ⅩⅩー2 銀月が欠けた夜
■雨
〈蓮華〉に雨が降り始めた。リクはぼうっと雨を眺めていた。
隣の席で風子が一生懸命、数学の問題を睨んでいる。頭をかかえているところを見ると、やっぱり解けないのだろう。
あの夏の日、櫻館で、風子がみなに言いのけた。
「リクは、雨を呼べるんです!」
雨を呼んだ覚えはない。一度もない。
だが、ウル舎村古領の神殿にルルが入るときに、風子に言われて、雨が降るよう願った。そして、願い通り、雨が降った。しかも大雨だった。あのとき、風子を抱えて神殿に突入するルルの姿がかげろうのように一瞬浮かんで消えたような気がする。
一瞬のまぼろしは、これまでも何度か経験してきた。でも、リクと同じまぼろしを見た人はだれもいない。所詮まぼろし……いつものように、時の流れに抗うことなく呑み込まれていくはかないかげろうなのだろう。
うっすらと記憶がよみがえる。
春の夕刻、ルナ神殿遺跡を見学した帰り、車からリクを降ろしたマイはサキとともに去っていった。アパートに戻ると、大叔父の虚空から電話が入った。飛行機が遅れたと言う。
「どうだ、おまえも出て来んか? 今夜、恭介は宿直だろ? 一緒に晩メシでも食おう」
空港バスで空港に向かった。月が良く見える窓際の席から、虚空が手を振った。
リクは、ぼんやりと月を見上げた。
銀月の中に、フッとマイの姿が浮かんだ。隣に男が立っていた。どす黒い影だった。美しい花園が影に覆われ始めた。一瞬身を固くしたリクが、つぶやいた。
(影を消して!)
突然、月が隠れ、風が強まり、横殴りの雨に変わった。半時間ほど激しく降り続いて、雨はあっさりと止んだ。リクは、ずっと窓の外を見ていた。
虚空が喜んでいる。
「突然の大雨だな。春の嵐かの? ここでメシを喰って正解だったな。大雨に濡れずに済んだ」
虚空はかたわらの大きな荷物をポンポンと軽くたたいた。いつものように、出かけた先の民俗資料を一部譲ってもらったのだろう。虚空の動物病院の一室は、さながら民俗資料館のように、さまざまな展示物で溢れている。
(わたし、何もしてない……)リクは口の中に言葉を閉じ込めた。
リクが食事をする空港レストランが見えるロビーで、風子は腹を空かせていた。
飛行機の到着遅れでようやく空港に着いたものの、出迎え役のリトに連絡がつかない。何度もメールを打っているうちに、大雨になった。風子は窓の外を見た。さっきまで煌々と闇を照らしていた月はもう見えない。
どうしようかと迷っているうちに、うそのように雨が上がり、ふたたび月が現れた。風子は月に見とれた。雨がほこりを洗い流したのだろう。銀月の光は、雨の前よりもはるかに清冽だった。
うっとりと月を見上げる風子の後ろをリクと虚空が通り過ぎた。
「急げ。十時発の空港バスに乗るぞ」
風子はふたたびロビーの椅子に座り込んだ。そばには黒いリュックサック。荷物はたったこれだけだ。
――リトさん、早く来てよう! どこに行けばいいか、わかんないよう!
■黒いリュック
座り込む風子の近くで、一人の美少女が三十歳過ぎの女性と話をしていた。
美少女の手には風呂敷包み。包みを開けた少女の瞳が輝いた。美しい古着だ!
少女の喜びように、女性もまたうれしそうに笑顔を向けた。
この前、〈ムーサ〉でアルバイト・ウエイターをしているアカデメイア院生のカンクローが、耳寄りの情報を教えてくれた。
「知り合いがきれいな古着を持っているんだけど、その処分に困っているらしいんだ。もらったらどう?」
一も二もなく、OKした。空港で働いているというので、彼女の仕事帰りに空港で待ち合わせて、ひきとることになった。
タダでくれると言う。どうせ古着屋に売っても二束三文。それよりはだれかに役立ててもらったほうが着物も喜ぶと言ってくれた。ついでに、フェイクだけどと言いながら、鼈甲風のかんざしもつけてくれた。いつかきっと〈ムーサ〉に見に行くねと約束して別れた。
空港バスの往復代金をひねり出した甲斐があったというもんだ!
