Ⅶー1 狙われた少女
■モモの危機
風子は、アカデミアの高度な授業についていけなかった。基本的なことがチンプンカンプンなのだ。毎週行われるテスト結果もさんざんだった。合格点に達したものはほとんどない。
記憶を失ったせいかとも思ったが、古文書学については抜群の成績だ。記憶以前の基礎学力の問題なのだろう。
そして、危機は突然やってきた。モモが寮長たちに見つかったのだ。
少女たちに取り囲まれて、モモは縮こまっていた。茶色のシッポがふわふわゆれる。
少女の一人が、そのシッポを握ろうとした。モモはビクッと身を震わせ、少女たちの足の間を縫って一目散に逃げた。廊下の向こうが大きく開けている。モモはグンと飛び上がり、開いた先へと身を投げ出した。
「きゃあああ!」
モモの後を追った少女たちが動転して口を押さえる。
「うわあ、モモおおおお」
階下にいた風子が絶叫した。
そのとき、すっと風が通った気がした。
ほんの一瞬だった。
風子が我に帰ると、アイリがモモを抱いていた。モモはブルブルと震えている。アイリは階上に向かって叫んだ。
「おまえら、覚えときな!」
三階の窓から下を見下ろした寮長たちは、ホッとした表情を一転させた。
「なによ! そのイヌが勝手に飛び出したんでしょ!」
「なにおう!」
そう言うと、突然、アイリがくずおれた。身を乗り出した寮長たちが顔をこわばらせた。
「え、なに? あたし、何もしてないわよ」
「わたくしだって」
「ど、どういうこと?」
三階の廊下から震える声が響く。
風子はアイリを抱き起こそうとした。アイリがうっすらと目を開ける。
「ラ……ラウはダメ……こ……これを」
アイリは指から金ゴキをはずすと、風子に渡した。そして再び意識を失った。
警備員が駆けつけた。
「救急車!」
風子の大声に、警備員があわててスマホをとった。
アイリの腕から降りたモモが心配そうにアイリの手を舐める。
やってきた救急車は、アイリを乗せ、どこかに消えた。騒然とする中で、風子の声はかき消され、風子とモモはその場に取り残された。
■絶体絶命
救急車のサイレンが消えて、階下の喧噪が去った。三階の少女たちは、再びおそるおそる窓から下をのぞいた。ゆうに十メートルをこえているだろう。すでに風子もモモもいない。
三人は詰めていた息をプハアと吐き出して、互いの顔を見合った。
「ま……まさかよね」
「うん……でも」
「アイリの顔が見えたよね。ここで」
寮長ロジーナが正面を指さす。そして、寮長と二人の副寮長は、ふたたび顔を見合わせた。
「ここを飛び上がったわけ?」
「人間業じゃないわ」
「でも、たしかにアイリが地面から飛び上がって、あのイヌを抱えて、そのまま飛び降りた……」
三人の震えは止まらない。
「わたしたち三人とも見たわよね」
寮長たち三人は、互いが見たことを「事実」として確認しあった。寮長が言った。
「今夜、寮会議にかけるわ。あの二人とイヌを寮から追放しなきゃ。その前に寮監に報告する」
寮監から報告を聞いたラウ伯爵は、興味深そうに目を細め、手入れの行き届いたきれいな指で顎をそっと撫でた。ノックがした。
「入りなさい」
戸口にすっと立つのはレオン。三つ揃いスーツを着こなしたレオンは、今日もスキがない。その姿にラウ伯爵は一瞬目を奪われたが、すぐに優雅な笑みに表情を整えた。
「非常に興味深いことがわかってね」
アイリは、アカデメイア大学附属病院の集中治療室に運ばれた。さまざまな検査がなされるも、気を失った原因がわからない。しかし、血圧も脈拍も生体指標の数値がいずれもかなり低い。医師と看護師があわただしく動いていた。
風子はリトとともに病院に駆けつけた。だが、親族でないという理由で集中治療室に入るのを拒まれ、アイリに面会できない。モモはばあちゃんに預かってもらった。
廊下でガタガタ震える風子の前を、一人の青年が横切った。青年は看護師に二、三言話し、スッと集中治療室のドアの向こうに姿を消した。
(だれ? アイリに身内がいるなんて聞いてない!)
ややあって、青年は医師と連れだって出てきた。ほんの小さな声で相談している。しかし、リトにはすべて聞こえる。すぐれた聴力も口先を読む力も、雲龍忍術で磨く技能の一つだ。
――あの美青年は、以前にレオとともに〈ムーサ〉にやってきた客!
