Ⅶー2 もう一つの学校〈蓮華〉
■通告
アイリ事件から数日後、風子が寮に戻ると、寮監を務める教員と上級生の寮長が風子を呼び出した。イヌを手放すか、寮を出ていくか。二人はいずれかを迫った。さらに、寮監は一通の封筒を風子に手渡した。併設校への転校勧告だ。
ここに来てから、ほとんど授業に出ていない。このままでは留年確実と判断されたらしい。一年間、併設校でまじめに勉学に励めば、復帰も可能と書かれている。
「後をつけられるかもしれないから気をつけろ」
リトにそう言われていた風子は、リトの指示通り、わざと満員時の地下鉄に乗り、ある駅で突然降りて、目の前のエレベーターに乗り、別の路線の地下鉄に乗り換えるなど、いろいろと策を弄しながら森の病院に戻った。だれもついてくる人はなさそうだ。
アイリのご機嫌な声が外まで響く。モモがずっと傍にくっついているのでうれしくて仕方ないらしい。体調はもうすっかり良くなったが、モモと一緒にいたくて居座っているのだ。
しおれた様子の風子をいぶかしみ、モモが風子に駆け寄っていく。
くーん。
つぶらな瞳を向けると、風子がワッと泣き出した。
「ど、どうした?」
アイリがたじろぐ。
「寮を出るか、モモを捨てるかだって……モモを捨てるなんてできないよう」
アイリが激怒した。
「あたりまえだ!」
「うん……」
「寮を出るしかないじゃないか!」
「でも……どこに住めばいい? 知り合いもいないし、お金もない……」
アイリも押し黙った。イヌと共に住めて、安い住まいなど、そうざらにあるものではない。
「おまけに、学校をクビになっちゃった……」
「なんだと?」
「欠席が多すぎるし、成績が赤点ばかりで留年確定だから、併設校に移れって」
「併設校……?」
「うん。これ見て」
風子が差し出した封筒から書類を取り出し、アイリはしだいに顔面をひきつらせる。
「〈蓮華〉か……」
「知ってる?」
アイリは頷いた。
寮の生徒たちが一番怖れているのが、蓮華学院中等学校、通称〈蓮華〉への転校だ。アカデメイアの併設校という触れ込みだが、その実は、落ちこぼれ専門の学校で、いったん〈蓮華〉に行くと、アカデメイアにはほぼ戻れない。いわば「エリート烙印」の印をつけられたに等しい。
教育内容はおよそ受験に不向きで、大学進学率も低い。なので、〈蓮華〉に行くくらいならとアカデメイアを自主退学し、別の学校に移る者も少なくない。
転校勧告に従わねば、自主退学しかない。勧告に従えば、少なくとも奨学金は維持されるし、寮生活も保障されるという。
頼る者のない風子に他の選択肢はない。〈蓮華〉への転校だ。
「また、寮か……」
寮はやっかいだ。悔しいが、モモは風子についていくだろう。とすれば、アイリはモモと離ればなれになる。そんなことは耐えられない。
「よし、家探しも兼ねて、見に行くぞ」
■蓮華中等学校
どの不動産屋をあたっても、十五歳の少女二人とイヌに部屋を貸してくれるところなどなかった。保護者の同意があるかと聞かれ、賃貸契約は保護者とでなければできないと諭され、ペットはお断りと追い出される始末。
夕暮れ時、歩き疲れて途方にくれる二人と一匹の目の前に、控えめな看板があらわれた。
――学校法人蓮華学院 蓮華学院中等学校。
風子とアイリは目を見合わせた。
「やけくそだ。行くか?」
「うん!」
二人は走り出した。もう授業は終わったのだろう。校庭にも校舎にも人影はない。校舎はいかにも古く、オンボロだった。人手が足りないからか、玄関正面の植栽だけがかろうじて手入れされていた。
「なんか用かい?」
しわがれた声に振り向くと、一人の老人が竹ぼうきを抱えて立っていた。
「あ……あの……」
もじもじする風子に代わって、アイリが怒鳴った。
「この学校に転校するんだよ。見に来て悪いか?」
老人はアイリの剣幕に驚くこともなかった。
「そうかい。アカデメイアから来る予定の子っていうのは、どっちかな?」と、穏やかに尋ねた。
「わ……わたし……です」
風子がおずおずと手を挙げた。
「そうかい、ついておいで」
「あの……この子もいいですか?」
風子がモモを指さすと、老人は白髪交じりの眉を八の字に変えて、ニッとした。
「もちろんかまわんよ」
老人に誘われ、風子とアイリとモモは校庭の奥に進んだ。
「ここが主な校舎じゃ。向こうが体育館、右は管理棟、左が図書館じゃな」
さらに進むと、かなりおんぼろな建物が見えた。