さあ、帰りのバスに乗ろうというときに、小さな紙切れが、ひらひらと舞って飛んでいった。
「うわ! まてえっ!」と叫んでも、紙切れは待ってくれない。
紙切れはそのまま手すりを超え、階下に舞い落ちていった。
黒い安物のリュックに忍ばせていた手書きのメモだ。
このまえ、父のマロがいないときに、部屋の壁にかけている神獣の模様入りの鏡を手に取り、その絵模様を描き写した。ルル=オロは、字が読めない。識字障害とかいうらしい。けれども、図や記号なら一瞬ですべて覚える。描き写す必要はない。けれども、その模様は、月の光が当たると微妙に模様を変える。その違いを確かめようと、二枚の絵を描き写したのだ。
ヘタだ……。
オロに画才はない。これが神獣を描いたものだと理解できる者がはたしているだろうか……。だが、誰に見せるものでもない。オロが分かれば問題ない。
アカデメイア大学付属博物館では「シャンラ王室秘宝展」が始まったという。〈ムーサ〉に置かれていたテレビでは、ルナ石版の展示もまもなく始まるという。
――よし! 無料開放日に行って、確かめてみよう。
あの鏡の模様は、なんとなく、テレビで見たルナ石版の文様に似ているような気がする。
マロの持ち物は決して外に出すなとスラに厳しく命じられている。この鏡の模様を描いて持ち出したと知られれば、きっと叱られる。
オロは、やっとのことで拾い上げた紙切れをもう一度見直し、リュックに忍ばせた。
館内放送で、十一時発の最終バスの案内があった。オロはバス停に急いだ。
オロの後ろを風子も走っていた。
リトはやっぱり来ない。このまま空港で待っても、バスがなくなれば、リトが来ることはできない。アカデメイア中央駅に行った方がマシだろう。風子はそう判断した。
少女が一人で座る席の前が一席だけかろうじて空いていた。風子は、リュックを網棚にあげた。網棚には二つの黒いリュックが並んだ。
空港バスはほぼ満席で発車した。途中の停留所で降りていく人も何人かいる。空港に勤めている人たちだろう。風子の後ろの席の少女も途中で降りていった。少女はそのかわいらしい外見に似合わず、黒い不格好なリュックを背負っていた。
バス停を降りたオロは、一目散で深夜一時まで営業しているハンバーガーショップに飛び込んだ。日曜夜だ。客は大勢いる。そこのトイレで少年の姿に戻り、カゴロに借りたバイクに飛び乗った。そして、何食わぬ顔でアカデメイアに戻り、カゴロにバイクを引き渡して、ぼろいアパートに駆け戻ったのである。
〈ムーサ〉でのアルバイトも、カゴロとのつきあいも、まして無免許でのバイク運転など、マロやスラには絶対内緒だ。
――うまくいった!
オロは、いつものようにキキを抱き上げ、狭い自室の布団の中で身を丸めた。
翌朝、空港バスの事故を知った。
――巻き込まれなくてラッキーだったな。
■あの夜のできごと
サキと別れて〈蓮華〉寮に戻ってきたファン・マイは、寮の入り口付近で人影を見つけた。
「教頭先生?」
いぶかしむサキに、教頭は、いつもの人の良さそうな顔で頭を掻きながらサキに言った。
「こんな夜遅くにすみませんな。ちょっと図書館に入りたいんだが、カギを貸してもらえませんかな。いえね、学校のカギが入った小さなカバンを職員室に忘れたみたいでしてな。明日はみんなが来るから職員室に入れるんじゃが、今夜はそういうわけにはいかん」
「図書館のカギですね。いま持ってきます」
寮監であるマイは、図書館司書も兼ねている。図書館のカギは職員室にもあるが、マイも管理していた。
マイは、教頭にカギを渡した。
「でも、こんな夜更けですよ。いったい何があるんですか?」
マイはほとんど教員とはしゃべらないが、学年主任を兼ねる教頭とは話すことが多い。彼は、定年間近のうだつの上がらない地味な教員であったが、人柄は良く、マイやサキなどの若手教員の相談にはよく乗ってくれた。
「いえね。「図書館の怪談」とやらを確認するんですよ。ばかばかしい話なので、どうぞ気にせずに。終わったらカギを戻しにきますよ」
「はい……。でも、何ですか? その怪談って? しばらく前からはやっている「学校の怪談」なら聞いたことがあるんですけど」
「今夜は月蝕でしょ? 月蝕の夜には、図書館の「開かずの階段」が歪んで、異世界につながるっていう、子どもじみた怪談なんです」
「「時空の歪み」ですか?」
「そういうんですかな? わたしにはよくわかりませんが」
「先生、わたしもついていっていいですか?」
