「君はただ黙って書き写すだけの女だ」と婚約破棄された事務官令嬢、未練ゼロで即日退職いたします〜「書類の整理くらい誰でもできる」と笑った元婚約者が泣きついてきても、もう無料であなたの人生は整えません〜
「エリシア・ノートン。君との婚約を、今日この場で破棄する」
王太子殿下の声は、広間の奥までよく通った。
さすが、公式行事で祝辞を述べ慣れている方だと思った。
声量、間の取り方、視線の配り方。
どれも、記録に残すには十分だった。
私は手元の帳面に、今の発言を書き留める。
王暦三百十二年、花月十七日。
王宮主催春季舞踏会、第二広間にて。
王太子ユリウス・レインフォード殿下、エリシア・ノートンとの婚約破棄を宣言。
「……何を書いている」
殿下の眉が、不愉快そうに歪んだ。
「記録です」
「今、この状況でか?」
「はい。殿下が公式の場で発言なさいましたので」
広間がざわめいた。
私の返答が気に障ったのだろう。
殿下は、隣に立つ白いドレスの少女の肩を抱き寄せた。
リリア・ベルク男爵令嬢。
春の祈りの儀式で高い治癒力を示し、ここ半年ほど王宮で聖女候補として扱われている少女だ。
ふわふわした金髪に、潤んだ青い瞳。
会場の灯りを集めるような、華やかな人だった。
対して私は、王宮文書課の事務官である。
そして、王太子殿下の婚約者でもあった。
順番としては、事務官が先だ。
ノートン伯爵家は古い家だが、裕福ではない。
私は十六歳で王宮の行儀見習いとして文書課に入り、会議録と礼状と決裁書類に埋もれながら働いてきた。
王太子妃候補に名前が上がったのは、その後である。
理由は、王妃陛下の一言だったと聞いている。
――ユリウスには、隣で微笑む娘より、執務机を崩壊させない娘が必要です。
そうして私は、王太子殿下の婚約者になった。
ただし殿下は、その意味を少しも理解していなかった。
「そういうところだ、エリシア」
殿下は、私を見下ろして言った。
「母上や宰相は、君の実務能力とやらを買っていたようだが、私には分からない。君はいつもそうだ。感情がない。華もない。ただ黙って、誰かの言葉を書き写しているだけの女だ」
私は、そこまで書いてから、羽根ペンを止めた。
ただ黙って、誰かの言葉を書き写しているだけの女。
なるほど。
殿下は、そうお考えだったらしい。
「殿下」
私は帳面を閉じ、一礼した。
「婚約破棄、承りました」
周囲から、息を呑む音がした。
殿下は、少し拍子抜けしたように目を細める。
「随分あっさりしているな。泣き縋るかと思ったが」
「公式の場でのご決定ですので」
「そうだ。これは決定だ。君のような退屈な女は、未来の王妃にふさわしくない。私の隣に立つべきなのは、民を癒やし、笑顔にできるリリアのような女性だ」
リリア様が小さく身を縮めた。
「ユリウス様、わたくし……エリシア様を傷つけるつもりは……」
「君は優しいな、リリア。だが、気にすることはない。エリシアにも悪いところばかりではない。書類の整理くらいは、よくやってくれた」
会場のどこかで、小さな笑い声が漏れた。
書類の整理くらい。
私はゆっくりと瞬きをする。
「殿下」
「なんだ」
「明日以降、私は王宮文書課へ出仕しなくてよろしいでしょうか」
殿下は、当然だと言わんばかりに鼻で笑った。
「婚約を破棄した女を、私の執務室に出入りさせると思うのか?」
「では、王太子妃候補としての執務補佐も終了ということでよろしいですね」
「ああ。好きにしろ」
「承知いたしました。では、本日付で退職いたします」
「退職?」
殿下が眉をひそめた。
「王宮文書課の方もか?」
「はい」
「なぜそうなる」
「私は、王太子妃候補として殿下の執務補佐を兼ねておりました。婚約破棄によりその立場を失う以上、殿下の執務に関わる文書を扱い続けるのは不適切かと存じます」
「勝手にしろと言っただろう」
「ありがとうございます」
私はもう一度、深く礼をした。
礼をしながら、頭の中で確認する。
明日の朝一番に必要なもの。
東方使節団との会談資料。
財務院から届いた修正予算案。
三日前に殿下が確認を後回しにした孤児院補助金の承認書。
リリア様の聖女認定に関する神殿側の照会状。
来週の王族会議の席次表。
再来週の視察行程。
各貴族家への招待状の返答一覧。
殿下が「あとで見る」と言って積んだままの嘆願書、二十七件。
すべて、私の机の上にある。
ただし、どれも私の私物ではない。
だから持ち出すことはしない。
私は踵を返し、広間を出た。
背後で、殿下が何かを言ったようだった。
でももう、記録する必要はなかった。
*
王宮文書課は、舞踏会の夜でも灯りがついていた。
王宮の華やかな場所に人が集まるほど、その裏側では書類が増える。
誰が出席したか。
誰が欠席したか。
誰が誰に挨拶したか。
どの貴族家が誰を連れてきたか。
贈答品は何か。
食器の破損はいくつか。
招待状の宛名に誤りはなかったか。
明日、礼状を送る相手は誰か。
舞踏会は、踊って終わりではない。
むしろ、終わってからの方が仕事は多い。
「エリシア様?」
文書課の若い職員、マリナが驚いた顔をした。