リトはうつむいたように見せかけながら、前方かなり離れたところにいる二人の会話を、風子に聞かせた。
(この子はアカデメイアの宝です。ラウ財団病院に転院させて、最高水準の医療を受けさせたいと副理事長が仰せです。明日の早朝に迎えに来ます)
(わかりました。すぐに手配いたします)
医師が集中治療室に消え、青年は再び風子たちの前を通った。一瞬、青年が風子を見たように思ったが、思い違いかもしれない。風子が顔を上げたとき、すでに青年は美しい姿勢をくずさず、去って行った。
「いくぞ!」
リトが風子を促した。風子が目に涙をためて、動くのを拒む。アイリの側を離れたくない!
「チャンスは今夜しかない。アイリを取られたいのか?」
「どういうこと……?」
「ラウ財団病院は、ラウ財団が経営する超高級セレブ病院だ。一度入ったらそう簡単には会えない。アイリが何をされたって、オレたちには手出しができなくなる」
風子はあわてて立ち上がった。涙と鼻汁が一緒になって流れ落ち、風子はそれをズズッとすすり上げた。
■アイリの秘密
「どういうことだ? アイリの身体について、何も特記事項がないとは」
ラウ伯爵は、手にしたカルテをじっと眺めた。
「奇妙だな……」と、行きつ戻りつしながら思案顔だ。
「うーむ。おかしい」
レオンはじっとラウ伯爵の次の言葉を待った。
「アイリの左手は義手、左足は義足だ。なのに、なぜ、そのことが書かれていない?」
アイリの主な研究分野は、身体機能の欠損や障害を補う技術の開発だ。
アイリは幼いときに火事で大やけどを負い、左手と左足を失った。三年前にここに来たときは、アイリ自身がカトマールで開発した義手と義足を使っていたはずだ。そもそも、その技術こそ、アイリがこのアカデメイアに特別研究員として招聘された理由だった。非常に性能がよく、普通はだれも義手や義足だとは気づかない。
その特許は、カトマールに大きな利益をもたらし、アイリの研究費もその資金をもとにしている。このアカデメイアでも研究は続けていたはずだ。市場向けには、ラウ財団の傘下企業が独占販売をしている。
「あの子が三階まで高いジャンプをしたとしたら、義足を改良したに違いない。しかも、病院で検査しても、義手・義足に言及がない。人間の骨や筋肉、皮膚に限りなく近いものをあの子が作り出したのか? ……もしそうなら、人間の手足を戦闘手段にできるほどの画期的な発明だ。翻訳装置の比ではない」
ラウ伯爵は顎に手をかけ、珍しく眉根を寄せている。レオンは何も発言せず、頭の中で情報を整理していた。
いま、この国で使われているイアホン型の自動翻訳装置は、アイリが開発した研究が基礎になっている。その装置は言語の壁をなくし、アカデメイアの多様性を飛躍的に高めた。特許を持っているのはラウ財団の傘下企業だ。その会社は特許をもとにさらなる開発を行い、量産化を手がけて、ラウ伯爵に莫大な富をもたらしている。自動翻訳システムは、アカデメイアの国家プロジェクトにも採用され、世界中が注目している。
ラウ伯爵は、ブツブツとつぶやいている。
「だが、義足の開発に関する報告はいっさい受けていない。……なぜだ?」
伯爵の目がランランと鈍い光を発し始めた。
「アイリには絶対に気づかれないように調査しろ」
ラウ伯爵にはわかっていた。アイリのことだ。自分が調査し始めたと知ったら、技術を隠し、下手すると破壊してしまいかねない。
「極秘だ。気づかれそうになったらすぐにやめよ」
おそらく、アイリは自分の身体をつかって、人造皮膚や人造骨・人造筋肉の実験をしているのだろう。いつか気が向いたら、成果を公表するかもしれない。しかし、しないかもしれない。アイリの基準は常人とは違う。アイリをその気にさせなければ、すべては灰燼に帰す。
発明成果をフイにすることをもったいないと思わないのがアイリだ。そして、すべての設計図はアイリの頭の中にしかなく、アイリが納得しない限り、永遠に日の目を見ることはない。アイリを死なせるのはもちろん、アイリを怒らせてもならない。
