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30.蛇

※ダグラス視点第二弾ラスト

 じれったさに焦げ付くような思いを幾度となく味わいながら、ダグラスはジャンフランコから紹介を受けたホテルとは名ばかりの小さな宿屋の一室で佇む。


部屋の窓から見る景色にどういう訳か胸が騒いだ。


この国には確かに初めて来たはずなのに、船から降りて以来どうも体の奥がざわついて仕方がない。


 マリアがこの地にいると思っているからだろうかと、ダグラスは大きく息を吐き出して冷静さを取り戻そうとした。


ここからはより慎重な行動が鍵を握る。


もし騒ぎなどを起こしそれがマリアを拉致した人間に知られては元の木阿弥になりかねない。


ヴィーンラットが確実にこの件に関わっているのならそれは尚更明白な事だ。


彼らのやり方はどこか遠回りでダグラスと直接ぶつかる意思はなくのらりくらりと逃げられそうだった。


それが作戦かと思うほど苛々とし冷静さを欠かれる。


だがダグラスは父の言葉を思い出し、その度にマリアの姿を脳裏に浮かべた。


 窓の外は何の変哲もない小さな町並みがある、海に面した国らしく部屋にいても微かに潮の香りがした。


見渡してみても特にこれといった建物はない、しかしこのどれかにマリアがいるかもしれない。


「ダグラス様、宿主がご挨拶に伺いたいと申しておりますが」


「通してくれ」


 ドアの向こうにいるエドウィンにそう返答すると、おずおずと少し頭を下げたままで先ほど入口で会った宿主が入って来る。


ひょろりとした体格の宿主は僅かばかりのドアの隙間からさっと身を通したかと思うとすぐにドアを閉め、そしてダグラスの顔を見るなり頭を深く下げた。


「そう畏まらないでくれ。ランドリアーニから紹介を受けたと言っても、彼の恩恵が私にある訳ではないんだ」


「いえ、坊ちゃんからは不手際のないようにと厳しく申し付かっております。その、坊ちゃんから言い付かりました事をご報告に上がったのですが」


「ランドリアーニから?」


 宿主は短く返事をすると、手に持っていた物をダグラスに差し出した。


やや古くなったその紙を受け取ったダグラスは目を通してから宿主に視線を移す。


「何でもあるドレスを作った店をお探しとの事で。この通り小さな国でございますから、ドレスの注文を受けるような店はそう多くはなくそこに記した所ばかりでして」


「いや、ありがとう。助かるよ」


「いいえ、とんでもございません。ただお望みの事が聞き出せますかどうか……」


「何かあるのか?」


 宿主は申し訳なさそうに小さく息をついて頷いた。


彼によればこの国の王族は珍しい事に殆ど国民と同じような生活を営んでいるらしく、この国自体に豪奢なドレスが必要な事はそうない。


店が注文を受けるのは大抵他国の王族や貴族達の物で、ともすればあまり公に出来ないような「贈り物」も少なくない。


つまるところ、ドレスを差し出され誰が誰に贈り物をしたかなどと喋っては飯の食い上げという訳だ。


「それも想定している。ただ僅かな糸口でも見過ごす訳には行かないんだ。私の大事な人の命が関わっているかもしれないのでね」


「あの……」


 宿主は長い沈黙の後、やがて意を決したように顔を強張らせて話し始める。


「この国では先程も申しましたように、店はそう多くはないのです。それは大半の民が自分で裁縫をするからなのですよ」


「秘密裏に請け負っている者がいると?」


「その可能性も、なくはない、と、思います」


 徐々に顔色の悪くなった宿主を見てダグラスは察した。


「誰か当てがいるんだな?」


 ぐっと喉を引き攣らせた宿主は、己のその音を聞いて諦めたのか頷くように頭を垂れる。


「わ、私の古くからの馴染みなのです。いえ、彼は決して知らなかったのでございます!そんな、人の命が関わるなどと……そんな大それた事をするはずが……」


「何故彼がそうだと思うんだ?」


「店を持たぬと言う事はある種制約を受けないと言う事です。つまり、その、公にならぬ場合には法外な報酬を支払われる事も……」


「彼の生活に何らかの変化があったんだな?」