「舞踏会は……」
「終わりました。私だけ」
「え?」
「本日付で退職することになりました」
マリナの顔色が変わった。
「退職、ですか」
「はい」
「そんな、急に」
「急にです」
私は自分の机へ向かった。
机の上には、色分けした書類の束が並んでいる。
赤い紐は至急。
青い紐は確認待ち。
緑の紐は保管。
白い紐は写しを作るもの。
黒い紐は、殿下がご自分で判断なさるべきもの。
もっとも、殿下は黒い紐の束を嫌っていた。
あれは判断が必要な書類だからだ。
誰かに任せて済ませることができない。
王妃陛下と宰相閣下は、そこをよく分かっていた。
王太子殿下は、儀礼の場では美しく振る舞える。
民の前で笑い、祝辞を述べ、貴族たちの名前も覚えている。
けれど、執務机の上では違った。
決裁を後回しにする。
不都合な書類ほど見なかったことにする。
口頭で約束し、あとで忘れる。
同じ案件を別の会議で別の言い方に変える。
だから王妃陛下は、私を殿下の婚約者にした。
王太子の隣で微笑むためではない。
王太子の執務机を崩壊させないために。
けれど殿下にとって私は、どうやら便利な婚約者でしかなかったらしい。
「引き継ぎはどうされるんですか」
「最低限、書きます」
「最低限……」
「ええ。誰にでもできる仕事だそうですから」
マリナは何か言いかけて、口を閉じた。
私は椅子に座り、白い紙を一枚出した。
引き継ぎ書。
そう書いてから、手を止める。
いつもの私なら、読み手が困らないように書く。
どの書類を、いつ、誰に、どの順番で回せばいいか。
誰に確認すると早いか。
誰は返事が遅いか。
どの部署は朝一番なら捕まるか。
どの貴族家は正式な文書より先に使いを出した方が角が立たないか。
殿下が忘れやすい案件は何か。
殿下の機嫌が悪い時に出すべきではない書類はどれか。
そういうことまで、全部書く。
でも、それは私の仕事だっただろうか。
それとも、私が勝手にやっていただけの尻拭いだっただろうか。
殿下はおっしゃった。
書類の整理くらいは、よくやってくれた、と。
ならば、書類の場所が分かれば十分だろう。
私は淡々と書いた。
一、東方使節団会談資料は第二保管棚上段、青い紐の束。
一、修正予算案は殿下執務机左側、未決裁箱内。
一、孤児院補助金承認書は殿下執務机右側、黒紐の束三番目。
一、神殿照会状は文書課受付台、赤紐の束。
一、王族会議席次案は第三保管棚下段、緑紐の束。
一、視察行程表は私の机の中央引き出し。
一、招待状返答一覧は私の机の右引き出し。
一、嘆願書二十七件は殿下決裁待ち。
そこまで書いて、署名する。
エリシア・ノートン。
王宮文書課事務官。
王太子妃候補。
少し迷って、後ろの肩書きに線を引いた。
王太子妃候補。
それはもう、私の肩書きではない。
「エリシア様」
マリナが泣きそうな顔で立っていた。
「本当に、行ってしまうんですか」
「はい」
「私、困ります。エリシア様がいないと、誰に確認すればいいのか」
「確認先は、引き継ぎ書に書きました」
「でも、エリシア様なら、書いていないことも全部分かっていたじゃないですか」
「それは」
私は少しだけ笑った。
「書類の整理くらいではないでしょうか」
マリナは俯いた。
責めたいわけではなかった。
彼女はいつも、私の仕事を軽く見なかったから。
私は鍵束から、文書課の鍵と、殿下執務室の控え鍵と、保管庫の鍵を外した。
それらを机の上に置く。
最後に、自分の羽根ペンだけを手に取った。
これは父が、私が王宮勤めになった時にくれたものだ。
王宮の備品ではない。
「お世話になりました」
私は文書課の人たちに礼をした。
誰も、笑っていなかった。
*
翌朝、ユリウス王太子殿下の執務室では、朝の九時になっても会議が始まらなかった。
「なぜ資料が揃っていない」
殿下の低い声に、補佐官たちが顔を見合わせる。
「資料は、こちらに」
文書課の職員が青い紐の束を差し出した。
殿下はそれを乱暴に開く。
「これは去年の資料ではないか!」
「いえ、今年の会談資料でございます。去年の合意事項を踏まえた修正版で……」
「なぜ去年の話が混じっている」
「昨年の合意に基づく会談ですので」
「そんなものは聞いていない!」
補佐官の一人が、恐る恐る言った。
「殿下。昨年、東方使節団とは関税率の段階的引き下げについて合意しております。本日は、その二年目の確認でございます」
「誰が合意した」
「殿下です」
「私が?」
「はい」
「覚えていない」
室内が沈黙した。
誰も何も言えない。
これまでなら、私が言っただろう。
昨年、雨月二十二日、第一会議室。
東方使節団代表ウォルク卿より、香辛料輸入税の段階的引き下げを提案。
殿下は初年度三分、次年度五分の引き下げを口頭承認。
ただし正式文書は後日作成とされたが、殿下の決裁待ちで未処理。
そう言えば、殿下は不機嫌になりながらも思い出した。
またか、と呟いて署名した。
でも、今日は誰も言わなかった。
「記録はないのか」
殿下が苛立たしげに言う。
「ございます」
「では出せ」
「どこにあるかは、引き継ぎ書に」
「なら早く出せ!」