だが、これは千載一遇のチャンスだ。
アイリが気を失っている間に、治療という名目でいろいろ調べることができる。ラウ伯爵は拳をぐっと握った。
■アイリ奪回
アイリの金ゴキは素晴らしい活躍ぶりだった。
集中治療室のデータ管理室に飛んでいき、病院の詳細なデータにアクセスし、飛んで戻って、リトにデータを提供した。
「お、おまえ、スゴい! スゴいよ!!」
リトが感心しきりで、金ゴキの背を撫でる。金ゴキの目が光った。
気を良くしたのか。パソコンに映し出されたデータを、金ゴキが器用に足をつかってキーをタッチし、整理していく。風子には金ゴキが張り切っているように見えた。なんと、そのデータをばあちゃんが分析し、リトに指示を出した。
「ば……ばあちゃん。これ、わかるの?」
リトが口をあんぐりと開けて、ばあちゃんを見つめた。
リトたちが集まっているのは、森はずれの古ぼけた動物病院。院長虚空は、ばあちゃんの遠縁だ。その事実すら、今の今までリトは知らなかった。
「宗主は、デジタルにお強いんですよ」と、虚空がそっとリトに耳打ちした。
ばあちゃんは指示を出して、すぐに小屋にもどった。リトたちの動きを悟られないようにするためという。
リトの動きは素早かった。
アカデメイア大学附属病院の間取りも防犯カメラの位置も、金ゴキの情報でバッチリ把握できた。車は虚空が貸してくれるという。リトは手早く車を清掃車に偽装した。
リトと風子は清掃員に化けて車に乗り込んだ。頼みのクロはそばにいない。アイリがいる部屋はモモの嗅覚に頼るしかなかろう。モモを連れて行くには風子が必要だった。
アイリは、特別フロアに移されており、入退室にはID認証が必要だ。防犯カメラもあちこちに設置されている。天井裏しかない。リトは風子を引っ張り上げ、天井裏を進んでアイリの部屋へ向かった。風子の懐にしのばせたモモが、アイリへの案内役だ。嗅覚を活かしてアイリが眠る部屋を特定する。
「でも……動かして、アイリに何かあったらどうしよう……」
風子はまだためらっている。そんなに凄い病院なら、アイリを任せた方がいいような気がする。リトが耳元でささやいた。
「大丈夫。まかせろ。名医がいる!」
翌早朝、アカデメイア大学附属病院で極秘のパニックが起こった。転院用の車が到着して、アイリを運ぼうとしたら、アイリがいない。アイリのベッドの上に一枚の紙が置かれていた。
「探すな。アイリ」
夜間通用口もその他の入り口もアイリが通った痕跡はない。アイリは忽然と姿を消した。むろん、アイリを乗せた移動ベッドを金ゴキがデータ上から消したことは言うまでもない。
さらわれたかもしれないと、病院関係者が青くなったり、赤くなったりしている。
レオンは紙切れを見ながら顛末を聞き、低くうなった。
「大丈夫でしょう」
さらわれたのなら、何らかの痕跡があるはず。これほどのセキュリティを破ることはそう簡単ではない。しかも、アイリの入院は昨日の午後。だれも知らないはずだし、知っていたとしてもわずか数時間で準備などできるはずもない。
十五歳の少女アイリは、世界有数の大富豪でアカデメイア最高の実力者であるラウ伯爵に挑戦状を突きつけたのだ。この機会にアイリを利用しようとした伯爵は、見事に裏をかかれた。
探したら、ほんとうに失踪しかねない。アイリは莫大な利益を産む最高の道具だ。アイリ自身がそれをわかっていて、自分を武器にラウ伯爵に挑んでいる。引き下がるしかあるまい。
「ここはアイリさんの意向を尊重しましょう。病院も大事にはしないでください」
――これは、長い頭脳戦になりそうだ。
病院のデータは改竄されており、防犯カメラの映像は一時的に止められていたようだ。これらは外部とは切断されている。外からハッキングするのは不可能だ。では、内部? 可能性はある。一応、調べておこう。しかし、ここまで手がかりを遺さずにやってのけるなど、素人ではムリだ。
――まさか、アイリ自身?