 宿主は全身の力が抜けたようにしながらもしっかりと一つ頷いた。


「少し前から酒場に入り浸るようになりまして、そこで他の者達に酒を振舞う事も珍しくなく」


「彼の居場所は」


「野山通り……ここから東に三番目の通りの霧と言う名の酒場にいます。あの、ボルジャー様、彼は」


 ダグラスは無意識に自分も強張っていた力を解き、宿主に向かって宥めるように首を振る。


「安心していい、彼に咎はない。聞きたい事が聞ければそれでいい」


 宿主ははっと大きく息をつき近くの壁によろよろと凭れかかるとそのまま再び深く頭を下げた。


そして二度三度と頭を下げながら出て行った彼を見送り、入れ違いに部屋に入って来たエドウィンに目を向ける。


「どう思う?」


「嘘は申していないでしょう。先に出向かわせます。ロバートが適任かと」


 護衛の一人である無精髭の彼を思い出し、ダグラスが頷くとエドウィンも頭を下げて出て行った。


閉められたドアから再び窓の外に目をやれば、やはりどこか胸がざわつく。


それも町並みというよりもその向こうに小さく見える森や古い建物を見てだ。


 もしかしたらそんな所にマリアが監禁されていると無意識に感じ取っているのではないかと思ってしまう。


王族が城に篭った生活をしていない所為か、それとも小国だからこそなのか、この国の管理は隅々にまで行き届いているようだ。


ならばマリアを誘拐した人物達は元々この国に精通していると言える。


そうした人間ならいっそ隠れ家のような場所に監禁するなど訳もないと思えて仕方がないのだ。


早計するのは焦っている証拠だと己を諌めてみても、どうにも胸が騒いで落ち着かない状態が続いている。


 ジャンフランコの言葉を思い返してみて、ダグラスは自分に理解出来ない事ばかりだと鋭く舌打ちした。


例えばあの理想郷が聞いた話の通りだとしても、世界に跡地が点在しているというのならこの場所である理由が全くわからない。


勿論人は故郷に憧憬を抱くものだとはわかっているが、それだけに拘るには誘拐というリスクは大き過ぎる。


目的を遂げさせる為にマリアを誘拐したというのならそれを隠そうと人の多い大国を選ぶのが道理だろう。


そう考えてみればやはりリスクを犯してでもこの土地でなければならない何かがあるように思えてならない。


 マリアが生まれた場所かも知れない土地を見渡し、ともすれば牧歌的なこの景色が酷く忌々しいものに見えて来る。


この国で昔何が起こったかなどはわからない、その理由を真に知りたいとも思わない。


ただそんな昔の事に彼女を引き合いに出して欲しくはない。


いつの間にか知っていた言葉を忘れてしまった彼女は、この土地を見て何を思うだろう。


「ダグラス様、お茶をお持ちしましたよ」


 ノックと同時にそう言って入って来たフレデリックにダグラスは苦笑しながら首を振る。


すると彼は大げさに肩を竦めて言った。


「駄目ですよ、こんな時こそ習慣は大事にするものです」


「それなら、少し付き合ってくれないか」


「勿論いいですとも」


 愛嬌のある動きで頷いた彼は手際よくテーブルにお茶の支度をして、ダグラスが座ったのを確認してから斜め前のソファに自らも腰を下ろす。


その歳の割にはしっかりとしている動作の代わり、お茶に添えられた菓子は次々彼の口の中に消えていった。


「君は、マリアの事を学校の先輩から聞いたと言っていたね?いつ、どんな話を聞いた?」


 もぐもぐと動かしていた口でお茶を飲み、彼はダグラスの言葉に初めて迷いを見せる。


「正確には先輩の兄貴からですけど……あの、実はあまりダグラス様にお聞かせするような話でも……」


 だが真っ直ぐに見る視線にやがて項垂れ、フレデリックはさっと背筋を伸ばした。


「ええと、マリアさんは北の村に住んでたんですよね?あの小さな。それに農場の仕事で街に出る事も少なくなかった」


「そうだな」


「ええーと、だから、それで、やっぱりこう、噂になる訳なんですよね、若い男の間では。言い方悪いですけど、田舎の村の女性だから、その、簡単に落とせそうだ、とか……いや!先輩の兄貴も聞いた話ですよ!?」