文書課の職員が青ざめた顔で出ていく。
だが、記録は見つからなかった。
正確には、見つけられなかった。
王宮の記録は、ただ日付順に並んでいるわけではない。
案件ごと、部署ごと、相手国ごと、関係貴族ごとに控えがある。
同じ一つの会議でも、外交文書として見る場合と、財務案件として見る場合と、王太子の決裁案件として見る場合では、参照すべき束が違う。
私はそれを、全部覚えていた。
王太子妃候補として。
そして、王宮文書課の事務官として。
でも、誰でもできる仕事らしいので、覚えていなくてもできるのだろう。
会談は一時間遅れで始まった。
東方使節団の代表は、最初から不機嫌だった。
「昨年の合意内容を確認できていないと?」
「確認できていないわけではない。ただ、資料の準備に少し手間取っているだけだ」
「ユリウス殿下。昨年、あなたは我々の前で確かにお約束なさいました」
「だから、それを確認している」
「もしや、レインフォード王国では、王太子の発言は記録に残らぬものなのですか」
殿下は口を閉ざした。
残っている。
残っているに決まっている。
私は、残していた。
ただ、殿下の手元にはないだけだ。
*
昼前には、孤児院補助金の件で院長が王宮にやって来た。
「本日中に承認いただけるとのことでしたが」
「そのような約束はしていない」
「いえ、先月、エリシア様より文書でご連絡をいただいております」
「エリシアが勝手にやったことだ」
「ですが、殿下のご署名がございます」
補佐官が書類を探す。
黒い紐の束三番目。
引き継ぎ書にはそう書いてある。
しかし、黒い紐の束は五つあった。
一番目は軍部関連。
二番目は神殿関連。
三番目は孤児院補助金。
四番目は未決裁の嘆願書。
五番目は殿下が見たくないので私の机に戻した案件。
束の順番は、昨日の夜までは正しかった。
でも今朝、誰かが慌ててひっくり返したらしい。
「どれだ」
「確認しております」
「早くしろ」
「申し訳ございません」
「エリシアはどこだ!」
殿下の声が、執務室に響いた。
誰も答えない。
やがて補佐官の一人が、小さな声で言った。
「昨日、殿下が退職をお認めになりました」
「認めたわけではない。好きにしろと言っただけだ」
「では、その通りにされたのかと」
殿下は机を叩いた。
「あの女は何を考えている。引き継ぎもせずに去るなど、無責任にもほどがある」
「引き継ぎ書はございます」
「ならなぜ回らない!」
誰も答えられなかった。
引き継ぎ書はある。
書類もある。
鍵もある。
けれど、仕事は回らない。
それは不思議なことではない。
事務の仕事とは、書類の場所を知っていることだけではないからだ。
誰に先に確認すべきか。
誰の返事を待つと遅れるか。
どの言い方なら角が立たないか。
どの案件は表に出す前に根回しが必要か。
どの期限は本当の期限で、どの期限は催促用の期限か。
誰が「あとで」と言ったら、本当にあとで見てくれるのか。
誰が「考えておく」と言ったら、忘れるつもりなのか。
それらは、紙には書かれていない。
でも、仕事の大半はそこにあった。
*
私はその頃、王都の外れにある小さな宿で、遅い朝食を取っていた。
焼きたてではないパンと、薄い野菜スープ。
王宮の食事と比べれば質素だったが、誰かの予定を気にしながら食べなくていいだけで、ずいぶん美味しく感じた。
昨日の夜、実家には戻らなかった。
ノートン伯爵家は古い家だが、裕福ではない。
私が王宮文書課に勤めることになった時、父はとても喜んだ。
王太子の婚約者に選ばれた時、母は泣いた。
けれど、私はどちらの時も、自分が急に立派な人間になったとは思えなかった。
ただ、任された仕事をしただけだ。
会議録を取り、礼状を書き、決裁の期限を管理し、殿下が忘れた約束を思い出せるように記録した。
王太子妃候補という肩書きがついた後も、やることはほとんど変わらなかった。
むしろ増えた。
婚約者として舞踏会に出て、翌朝には殿下の執務机を片づける。
王妃教育の講義を受け、その足で礼典課へ返答一覧を取りに行く。
殿下の隣に立ち、殿下の失言を記録し、殿下が困らないように根回しをする。
それが私の役目だった。
だから、婚約破棄された今、私は何者なのか分からなくなっていた。
元王太子妃候補。
元王宮文書課事務官。
元婚約者。
元、ばかりだ。
私はスープを一口飲み、帳面を開いた。
退職後にすること。
一、実家へ報告。
二、私物の整理。
三、今後の職探し。
四、王宮からの問い合わせには文書で対応。
五、王太子殿下からの私的な呼び出しには応じない。
そこまで書いたところで、宿の主人がやって来た。
「ノートン様。お客様です」
「私に?」
「はい。馬車でいらっしゃってます。貴族の方かと」
もう来たのかと思った。
王宮の誰かだろう。
早すぎる。
私は帳面を閉じる。
「お名前は」
「クラウス・ヴァルツァー公爵閣下と」
聞き覚えのある名だった。
ヴァルツァー公爵。
北の隣国、アルテンベルク公国の宰相補佐。
冷静すぎる交渉で知られ、王宮では密かに「氷の公爵」と呼ばれている。
先月、東方使節団との会談に同席していた。
