消える缶ビール。
後日、桜子に聞いてみた。あの影の世界はどんななのか。どうしてあそこに行くことになったのか。
「いわゆる異次元の世界、ね。私が窒息死しなかったことから、あそこは大気組成が違う異世界などではなく、物理がねじ曲がっただけの通常世界だと思うの」
ちょっとよく分からない。成長した桜子は大学生になっていた。おれ達とは違い、まだ妊娠していない。反面教師として役立てて嬉しい。
昼間の太陽光は屋根にさえぎられ、室内は電灯が照らしてくれている。
「あの肉の壁に包まれている間、肉からは体温を感じなかった。かといって冷たいわけでもない。体温を伝えるものがない真空状態。見た目が肉の形をしているだけで、実態は影だと感じた」
感触があるように感じただけで、実際にはどこまでも影。ただし法則はこちらの世界に準じている。ねじ曲がっているだけで。
「またその話?」
桜はこの話題が嫌いだ。普通はそうだろう。おれの場合は、次があっては困るから、対策がてら聞いている。好奇心がないとは言わないが。
「だから。こっちの世界で最強の光源である太陽光は、素晴らしい栄養。相対的に微弱な光であるライトの明かりでは、辛い」
だから、か。スーパープールで桜子がさらわれた時も、真夏の太陽の下。たっちゃんも夕日が綺麗だった。強い光がある時ほど、影も強い。そしてケータイのライトで弱まる。人間が、いきなり酸素の薄い高地に移送されるようなものか。そして高山病のようにダメージを受ける。自然光の中の人工光に意味があった。
「たっちゃんと話したか?」
「ううん。何か話したのかも知れないけど、こっちに出た瞬間に全部忘れてた。お父さんが言うような何人もの人格とかも、全然覚えてないよ」
桜子に分かるのはここまで。影の性質やその世界はおぼろげに覚えているが、なぜそれが人をさらうのか。なぜ人間の影の形をとっているのか。そういうものはこれから調べるしかない。
「また、たっちゃんさんに会えたら、なんて言えば良い?」
「会わなくて良い。・・・もし会ったら、ありがとうって。言っといて」
「うん」
「ほら行くわよ」
「はーい」
今日は桜子の大学卒業祝い。そして国立心霊科学研究所への就職祝いでもある。
あの日からずっとカバンの中に懐中電灯を忍ばせて生活をしている。
おれ達は、解決策をずっと考えていた。が、個人では限界がある。超常現象への興味を維持したまま大人になった桜子は、その方面へ進んだ。おれ達両親としては、公務員になることに異論はない。一般人であれば災いから逃れられるわけでもなし。
この世界には理不尽で不可思議なことがある。宇宙の果て、深海の深層のように、人類が知らないものがまだある。
だがその全てが人の絶望ではない。影に取り込まれてなお、こちらを助けてくれた、たっちゃんのように。
桜子は覚えていないが、あの時たっちゃんと一緒に居た影の中には、孫が生まれそうなおじいさんまで居た。
大人になったら関係ないと思い込んでいたが。おれが行く機会もあるのかも知れない。
その時。何かが出来るように。次もまた、たっちゃんに助けてもらう。そう都合良くはいかないだろう。
次の犠牲者を防ぐためにも、桜子の研究が進めば良い。
そしてお祝いの帰り道。まだ明るい時間にコンビニで買ったものは酒。
「たっちゃん」
桜子も桜も寝静まった後、おれは1人で酒を開ける。2つ。
「あの時。知識があれば、懐中電灯で影を照らすぐらい、当時のおれ達にも出来た。大人にその知識が周知されていれば、必ず助けられた」
ビールを飲み干す。そしてもう一本を開けると、わずかに軽く感じられた。
「桜子の子供が生まれるまでには、救助方法を確立しておきたい」
これは完全に私的な願いなので、誰にも言っていない。わがままだ。だからたっちゃんにだけ言う。
「たっちゃん。必要なら日本人1億人ぐらい持ってって良いから。桜と桜子だけでも助けてくれな」
他人を守りたいと思っていないわけではないが。優先順位がちょっと違う。
一口飲んだら、2本目のビールは空っぽになってしまった。
「んじゃ、おやすみ」
空き缶を片付けて、歯を磨いて。電気を消した。
常備灯の照らすおれの影が、ゆっくり手を振った。