイアで過ごした頃の自分というシステムが、
密かに違和感という名の「notice(注意)」を表明し始めていた。
このまま、他者を排除した孤独な静寂に安住すべきだろうか?
その問いが、静まり返ったポッドの空気をわずかに震わせた。
※
「はーい、みんな! 今日も世界を可愛くハックしちゃうよ!」
ラムがたまたま触った情報端末のスピーカーから、鼓膜を刺すような場違いに明るい音声が鳴り響いた。
「……うるさいな」
ミントは苦々しく顔をしかめ、重い瞼を持ち上げた。
投影されたウィンドウには、シン・新宿の頂点に君臨するトップ・インフルエンサー。
リリの配信が映し出されている。
最新のARフィルターと音声エフェクターで何重にも装飾され、もはや素顔の断片すら残っていないリリ。
豪華な合成食品を前に虚飾に満ちた愛嬌を振りまいている。
「これ、なに?」
ドラゴン幼女のラムの純粋な問いかけに、ミントはこめかみを指で強く押さえた。
かつてのミントの世界は、情報の海に深く沈み、静寂の中で演算を繰り返すだけで完結していた。
しかし今は、「他者」という予測不能な変数によって、一分一秒ごとに無慈悲に塗り替えられていく。
視界の端では、剣士ヘレンが、甲冑のパーツを一枚ずつ丁寧に磨き上げている。
金属が擦れ合う微かな音は、ミントが愛した静寂を削り取る実体を持った刃だ。
さらに、部屋の隅のわずかな影には、暗殺者ニクスが溶け込むように佇んでいる。
モノクロームの宇宙だったポッドの空気も、いまや完全に変質し、侵食されている。
サーバーユニットの排熱で乾燥しきっていた無機質な空間には、ジャンクなポテトチップスの油分を含んだ匂いと、研ぎ澄まされた鋼のわずかな香りが重なり合い、異質な生活感という名のバグが蓄積されていた。
10平米の部屋の居候3人、彼女たちは不法移民や出稼ぎ労働者ですらない。
ミントが異世界パンガイアに転生し、終わらない中世をバグフィックスしたときの、旅の仲間である。
異世界の旅の仲間が部屋にいる理由。
それはミントが現世に帰還する時に、女神ガイアが一緒に逆転生させたから。
この状況は純粋な報酬か?
女神を論破し続けたミントへの、最高に質の悪い報酬なのか?
ガイアはポンコツなのか、ポンコツのフリをした策士か判断が出来ない。
故に、ミントに神意はわからない。
三人分のスペースと食費が生活を圧迫していることだけは、現実だ。
かつての、死んだように静かで、そして完璧だったモノクロームの暮らし。
それは今となっては、遠い異世界の出来事のように懐かしく思えてならなかった。