「はあ、いいですけど。まあ、二人の方が心強いといえば心強いですし」
二人は夜の図書館に向かった。天空には満月が昇っていた。
教頭が図書館のカギを開けた。電気をつけると、しーんと静まりかえって、不気味だ。
教頭はマイに言った。
「この図書館の図面はないですかな? 階段室の地下を図面で確認したいんですが……」
「ありますよ。取ってきます」
マイはいつも自分が座るカウンターに荷物を置いて、図面を探しに行った。教頭は、マイの荷物を探り、マイがいつも携行する小さな水筒の口を開け、何かを注ぎ込んだ。
マイが戻ってきた。
「ふーむ。この階段の下については、図面に書かれておりませんな」
「そうですね。どうしてだろう?」
「確認してみましょうか?」
二人は図書館の片隅にある入り口に向かった。
マイがドアを開けたとたん、図書館の電気がすべて消えた。大きな雷鳴が轟き始めた。春の嵐だ。
雷光に浮かび上がる階段は奇妙に歪んでいた。その向こうには、見たこともないほど明るく美しい花園が広がっていた。マイは絶句した。
「こ……これは?」
マイはフラフラとその花園に向けて歩みを進めた。
ふと、マイはルナ神話の一節を思い出した。
――ひとたび〈閉ざされた園〉の誘惑に負けたならば、こちらの世界に戻れない。
戻れなくてもいい……。
なのに、花園が黒い影に侵されて消えていく。マイは、花園を目指して走った。
どこからか、か細い声が聞こえた。
――影を消して!
ハッとふりかえると、階段にいた。一筋の光が射した。雷雨のはずなのに、どこかから月光が射し込んでいる。マイの胸にかけた小さなペンダントが光を受けて鋭く光った。そのとたん、マイは一瞬気を失った。
気がつくと、図書館の「開かずの階段」のドアの前だった。ドアにはカギがかかっていて、開けることはできない。外は大雨で、雷の音が大きい。依然として、教頭の姿は見えなかった。
マイは図書館の入り口に向けて走った。カギがかかっていたが、内側からは開けることができた。
やはりだれもいない。暗闇に浮かぶ図書館のコンクリート階段に雨が降り注いでいた。
ちょうど夜九時――雷鳴の中、暗くなった図書館で、教頭は「開かずの階段」の前で立ち止まっていた。マイは、ドアを開けることなく、身じろぎもしない。しばらくして振り返ったマイは、蒼白な顔をして、まるで教頭の姿など見えないように、図書館の入り口に向かった。
あわてて後を追いかけたが、大雨の中にマイの姿が消えた。ずぶ濡れになりながら、マイを探したがどこにもいない。マイの車は元通りの場所に置かれていた。時計を見ると、九時半。マイは寮に戻ったのだろう。教頭はびしょぬれのまま自分の車に戻り、自宅に車を向けた。
マイは車に戻った。あれほどの大雨だったのに、身体はほとんど濡れていない。ルナ神話に言う「時空の歪み」――はじめての経験にマイの心は高ぶっていた。
〈蓮華〉の図書館地下には、かつて古代ルナ王国の斎宮があったとマイは推定していた。これゆえ、数年前の月蝕の夜、図書館にこもり、何か異変がないか、暗闇の中で一晩を過ごしてみた。何も起こらなかった。みじんも変化はなかった。だから、まさか今回の月蝕で図書館に何かが起こるとは夢にも思っていなかった。
神話の通りであれば、今夜のうちならもう一度「時空の歪み」を確認できるかもしれない。ここから一番近いルナ遺跡のある場所――未発掘だが、マイが推定している場所――に行けば、何か手掛かりがあるのでは……。
一縷の望みだった。
ルナ遺跡、特に神殿遺跡は、神話に言う〈緋月の村〉への出入り口――マイはそう推測していた。ただ、その出入り口は常に開いているわけではない。何か特別な条件が揃ったときに開くようだ。その条件が確定できない。
自分のように異能を持たない平凡な身では、〈緋月の村〉に辿り着くなどとうていできまい。ただ、〈閉ざされた園〉ならば、垣間見ることができるかもしれない。
長くそう思い続け、やっと〈園〉の手掛かりを得た。〈園〉に囚われたかった。どうせ、この世に未練はない。だが、一瞬、雨の中にリクの姿が浮かんだ。
――リクが呼んでいる!
やけに身体が重い。だが、自分の身体を気遣うゆとりはなかった。マイは高速道路にむけて車を走らせた。
――そして、マイは一瞬、気を失った。気づくと、自分の車が車線をはみ出し、バスの前に向かっていた。マイは必死でハンドルを切った。
その後、マイが意識を取り戻すことは二度となかった……。