「まだ何も言っていない」


「そ、そんな今にも人を殺しそうな目で睨んでおいて……」


 ダグラスが続きを促すとフレデリックは渋々と言った体で今度は視線を外して話し始める。


「うぅ……まあとにかく、凄く綺麗なお嬢さんがいるって評判だった訳です。その話の流れでその人がダグラス様の幼馴染みの方だと聞いて、ああなるほどなあと」


「何がなるほどだ?」


「えぇ、まだ話すんですか……わかりましたわかりました睨まないで下さいって。つまり、そんな美人がいる上あれこれ噂になってるんじゃ、恋人くらいいるだろうって話に当然なる訳ですよ。ところがその人はまだ独身だって言うし、幾ら両親を亡くして農場を若い内から継いでるとは言え、やっぱりあれ?と思うじゃないですか」


 それもそうかもしれないとダグラスは苦く思う。


彼女が行く先々で若い男から声をかけられたのは知っていた、性質の悪い連中には裏から手を回していたが人の噂までどうこうする事は出来ない。


だからこそ彼女には真っ当な恋人を見つけて欲しくて躍起になり随分と見当違いな事もした。


「それで、後日どこからかマリアさんはダグラス様が大事になさっている幼馴染みの方なんだと発覚したそうで。あまり人付き合いのよろしくない……おっと失礼。ともかく、そのダグラス様が目をかけていらっしゃる方なら、そんじょそこらの男じゃ相手にもならないなと結論に達した訳です。元々俺はダグラス様付きになるのも人生計画の一部でしたから、こりゃあお目にかかっておかないとなあと、ちょっとコネを使って遠くから眺めたりもしちゃったんですけど。そこで昔ダグラス様とご一緒にいらっしゃった方だったなと思い出しました。あー、これで全部ですよ!」