アイリという天才科学者は、ラウ伯爵の手法を熟知している。これまでも、彼の手に絡め取られないよう巧妙に立ち回ってきた。他方で、伯爵との関係を切らないよう、時々、彼にエサをやって、自身の経済価値を実感させることも忘れない。
ラウ伯爵は、アイリを支配したいが、アイリを支配しようとするとアイリは逃げる。逃げて二度と戻るまい。アイリにとって、このアカデメイアはあくまで仮の居場所。アイリをほしがるものは世界に多い。ただ、ラウ伯爵を怖れて、手が出せないだけだ。
今回のことでさらにわかったことがある。
いくらアイリがデータを操作する力を持っていたとしても、意識不明の状態で何かできるはずはない。きっと、アイリには仲間がいる。ラウ伯爵からアイリを守れる仲間だ。しかも、ごく短時間で意識不明のアイリを奪い返すことができるほどの実力を備える。何ら証拠を残さずにやってのけるとは、とてつもなくハイスペックと言えよう。
その仲間にアイリがあらかじめ指示を出していたのか?
いや、アイリは凝り性で疑り深く慎重な面はあるが、緻密な計画性には乏しい。どちらかと言えば、激情型で、突発的な発想で動く。対人能力は致命的に低く、仲間がいたとしても、良好な関係が築けているとはとても思えない。
いまアイリの傍にいるのは、あの風子と子犬だけのはず。風子は、寮には戻らず、授業も休んでいるそうだから、アイリの傍にいると見て間違いない。ただし、風子は古文書学の知識を買われてアカデメイアに入学したが、理系とはまったく縁がない。数学の成績はボロボロだ。簡単な二次方程式すら危ない。およそ今回の首謀者ではありえない。
では、いったいだれだ? 病院で見かけた青年か?
彼は、音楽茶房〈ムーサ〉のウエイターだ。たしか、朱鷺理兎。高名な朱鷺要の一人息子で、風子のチューター役のはず。しかし、彼もいまは落ちこぼれ寸前で、大学が募集するアルバイトに片っ端から申込んで学費を稼いでいる状態だ。つい先日、家賃滞納でアパートを追い出され、日本からやってきた祖母とあばら小屋に移ったと聞く。だが、今回、あの二人に妙な動きはなかった。
アイリを奪取した者はおろか、アイリが隠れていそうな場所も皆目見当がつかない。レオンにとって、ここまで謎だらけの出来事ははじめてだった。
伯爵の筆頭秘書が何を言うか、固唾をのんで見守る病院関係者に対して、レオンはこう伝えた。
「どうぞ、お仕事に戻ってください。副理事長にはわたしからお伝えしますので、お気になさらずとも結構です。今回のことは、純粋に副理事長のご厚意によるもの。それを無碍にされたからと言って、お怒りになる副理事長ではありません」
病院長までやってきていたが、それぞれが明らかにホッとした顔をしていた。責任追及などされても、誰を犠牲にできると言うのだ。医師たちも看護師たちもそれぞれが平常に戻った。
レオンは病院を後にして、アカデメイアの本通りに車を向けた。それでも、つらつら考えてしまう。
ラウ伯爵にとって、アイリはたしかに最強の武器になる。だが、両刃だ。ライバルを蹴落とすための武器にもなれば、自分を殺す武器にもなる。伯爵はそれを十分承知している。ゆえに、アイリの価値が経済的なものだけなら、ラウ伯爵はいつでもアイリを排除するだろう。しかし、これまで、どんな窮地に陥っても、彼はアイリを捨てなかった。経済的価値以上のものがアイリにあるからとしか考えられない。それはいったい何なのだろう。
アイリについても、意図も目的もわからない。それは、技術革新でも、金儲けでも、自身の名誉でもなさそうだ。この小さな翻訳機械で救われた人は大勢いる。アカデメイアでは国家プロジェクトとされ、国民全員に配布された。義手・義足も多くの人を苦しみから救っただろう。だが、こちらは翻訳装置とは違う。器具も装着費も高く、貧困層に手が出る商品ではない。いずれにも、稀代の事業家ラウ伯爵が関与している。
多くの言語を駆使できるマルチリンガルのレオンは、自動翻訳装置をほとんど使わない。しかし、念のためいつもポケットに忍ばせて持ち歩いている。レオンはその装置にそっと触れた。自動翻訳装置はAIを使う。会話の内容を特定できないようにスクランブルをかけているが、ターゲットを絞り込めば、再現することも不可能ではない。だから、ラウ伯爵は、利益よりも、普及を重視した。AI翻訳のデータセンターは、ラウ伯爵のグループ企業が請け負っている。もはや国家ですら手を出せない膨大なデータが蓄積されつつある。
森のはずれの動物医院で、虚空はアイリの脈をとった。そばで風子が不安そうにリトを見上げる。
(獣医が人間を診てもいいの?)