レインフォード王国とアルテンベルク公国は、東方交易路を共同で管理しているからだ。
私は急いで身支度を整え、宿の小さな応接室へ向かった。
そこにいたのは、長身の男性だった。
銀に近い灰色の髪。
薄い青の瞳。
表情は乏しいが、姿勢に隙がない。
「突然の訪問、失礼する。エリシア・ノートン嬢」
「こちらこそ、このような場所で失礼いたします。ヴァルツァー公爵閣下」
「王宮にはいないと聞いた」
「昨日付で退職いたしました」
「やはり」
公爵は、驚かなかった。
「婚約破棄の件は、すでに?」
「昨夜の広間に、我が国の大使もいた」
「そうでしたか」
「それで、あなたに確認したいことがある」
「何でしょうか」
「東方交易路に関する昨年の合意記録。あれを書いたのは、あなたか」
私は少し考え、頷いた。
「はい。会議録の原本を作成したのは私です」
「王太子妃候補としてか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「王宮文書課の事務官としてです」
公爵は、わずかに目を細めた。
「そう答えるのだな」
「はい。あの記録は、婚約者として書いたものではありません。職務として作成しました」
「なるほど」
公爵は頷いた。
「関税率の引き下げ、港湾使用料の据え置き、香辛料倉庫の共同管理。三つの案件が同じ会議で話されたにもかかわらず、あなたの記録は参照先が分かれていた。外交、財務、港湾管理、それぞれの部署が必要な箇所だけを読めるようにしてある」
「その方が、後で探しやすいので」
「探しやすい」
公爵は、その言葉を繰り返した。
「あなたは、あれをただの整理だと思っているのか」
「違うのでしょうか」
「違う」
即答だった。
「少なくとも我が国では、あの水準の会議記録を作れる者を、ただの整理係とは呼ばない」
私は言葉に詰まった。
褒められることには慣れていない。
王宮では、できて当然だった。
できていなければ叱られた。
できていても、誰も気づかなかった。
「あなたの記録には、発言だけでなく、決定に至る経路が残っている。誰が懸念を出し、誰が譲歩し、誰が黙ったか。後から読めば、その場の力関係まで分かる」
「……余計なことだと言われることもあります」
「余計ではない。むしろ、そこが最も重要だ」
公爵は一枚の封書を机に置いた。
「我が国の王都に、文書管理院がある。外交、財務、司法にまたがる記録を統合する部署だ。そこに欠員が出ている」
私は封書を見る。
「なぜ、私に」
「あなたの仕事を見たからだ」
「私の仕事を?」
「そうだ」
公爵は淡々と言った。
「人を採る理由として、それ以上のものが必要か」
胸の奥が、少し痛くなった。
王太子の婚約者だったからではない。
伯爵令嬢だからでもない。
未来の王妃候補だったからでもない。
仕事を見たから。
その一言だけで、私はどうしていいか分からなくなった。
「もちろん、すぐに返事をしろとは言わない。婚約破棄の直後だ。ご実家のこともあるだろう」
「はい」
「ただし、王宮に戻るつもりがないなら、選択肢の一つとして考えてほしい」
私は封書に手を伸ばしかけ、止めた。
「閣下」
「何だ」
「私には、特別な魔力も、聖女の力もありません」
「知っている」
「華もありません」
「業務に不要だ」
「社交も、得意ではありません」
「職務内容に含めていない」
「……黙って書いているだけの女だと、言われました」
公爵は、ほんのわずかに眉を動かした。
「それを言った者は、あなたが何を書いていたか理解していない」
私は顔を上げる。
公爵の声は、冷たいほど落ち着いていた。
でも、不思議と突き放された気はしなかった。
「エリシア嬢。国は、剣と魔法だけでは動かない。誰が何を約束したか。何を決め、何を決めていないか。どの書類が、どの人間の責任で止まっているか。それを把握する者がいなければ、どれほど立派な王も翌朝には何もできなくなる」
私は何も言えなかった。
「あなたは黙って書いていたのではない。混乱しないよう、国の記憶を整えていた」
国の記憶。
そんなふうに、自分の仕事を考えたことはなかった。
私はただ、抜けがないようにしたかった。
誰かが困らないように。
後で確認できるように。
会議で決まったことが、なかったことにされないように。
責任の所在が、曖昧にされないように。
それは、仕事だった。
けれど、私自身はずっと、それを雑用だと思っていた。
「ありがとうございます」
私は小さく言った。
「返事は、少し待っていただけますか」
「もちろんだ」
公爵は立ち上がった。
「ただし、一つ忠告しておく」
「はい」
「今日中に、王宮から使いが来る。おそらく、あなたを呼び戻すために」
「……早いですね」
「早い方が傷は浅いからな。彼らに、それが分かっていればの話だが」
公爵は扉へ向かいかけ、ふと足を止めた。
「それと」
「はい」
「あなたの作った引き継ぎ書を見た」
私は固まった。
「王宮に?」
「大使経由で写しが回ってきた。東方会談が止まったのでな」
「……必要最低限しか書いておりません」
「十分だ」