 一気にお茶を呷ったフレデリックを見ながらダグラスは密かに息をついた。


全く自分の行動は己の心に見て見ぬふりをしていた頃から裏目裏目へと出ていた事を知らされて落ち込まずにはいられなかった。


もしマリアの為と言うのなら最初から節度を持って接していれば、彼女により相応しい男が必ず声をかけたはずなのだ。


口実を作り、言い訳し、それすらも潰してしまっていた自分に嫌悪が募る。


「君は、彼女の事をどう思う?」


「え?あ、いや、そりゃあお綺麗な方だなあと。あんな田舎の村と言うか、貴族でもなかなかいないタイプですよね。ダグラス様はよくご存知だとは思いま――すみません」


 項垂れたフレデリックに苦笑して首を振った。


「確かに、顔貌からしても異国の血が混じっていると言われてもおかしくはなかったな」


「そうなんですか?まあ俺としてはどこかの国の姫君だと言われても疑いはしませんけどね」


 その言葉に奥歯を噛めば、まるで砂を噛んでいるような苦味が口の中に広がる。


いつか彼女はダグラスを絵本の王子様に似ていると言った、そしてあまり似ていなかったとも。


しかしどちらでも、彼女は自分を好きだと言った。


そして今ダグラスもそう思う。


例え彼女が田舎の村娘でも、厄介な国の王女様だとしても。


「いないと思ったらこんな所で油を売っていたのかお前は!」


 ノックもそこそこに飛び込んで来たエドウィンとフレデリックの追いかけっこを眺めながら、これを見た彼女はきっと笑顔になってくれるだろうと思った。









 偵察を終えたロバートから報告を受け、いざ現場に向かう時になって同行を申し出て来た宿主を連れ、ダグラスは一定の距離を保ったまま護衛と共に件の店へと向かった。


「先に私が行って彼を自宅に連れ出します。酒場では目立つでしょうから。彼の家は酒場のすぐ裏手です」


「わかった」


 ダグラスが後ろ手で護衛に指示を送ると、その様子を視界の端に捉えていたらしい宿主は一層憂鬱そうな顔をする。


張られた陣形の中を歩き、益々思わしくない事態に直面したというところだろうか。


最も思わしくない事態に直面し続けているダグラスには、そうであるなら彼の心情を痛感する事が出来た。


 無造作に切り出された石が並ぶ路地の上を歩き、酒場に近付く度に酔っ払いが通り過ぎる。


日が落ち始めると、通りの店のあちらこちらに明かりが灯され石畳が奇妙な形に浮いて見えた。


どこに続くともわからない道だという錯覚に陥る。


このまま彼女を目指し歩き続けて、辿り着く先は一体どこだと言うのだろう。


「その先の店です。待機しているお付きの方は裏手にいらっしゃるんですよね?ボルジャー様はこちらでお待ち下さい。私共は正面から出ますので、追って下さい」


 震える声を潜めた宿主に頷くと、彼はまるで処刑台にでも赴くような面持ちで先の店へと入って行く。


手前の角に身を潜めダグラスがもう一度後ろに合図を送ると僅かばかり人影が動いたのが見えた。


そしてものの数分とかからぬ内に出て来た宿主は、足元の覚束無い男の腕を肩に担いで裏手へと回る。


足を忍ばせてそれを追い、二人が入って行った裏手の建物の中に足を踏み入れたとたん、この国特有の建築法による土の香りが鼻をつく。


土と少しの薬品が混じったようなその香りは、不思議とダグラスの逸る気持ちを落ち着かせた。


 入ってすぐの階段を上がり二階が見えかけた所で一家の部屋に入って行く宿主が一瞬一瞥したのを確認してまた一歩を踏み出す。


閉まったドアの前ですぐ後ろに来ていた護衛に目配せをしてから、ダグラスはおもむろにそのドアを開いた。


中にはぐったりとソファに寝そべっている男と、その傍らで小さくなっている宿主がいる。


宿主は頭を下げた後、膝を折って屈み込み男の肩を強く揺すった。


「トワイド、起きろ。起きるんだ、お客人だ」


 するとトワイドと呼ばれた男はこの国の言葉ではなさそうな悪態をつきながら中央に寄った目を開ける。


そして酔いも吹き飛んだかのようにダグラスを見て勢いよく起き上がると、その反動で頭を抱えてソファに蹲ってしまった。


「申し訳ありません、ボルジャー様。これはトワイド。最近の酒が祟ってこのところはこの通りらしいのです」


 何度も頭を下げた宿主は、ソファの脇に置かれていた水差しからコップに水を注ぎ、その隣に置いてあった小さな紙の包みと一緒に彼に差し出す。


縋り付くようにしてそれを受け取った彼は包みの中の粉と水を一気に口に流し込み、大きなゲップを一つ吐き出すと今度は怯えた表情でダグラスを見上げた。


「誰だ、この男は!ルイ、お前まさか俺を売ったのか!」


「馬鹿を言うな。大体お前を売るなら保安官か自治の連中だ、お前を突き出したところで俺にそんなところから報酬が出ると思っているのか」


「うう……くそ、頭に響く」


「飲み過ぎだ。いいかトワイド、この方の話を聞いてお前は正直話さなきゃならんよ。ランドリアーニの坊ちゃんの言い付けだ」


 再び悪態をついていたトワイドは宿主の言葉に一気に顔を白くさせる。


「どういう事だ、ランドリアーニが関わってるだって?俺は何もしちゃいねえ!」


「私の話に否応で答えてくれればそれでいい」


「この方の大事な方の命に関わるんだそうだ」


 今度はトワイドの喉が潰れたような音を立て、顔は土気色に変色する。


彼は何かから逃れようと首を振り、そしてやはり呻きながら頭を抱える羽目になった。


じっと彼が回復するのを待つと、ソファに項垂れ両手で顔を覆ったまま彼が吐き出すように言う。


「し、知らねえ、俺は本当に何も知らねえんだ。初めて来た客だった。あんたが聞きたいのはそれだろう?」


「どんな人物だった?」


「まだ若造だった、あんましいいナリはしてなかったな。体格はよかったけどよ。顔は憶えてねえ、マスクしてやがったしな。ただ帽子の隙間から髪は見えた、鷲色の髪だった。訛りもねえし、この国の奴だとは思わなかったぜ」