(人間も動物だ)
(でも、なんか違うような気がする……)
(まあ、見てろって)
しかし、翌日も、次の日も、アイリの意識は戻らない。モモがアイリの傍を離れない。アイリの居場所がわかるとまずい。風子は寮にも戻れず、学校も無断で休んだ。虚空が、敷地内の離れに部屋を用意してくれた。
■技術
虚空は考え込んでいた。
アイリの左足の膝から下は非常に巧妙にカムフラージュされているが、人工組織であった。おそらく、このことに気づいている者はいないだろう。皮膚・骨・血管・筋肉をここまで人体組織と同じものにできる技術などまだ開発されていないはず。
驚異的なジャンプをしたらしいが、おそらくそれは、アイリのこの足の人工力であろう。想定以上の力を一挙に使ったせいか、膝に炎症(故障)が起きており、そのショックで脳が一時的に過負担となり、気を失ったと考えられる。脳に届きつづける情報をシャットアウトするには、膝にアクセスする神経をいったん切る必要がある。しかし、それをすると、歩けなくなる可能性がある。
アイリは未成年。しかも意識不明。手術には保護者(後見人)の同意が必要。アイリは、カトマールからの留学生で、親はいない。アカデメイアでの後見人は、形式的には、カトマール文化省から派遣された留学生担当の役人。事実上はアカデメイア一の実力者ラウ伯爵とのうわさだ。
軍事独裁を打倒したカトマールは文化国家を自称するが、予算は厳しく、留学生をアカデメイアに送り込んで、特許収入をピンハネしていると聞いたことがある。カトマール留学生の後見人が一律に文化省役人にされていることは、留学生の管理監督を政府が掌握していることを意味する。
かつて、ひそかに病院を訪ねてきたカトマール留学生がいた。彼は、脳に深刻な病気をかかえていたが、後見人と政府に知られることを極度に恐れていた。治療の見込みがなければ、自国に呼び戻され、まともな治療を受けることなく、人体実験の材料にされるかもしれないというのだ。アカデメイア幹部とカトマール政府幹部は良好な関係にあるため、アカデメイア大学附属病院だけは行きたくないと言っていた。
その留学生には、ひそかに恭介を紹介し、手術をしてもらって、快復した。いまはカトマールに帰国し、カトマール大学教員となっている。虚空に深く感謝しており、ときおり情報を寄せてくれている。それによると、カトマールはさらなる経済発展を目指して、文化立国をかかげるが、大統領がめざす方向性は軍事大国化とセットになっており、すぐれた科学者の囲い込みと政権批判的な科学者の排除が起こっているという。ただ、あまりに有名な科学者の排除は目立つので、監視下には置くが、排除まではしていないとのこと。
アイリのうわさは、虚空も耳にしていた。親は行方不明で、幼い時に政府幹部にひきとられたらしい。このため、国家への忠誠心は強いと信じられており、他の留学生と交わることはない。特許料を率先して国家に寄付していることも有名で、カトマールにとっては最高の広告塔となる天才美少女科学者だ。ただ、各種式典には研究を理由にいっさい顔を出さず、マスコミ嫌いでも有名で、人嫌いの変わり者とささやかれている。
アイリを世界的に有名にしたのは、いまの自動翻訳システムの驚異的改善だ。アイリが行っている研究は、身体機能の強化であり、軍事的価値がきわめて高い。アイリはそれがわかっているから、最新の研究を自分の身体を実験台にして行いながらも、その成果を隠しているのかもしれない。とすれば、アイリの開発した成果を明らかにすることは本人の同意がなければ避けるべきだろう。
三日目の朝、風子とモモがアイリの部屋を訪ねると、アイリの顔色がずいぶん良くなっていた。その翌朝、アイリは意識を取り戻した。
「モモ!」
アイリは開口一番、子イヌを呼んだ。
モモはちぎれそうにシッポを振って、アイリにじゃれついた。その傍らで風子がさかんにしゃくりあげている。アイリは風子には目もくれず、虚空が来ても挨拶もせず、リトにも礼を言わず、ひたすらモモを抱きしめている。アイリはモモとの世界に浸りきっていた。
リトが風子にそっとささやいた。
(虚空院長は医師免許も持ってるんだ。人嫌いだから、普段は人間を診ないだけ。まさかアイリが動物病院で手当を受けているなんて、誰も思わないさ!)