「十分、でしょうか」
「少なくとも、書類の場所は分かる」
公爵は淡々と言う。
「それで仕事が回らないなら、問題は引き継ぎ書ではなく、読む側にある」
私は思わず笑いそうになった。
笑っていい場面ではなかった。
でも、胸の奥にずっと溜まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
*
王宮からの使いが来たのは、その日の午後だった。
予想より遅かった。
宿の応接室に現れたのは、王太子付きの補佐官、ヘンリック卿だった。
いつも眉間に皺を寄せている人だが、今日はいつにも増して顔色が悪い。
「エリシア様。殿下がお呼びです」
「どの件でしょうか」
「どの件、とは」
「私は退職しております。王宮からのご用件でしたら、内容を文書でいただけますか」
ヘンリック卿は唇を引き結んだ。
「緊急です」
「緊急の内容を文書でお願いいたします」
「今すぐ王宮へお戻りください」
「戻る理由がありません」
「殿下のご命令です」
「私は王宮文書課の職員ではありません。殿下の婚約者でもありません。命令を受ける立場にないかと存じます」
ヘンリック卿は、苦々しい顔をした。
以前なら、私はここで折れていた。
相手が困っているから。
急ぎだから。
私が行けば早いから。
でも、それをしている限り、ずっと私の仕事は「勝手にやっていること」になる。
「エリシア様」
彼は声を低くした。
「王宮が混乱しております」
「そうですか」
「東方使節団との会談が紛糾しました。孤児院補助金の承認書も見つかりません。神殿からの照会状も未回答です。招待状の返答一覧も、どれが最新か分からない」
「引き継ぎ書に記載しました」
「場所だけでは分からないのです!」
私は、膝の上で指を組んだ。
「そうですか」
「そうですか、ではありません。あなたが戻らなければ困るのです」
「誰が困るのでしょうか」
「王宮がです」
「王宮のどなたが?」
ヘンリック卿は言葉に詰まった。
「……殿下が」
「殿下は、私の仕事を『書類の整理くらい』とおっしゃいました」
「あれは、舞踏会での言葉のあやです」
「公式の場でのご発言です」
「それをいちいち記録するから、あなたは」
ヘンリック卿は、そこで口を閉じた。
私は静かに彼を見る。
「私が、何でしょうか」
「……失礼しました」
彼は頭を下げた。
おそらく、本心からではない。
でも謝罪として記録するには十分だった。
「戻っていただければ、待遇は考慮されるはずです」
「待遇」
「文書課での地位を上げることも、可能かと」
「婚約破棄は撤回されますか」
ヘンリック卿の表情が凍った。
「それは……」
「撤回されないのですね」
「殿下のお気持ちは、リリア様に」
「では、私は王宮に戻って、元婚約者とその新しいお相手のために、書類を整えるのでしょうか」
「業務です」
「昨日までは、その業務も含めて、私が未来の王妃にふさわしくない理由だったはずです」
「エリシア様、今は感情的になっている場合では」
「感情的?」
私は自分でも驚くほど、穏やかな声を出した。
「私は、昨日からずっと記録に基づいてお話ししています」
ヘンリック卿は黙った。
私は帳面を開く。
「昨夜、殿下はおっしゃいました。『母上や宰相は、君の実務能力とやらを買っていたようだが、私には分からない』と」
私は一拍置いて、続けた。
「さらに、『君は感情がない。華もない。ただ黙って、誰かの言葉を書き写しているだけの女だ』とも。最後に、『書類の整理くらいは、よくやってくれた』と。私はその評価を受け入れ、退職いたしました」
「……」
「書類の整理くらいなら、他の方にもできるはずです」
「できないから来ているのです!」
声を荒げた直後、ヘンリック卿ははっとした顔をした。
私はペンを止める。
「今のご発言を、王宮文書課の正式見解として記録してもよろしいですか」
「……おやめください」
「承知しました。では、非公式のご発言として記憶に留めます」
ヘンリック卿は疲れたように目元を押さえた。
「エリシア様。お願いします。一日だけでもいい。戻って、どれが何の書類か指示してください」
「お断りします」
「なぜですか」
「一日戻れば、明日も戻ることになるからです。明日戻れば、来週も戻ることになる。そうしていつの間にか、私はまた同じ机に座り、同じ仕事をし、同じように軽んじられるのでしょう」
「軽んじるなど」
「軽んじていないなら、昨日のうちに誰かが止めたはずです」
ヘンリック卿は視線を逸らした。
そう。
誰も止めなかった。
殿下が婚約破棄を宣言した時。
私を、ただ書き写しているだけの女だと言った時。
書類の整理くらいと笑った時。
王宮の人たちは、困った顔はした。
でも、止めなかった。
それはつまり、彼らもどこかで同じように思っていたということだ。
エリシアなら、また明日も来る。
エリシアなら、怒らない。
エリシアなら、仕事は仕事として片づける。
エリシアなら、自分が傷ついても、書類の期限を優先する。
そう思われていた。
「ヘンリック卿」
「……はい」
「私は、もう王宮には戻りません」