「あれが女子寮じゃ」
さすがのアイリも絶句した。
「ボロすぎだろっ!」
「そうじゃな。来年はつぶそうと思うておる。いい建物じゃから壊すのは惜しいが、このまま放置もできん。補修資金もないでの。じゃから、いまは無人じゃ」
「む……無人?」
風子とアイリが顔を見合わせた。
「そうじゃ。じゃから、イヌと住もうが、邪と住もうが、勝手にしたらええ」
「見せてもらってもいいですか?」
風子が興奮気味に尋ねた。
「ああ。これがカギじゃ。一部が学校の物置になっておるが、そこ以外はどの部屋でも自由に使ってかまわん。寮費はいらん。じゃが、光熱費の実費だけは徴収するぞ。どうせつぶすまでの仮住まいじゃ。人が住んでおったほうが、建物も喜ぶじゃろう」
歓喜のあまり、風子はアイリと抱き合った。
アイリが老人にたずねた。
「あたしもこの寮に入れるか?」
「あんたは?」
風子が説明した。
「アカデメイアの生徒。寮で隣部屋だった人です。わたしたち、この子と一緒に住むところをさがしているんです」
風子はモモを指し示した。モモはお座りをして、じっと老人を見上げている。老人はもう一度ニッとモモに笑いかけた。
「おお、おお、かわいいの」
老人はアイリを見てから、風子に答えた。
「アカデメイアの生徒なら、入寮資格は満たしとる」
風子が目をキラキラさせながら尋ねた。
「いま入ってもいいですか?」
「そりゃ、かまわん。カギを渡しておくから、あとは好きにしたらええ。授業に出るのは来週からじゃ。また改めて担任から連絡があるじゃろて。それまでにここに住めるようにしておけばええ」
「はいいっ!」
もともとアカデメイアに思い入れなどない。モモとアイリと一緒に住める。それだけで風子はうれしすぎて大はしゃぎした。
跳ねるように遠ざかる二人の後姿を見送りながら、老人は独りごちた。
――こんなにボロぅなった学校でも喜んでくれる子がおるんじゃの……。
■オンボロ寮
リードをはずしてもらったモモは、一目散に部屋の奥に駆けていった。何か見つけたらしい。穴だ。土壁が削られ、小さな穴が開いている。その穴に前足を突っ込もうとしているが、穴の方が小さい。
風子はアイリと顔を見合わせた。そして、肩をすくめた。
古くてもボロくてもいい。モモと一緒に住めるのだから。
寮の二階建ての一階部分には、寮母とよばれる寮管理人の部屋がある。この寮には久しく生徒は住まず、寮母を兼ねた女性教員が一人で住んでいたという。
しかし、しばらく前にその教員は不慮の事故で亡くなり、寮は完全な空き家になった。
管理人室にはカギがかかっていて入れないが、ダイニングには古いが家電製品も食器も一通りすべてそろっていた。ラウンジにはテレビが置いてあり、ソファとダイニングテーブルまである。リビングダイニングとして不足はない。その向こうは学校の物置部屋になっているらしい。かなり厳重な鍵がかかっていて開けられない。
二階には五部屋。四人相当の相部屋仕様なので、それなりに広い。いまどき、相部屋に耐えられる子などいるまい。入寮希望がいなくてあたりまえだ。
さすが寮だ。
カーテンもベッドも寝具もデスクもすべてそろっている。寮母教員がきちんと管理していたのだろう。掃除はされており、寝具もかび臭くはない。
長く空き部屋だったその二室を風子とアイリは使うことにした。二階の一室はアイリ専用のパソコン部屋とした。
階下でのあわただしい音に、天井裏で二匹のネズミが戸惑っていた。
「ガガさま、どーしますか? イヌが来ちまいました」
「うーむ。あのイヌは、妙に鼻が利くようじゃな。わしらのことに気づいたようじゃ」
「アカデメイアにゃ、銀ネコとその子分たちがいて、居心地が悪いから、やっとここを見つけて安心してたのに……」
「まあ、ネコとは違う。イヌはネズミを捕って喰ったりはせん。しばらく様子を見よう。ここはアカデメイアにも近いしの、何かと便利じゃ」
■風変わりな転校生
数日後、風子は担任教師のサキに連れられ、教室に向かった。
教室の中には二十人ほどの生徒たち。一学年一クラスで、廊下から見たどのクラスも似たようなものだった。定員を満たせない学校とは聞いていたが、これほどとは……。学校に活気がほとんどない。
いちばん後ろの座席に座り、窓の外を見ていた少女が、ふと正面を向いた。
風子の心臓が飛び出るほど早鐘を打ち始めた。
――あの子だ!