 すっかり血の気の失せた顔で大きく息を吐き出し、彼は確かにドレスと引き換えに多額の報酬を受け取ったと言う。


そしてやはり、ダグラスが持って来た鞄から取り出した傷だらけのドレスを見て彼は仰天した。


「なんだよ、ヤバイ事ならこれ以上関わらせねえでくれ!俺は言われた通りにそいつを仕上げただけだ、それだけだ!誰からの依頼かも誰への贈与品かも何も聞いちゃいねえ!」


「トワイド、全て話せ。お前はもうすでに関わってるんだよ。下手すりゃお前だってどうにかなるかもしれない」


 震える声で言った宿主に、彼は何度も忙しなく顔を撫で、やがて肩を落として白状した。


「そいつに付いている宝石を幾つか失敬した」


「他にも何かあるな?」


 切り込んだダグラスの言葉にトワイドはむずむずと唇を歪め、のそりと体を起き上がらせて部屋の棚まで歩くとその引き出しから何かを探る。


引き出しを閉めた彼は振り返り、ダグラスに向かって手の平を差し出した。


「それは……」


「ここに来た奴から失敬したカフスボタンだ。何か掘り込まれてるから値打ちもんだと思ってよ、いざって時の為に取っておいたんだ。何せ持ち主が後になって探しに俺の部屋まで荒らし回ったくらいだからな、よくわからねえがいいもんなんだろ」


 彼は昔スリをしていたのだと言う宿主の言葉を耳に入れながら、ダグラスは彼の手の平に乗せられたそれを摘み、確かに何かが掘り込まれている丸い面を目の上まで上げる。


特別な金属を使っている訳でもなく、ただ彫られたそれは奇妙な形だった。


長い蛇が上に向かって先割れた舌を突き出しながら体をくねらせ尻尾の先で円を描いている――そんな風に見えた。


どことなく、気味が悪い。


そう、まるでこの持ち主を象徴しているかのような――。


「あ……っ」


「ボルジャー様?」


 ダグラスは大股でトワイドに歩み寄り、手にしていたカフスボタンをその鼻先に突き付けた。


「トワイドと言ったな?これは確かに依頼に来た男がしていた物か」


「ま、間違いねえよ……」


「そんな――」


 まさかと呟こうとして、すでにそんな状況下にない事を思い知り、ダグラスはきつく唇を噛む。


しかしここで手にしたこの事実は、紛れもなく現実なのだ。


「これは頂いて行く。代わりにこれを置いて行こう」


 ダグラスは早口にそう言ってドレスの宝石を数個引き千切るとトワイドに放り、ドレスを突っ込んだ鞄を宿主に押し付けるなり足早にその場を後にする。


慌てて鞄を持った宿主も追いかけて来て、外で待機していた護衛もダグラスの様子に訝しさを隠さなかったが、ダグラスはそれすらも目に入らなかった。


ただ小さなボタンを強く握り締め、すでに暗くなった路地を引き返す。


 頭の中では記憶の引き出しがあれこれと開けられ始めていた。


あれは二十歳頃、ダグラスがエイブラハムについて南の国へ訪れた時だ。


そこで出会った男がいる、自分にも劣らぬほど周囲に女性を群がらせていたその貴族にはあまりいい印象を持たなかった。


貴公子とも呼ばれそうな面持ちでありながら、一瞬ダグラスに向けた目が確かに嘲笑していた。


ただあの時はそれまでだった、特に会話をした憶えもない。


お互い生理的に受け付けない人間はいるだろうと、それで済ませた。


 だが憶えている。


彼が拘り抜いたであろう上質の上着の下から見えた、彼の髪と同じ金のカフスボタン。


そしてそれはまるで、彼の嘲笑に似た蛇らしきものが彫られていた。


「当時は男爵だったな。男爵……ワーシュタイン、……そうだ!」


 エスレムス=ジール=ワーシュタイン、――それが彼の名だった。





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