言葉にしてみると、思ったより怖くなかった。
「必要であれば、正式な依頼書をお送りください。私が対応可能な範囲で、外部文書整理の報酬を提示いたします」
「報酬?」
「はい。退職者への業務依頼ですので」
「あなたは、王宮から金を取るつもりですか」
「労働に対価を求めるのは、不自然でしょうか」
「……」
「これまでは、王太子妃候補としての立場もあり、勤務時間外の対応も無償で行っておりました。ですが今後、その必要はありません」
ヘンリック卿は、初めて私をまっすぐ見た。
その目には、怒りと、焦りと、少しの困惑があった。
まるで、今まで机だと思っていたものが、突然口を利いたのを見たような顔だった。
「殿下は、お怒りになります」
「そうでしょうね」
「本当に、それでよろしいのですか」
「はい」
私は帳面を閉じた。
「その件も、殿下ご自身でご対応ください」
ヘンリック卿はしばらく黙っていたが、やがて深く礼をした。
「……承知いたしました」
彼が出ていった後、私はしばらく椅子から動けなかった。
手が震えている。
怖くなかったわけではない。
王宮を拒むなんて、昨日までの私なら考えられなかった。
でも、戻らなかった。
それだけで、少し息がしやすくなった。
*
三日後、王宮の混乱は噂になって王都中に広まっていた。
東方使節団は会談を一時停止。
孤児院補助金は遅延。
神殿からは聖女認定手続きの不備を指摘。
貴族家への礼状は宛名を二件間違え、うち一件は故人宛てに送られた。
王太子殿下は、予定していた視察に二時間遅刻した。
理由は、行程表の最新版がどれか分からなかったから。
私は宿で、その噂を聞いた。
胸が痛まないと言えば、嘘になる。
孤児院の補助金は、子どもたちの冬支度に関わる。
礼状の宛名ミスは、文書課の若い職員が叱られただろう。
視察先の人々は、殿下を待たされて困ったはずだ。
でも、そこで私が戻れば、何も変わらない。
誰かが失敗する前に、私が気づいて直す。
誰かが怒られる前に、私が謝って整える。
誰かが忘れていたことを、私が覚えている。
それを続けている限り、私の仕事は存在しないことにされる。
私は公爵から受け取った封書を開いた。
中には、正式な採用条件が書かれていた。
アルテンベルク公国文書管理院、外交記録官補佐。
住居支給。
給与は王宮文書課時代の二倍。
勤務時間は朝八時から夕方五時。
緊急対応は別途手当。
休暇、月六日。
補助職員一名を付ける。
私は最後の項目を二度読んだ。
補助職員一名。
私に、補助がつく。
王宮では、私が誰かを補助するものだと思っていた。
王太子殿下の補佐。
文書課の補佐。
王妃教育のついでに便利に使える婚約者。
私の仕事に補助が必要だなんて、誰も考えなかった。
その時、宿の主人がまたやって来た。
「ノートン様。またお客様です」
「王宮の方ですか」
「いえ。先日の公爵様です」
私は立ち上がった。
*
公爵は、前と同じ応接室にいた。
「返事を急かすつもりはなかった」
「分かっております」
「だが、状況が変わった。あなたに知らせておくべきだと思った」
公爵は一枚の文書を差し出した。
王宮からアルテンベルク大使館へ送られた抗議文の写しだった。
私は目を通す。
内容は、私の引き抜きに対する抗議だった。
婚約破棄直後の貴族令嬢を隣国が雇用するのは、レインフォード王国への侮辱である。
エリシア・ノートンは王太子妃候補として王宮の内部情報を知る立場であり、国外に出すべきではない。
即刻、王宮へ戻すよう求める。
私は読み終えて、息を吐いた。
「戻す、ですか」
「あなたは荷物ではない」
公爵が言った。
「我が国からの返答には、そう書くつもりだ」
「ありがとうございます」
「ただし、このままではあなた自身の意思を確認する必要がある。王宮は、あなたが混乱している、または我が国に唆されたと主張している」
「私が?」
「婚約破棄で傷つき、正常な判断ができなくなっていると」
私は少しだけ笑った。
感情がないと言った翌週には、感情的で正常な判断ができないと言う。
忙しいことだ。
「では、私の意思を文書にします」
「できるか」
「得意ですので」
公爵の目元が、わずかに和らいだ気がした。
私は紙を用意してもらい、その場で書き始めた。
王宮からの復職要請に対する回答。
一、私は王太子ユリウス殿下より、公式の場で婚約破棄を宣言された。
二、同日、殿下より王太子妃候補としての執務補佐を不要とする旨の発言を受け、王宮文書課を退職した。
三、退職時、鍵および管理文書は王宮文書課に返却済みである。
四、引き継ぎ書は提出済みである。
五、退職後の業務依頼については、正式文書および報酬条件をもって協議する。
六、私の今後の就職先について、王宮の許可を必要とする契約は存在しない。
七、よって、復職要請には応じない。
最後に署名する。
エリシア・ノートン。
肩書きを書きかけて、手が止まった。
王宮文書課事務官では、もうない。
王太子妃候補でもない。
王太子の婚約者でもない。
では今の私は、何者なのだろう。
公爵が静かに言った。
「肩書きは、空けておけばいい」