「そうだな。座席は……」
サキが教室を見渡した。風子が大声を上げた。
「先生っ!」
「なに?」
「いっぱい空いているようなので、どこに座ってもいいですか?」
「はあ。かまわないけど」
風子はさっさと少女の隣の席に座った。
「えへへ、こんちは」
少女は無表情のまま、ごくわずかにコクンと会釈した。
午後の授業を終え、サキは背筋を伸ばした。生徒たちのほとんどは居眠り三昧。注意はしない。どうせ目を開けていたって聞いてはいない。先週まではそうだった。なのに、今日はリクの隣に座った転校生風子が満面の笑みではしゃいでいる。
(アカデメイアから来た子はみんな「人生終わり」って顔をしているのに、あの子はいったいどうしてあんなに元気なんだ?)
風子には「なぜ」が多すぎる。
数学の知識はボロボロだ。なぜ、アカデメイアに入学できた? しかも、「特待生」扱いとは――?
だれもが憧れるアカデメイア女子寮を出て、わざわざあのオンボロ寮に入って嬉々としているのは、いったいなぜ?
イヌと友人と一緒らしいが、それにしてもわからない。ルームメイトは、アカデメイア一の偏屈として有名なあの天才少女アイリだぞ。なぜ?
おまけに、あの無表情で目立たないリクを何かとかまっている。……なぜだ? なぜなんだ!
サキは目眩がしそうな教室を後にした。風子がサキのところに飛んできた。
「古代文化同好会に入りますっ!」
そう宣言すると、クルリと身を翻し、すぐさまリクの許に駆け戻った。
ふたたび懲りずに、リクになんやかやと話しかけている。リクは、とくに嫌がってはいないが、喜んでいるようでもない。それでもめげずに、あのリクにアタックするとは、風子はとんでもない心臓の持ち主かもしれない。
〈蓮華〉には、リクと同じく、外国籍の子が多い。カリキュラムは多言語で組まれており、それぞれの生徒は、母や父の母国語やその文化・歴史を学ぶことができる。
この学校は、そうした多国籍性・多文化性を特徴にしている。それは、言い換えれば、主要言語や文化になじめなかった子どもやそれに反発する子どもも受け入れてきたことを意味する。アカデメイアからの落ちこぼれ生のように、他の学校でついていけなかった子も含まれる。
一方、特別な才能をもつが、集団生活になじめない子も受け入れている。教育に多大な経費がかかるにもかかわらず、収入が乏しく、経営は常に火の車だ。
■ラウの怒り
「よりによって、〈蓮華〉の寮とは……」
アイリの近況を報告したレオンを前にして、ラウ伯爵は低くうなった。
〈蓮華〉の理事長とラウ伯爵は折り合いが悪い。アイリがやってくるまで、ラウ伯爵に楯突くことができる唯一の人物が〈蓮華〉理事長だった。
「あのとき、アイリが助けた子イヌとともに、その飼い主である女子生徒と一緒に住んでいるようです」とレオンが説明すると、「女子生徒?」とラウ伯爵がいぶかしんだ。
レオンはラウ伯爵を正面から見据えた。
「都築風子。……都築凛子の娘です」
ラウ伯爵が目を見開いた。
「都築凛子の娘だと? あの子が〈蓮華〉送りになったことは聞いていたが……。そうか。ふむ、やっかいと言えばやっかいだが、かえって手間がはぶけるかもしれんな」
「都築風子には十分な監視をつけております。アイリとは違って、さほどの能力はないようです。監視にもおそらく気づかないでしょう。なにかあれば、すぐに報告があるはずです」
いつもながら、レオンは自分が一番望むことを先に行ってくれる。ラウ伯爵は満足そうにレオンを見た。
レオンは、アイリを盗み出した仲間がアイリのそばにいると考えていた。よもや風子ではあるまいが、風子に近い人物の可能性は高い。また、風子が凛子の娘だとすれば、十年前に行方不明になった凛子についても何か手掛かりがあるかもしれない。
アイリは見張りにすぐ気づいて裏をかくので、見張りを断念したが、風子は脇が甘そうで容易いだろう。風子を見張れば一石二鳥だ。アイリのこともわかる。ターゲットも絞りやすい。
しかし、ほどなくして、レオンは認識が甘かったことに気づいた。
風子は予想通り、ガードが甘い。難敵は赤毛の子イヌだった。
風子にこちらの者が近づくと、その子イヌが一目散に風子の許に走ってきて、ウーウーと唸り、風子を引っ張って監視役に気づかせようとする。何度試みても結果は同じだった。しかも、あの子イヌは相当賢いようで、眠りクスリ入りの菓子などには見向きもしない。他のイヌへの影響を考えるのか、それを土に埋め、見えなくすることも多い。お手上げだった。
バツが悪そうに報告する部下たちを見ながら、レオンは自然に笑いが込み上げた。十五歳の少女二人に大の男が手も出せないとは。レオンは、自身の十五歳を思い出そうとして、ふと美しい顔を翳らせた。
――そうだった。……わたしには十八歳までの記憶が欠けている。