「よろしいのですか」
「今、決めなくてもいい。肩書きは、あなたが選べばいい」
あなたが選べばいい。
その言葉が、思ったより深く胸に入った。
私は肩書きを空欄にしたまま、文書を公爵に渡した。
「確かに」
公爵は文面を確認し、頷いた。
「無駄がなく、必要なことはすべて入っている。美しい文書だ」
美しい。
私の作る文書に、そんな言葉を使う人がいるとは思わなかった。
「美しい、ですか」
「ああ」
「ただの回答書ですが」
「ただの回答書を、ここまで明確に書ける人間は多くない」
私は視線を落とした。
顔が熱い。
ドレスを褒められた時より、ずっと困る。
「閣下」
「何だ」
「採用のお話、受けたいと思います」
言った瞬間、怖さがこみ上げた。
国を出る。
王宮を離れる。
元婚約者の庇護も、実家の期待も、全部置いていく。
でも同時に、胸の奥が静かに明るくなった。
「後悔しないか」
「するかもしれません」
私は正直に答えた。
「ですが、王宮に戻る方が、もっと後悔すると思います」
「そうか」
公爵は立ち上がり、私に右手を差し出した。
「では、ようこそ。エリシア・ノートン嬢。アルテンベルク公国文書管理院は、あなたを歓迎する」
私はその手を取った。
大きくて、冷たい手だった。
けれど、その握手は丁寧だった。
所有するための手ではない。
引っ張って連れていくための手でもない。
契約を交わす相手に差し出す手だった。
「よろしくお願いいたします」
私は頭を下げた。
公爵はすぐに手を離した。
その距離感が、ありがたかった。
*
私がアルテンベルクへ発つ日の朝、王太子殿下が宿へ来た。
予想はしていた。
でも、本当に本人が来るとは思わなかった。
殿下は以前より少しやつれて見えた。
華やかな金髪も、今日は整え方が荒い。
隣にリリア様はいなかった。
「エリシア」
殿下は応接室に入るなり、私の名を呼んだ。
私は立ち上がり、礼をする。
「王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
「挨拶はいい。なぜ王宮に戻らない」
「すでに文書で回答いたしました」
「読んだ」
「では、回答は以上です」
殿下の顔が歪んだ。
「君は、そんなに冷たい女だったか」
「殿下は以前から、私に感情がないとお考えだったようですが」
「あれは言葉の勢いだ」
「公式の場でのご発言です」
「また記録か!」
殿下は机を叩いた。
宿の応接室の机は王宮のものほど頑丈ではない。
小さく揺れて、花瓶の水が波打った。
「君はいつもそうだ。言った、言わない。書いた、書いていない。そんなことばかりだ」
「大切なことですので」
「人の気持ちは、記録には残らない」
「そうですね」
私は頷いた。
「ですから私は、言葉と行動を残してきました」
殿下は黙った。
「お気持ちは、記録できません。ですが、殿下が何をおっしゃったか。何を決めたか。何を後回しにしたか。誰に何を約束したか。それは残せます」
「だから何だ」
「それが、殿下のお立場を支えていたのだと思います」
「思い上がるな」
「はい。私も、そう思っていました」
私は静かに言った。
「私は王太子妃候補だから、殿下を支えなければならない。私がいなくても、王宮は回る。私の仕事は、誰にでもできる。私が少し我慢すれば、全部丸く収まる。そう思っていました」
「なら戻ればいい」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「そう思うのを、やめました」
殿下は、初めて不安そうな顔をした。
「エリシア。婚約破棄のことは……悪かった」
その言葉は、思ったより軽く聞こえた。
たぶん、殿下にとっては精一杯なのだろう。
自分から謝ることに慣れていない人だから。
でも、私はもう、その不慣れさまで汲み取ってあげる立場ではない。
「何に対しての謝罪でしょうか」
「何って」
「婚約破棄そのものですか。公式の場で私を侮辱したことですか。私の仕事を軽んじたことですか。王宮が困ってから呼び戻そうとしたことですか。それとも、退職した私を荷物のように戻せと隣国へ抗議したことですか」
殿下は息を呑んだ。
「それは……」
「謝罪を受け取るためには、内容の確認が必要です」
「君は本当に面倒な女だな」
言った直後、殿下はしまったという顔をした。
私は帳面を開く。
「本日、王太子ユリウス殿下、謝罪の途中でエリシア・ノートンを『面倒な女』と評する」
「書くな!」
「では、取り消されますか」
「……取り消す」
「承知しました」
私は線を引いた。
取り消し線。
でも、消えはしない。
殿下もそれを見ていた。
「エリシア」
今度の声は、少し弱かった。
「王宮には、君が必要だ」
私はペンを止めた。
昨日までなら、その言葉だけで戻っていたかもしれない。
必要だ。
その一言が欲しかった。
誰でもいいわけではないと、言ってほしかった。
でも今は、分かる。
殿下が必要としているのは、私ではない。
殿下の予定を覚え、失言を整え、書類の遅れを取り繕い、誰にも見えないところで全部を回す、便利な仕組みだ。
「王宮には、事務官が必要なのだと思います」
「だから、君が」
「いいえ。私である必要はありません」
私は顔を上げた。
「必要なら、人を雇ってください。教育してください。業務を分担してください。期限を守ってください。書類を読んでください。ご自分の発言に責任を持ってください」
殿下の顔が赤くなった。
「君は私に説教するのか」
「いいえ。引き継ぎです」
殿下は言葉を失った。
私は机の上に、一通の封書を置いた。
「こちらは、外部文書整理の見積書です」
「見積書?」
「王宮がどうしても私に過去記録の整理を依頼したい場合の条件です。一日あたりの報酬、拘束時間、対応範囲、追加料金、守秘義務、責任範囲を記載しております」
「金を取るのか」
「はい」
「婚約者だった私から?」
「元婚約者です」
殿下は封書を睨みつけた。
「こんなもの、認められるわけがない」
「承知しました。では、ご依頼は不成立ということで」
私は封書を戻そうとした。
殿下が慌てて押さえる。
「待て」
その手を見て、私は少しだけ悲しくなった。
結局、殿下はまだ分かっていない。
今もなお、私の仕事には対価を払いたくないのだ。
けれど、無料では失いたくない。
「殿下」
私は静かに言った。
「私は本日、アルテンベルク公国へ発ちます」
「許可していない」
「許可は不要です」
「君はレインフォードの貴族令嬢だ」
「はい。ですが、王宮の所有物ではありません」
殿下が口を開きかけた時、応接室の扉がノックされた。
入ってきたのは、クラウス公爵だった。
「失礼。出発の時間だ」
殿下の顔が険しくなる。
「ヴァルツァー公爵。これは我が国の問題だ」
「エリシア嬢は、我が国文書管理院の採用予定者だ。本人が望まぬ引き止めであれば、無関係とは言えない」
「彼女は私の婚約者だった」
「過去形だな」
公爵の声は淡々としていた。
殿下は唇を噛む。
「エリシア。本当に行くのか」
「はい」
「私を見捨てるのか」
その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
見捨てる。
そう言われると、胸が痛む。
私は長い間、誰かを困らせないことを最優先にしてきたから。
でも、ここで戻れば、私はまた自分を見捨てることになる。
「殿下」
私は最後に、王太子を見た。
「私は、殿下を見捨てるのではありません」
「なら」
「私の仕事を、殿下ご自身にお返しするだけです」
応接室が静まり返った。
私は礼をした。
「これまで、お世話になりました」
そして、帳面を閉じた。
もう、この人の言葉を記録する必要はない。
*
アルテンベルク公国へ向かう馬車は、王都の北門を抜けた。
窓の外には、見慣れた街並みが流れていく。
王宮の尖塔。
文書課の小さな窓。
通勤のたびに買っていた焼き菓子の店。
急ぎの書類を抱えて走った石畳。
どれも、昨日までの私の世界だった。
向かいの席で、公爵が書類を読んでいる。
馬車の中でも仕事をする人らしい。
私は膝の上の新しい帳面を見た。
公爵がくれたものだ。
黒い革表紙で、角には銀の留め具がついている。
中の紙は厚く、インクが滲みにくい上質なものだった。
「それは、業務用ではない」
公爵が書類から目を上げずに言った。
「え?」
「あなた個人の記録用だ。業務用は管理院で支給する」
「個人の記録」
「嫌なら使わなくていい」
「いえ」
私は帳面の表紙を撫でた。
「ありがとうございます」
個人の記録。
私はこれまで、誰かの発言を書いてきた。
誰かの予定を管理してきた。
誰かの決定を残してきた。
自分のために、何かを書くことはほとんどなかった。
私は帳面を開く。
最初の一行に、何を書くべきだろう。
王暦三百十二年、花月二十一日。
エリシア・ノートン、レインフォード王国を出立。
それでは、いつもの記録と同じだ。
少し考えてから、私はペンを取った。
本日、私は不要な事務官ではなくなった。
書いてから、胸が詰まった。
不要ではない。
誰でもいいわけではない。
私の仕事には、名前がある。
対価がある。
価値がある。
馬車が揺れる。
公爵が、ふとこちらを見た。
「何を書いた?」
「個人の記録ですので」
「そうか」
公爵はそれ以上聞かなかった。
そのことが、なぜか嬉しかった。
私は窓の外を見る。
王都が遠ざかっていく。
少しだけ怖い。
でも、それ以上に、手元の新しい帳面が重かった。
誰かの言葉を書き写すためではない。
誰かの失敗を隠すためでもない。
誰かに軽んじられた仕事の証明としてでもない。
これから私は、私の仕事をする。
その記録を、私自身の手で残していく。
馬車は北へ進む。
新しい職場までは、まだ少し時間がある。
私は帳面の次の行に、ゆっくりと文字を書いた。
明日から、勤務開始。
ただし、勤務時間外の対応は、別途手当。
書き終えた瞬間、少しだけ笑ってしまった。
向かいで、公爵が小さく咳払いをする。
「何か」
「いえ」
「そうか」
窓の外で、春の光が揺れていた。
私はペンを置かず、もう一行だけ書き足した。
私はもう、無料で誰かの人生を整えない。




