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第九話 「字が汚いんです」


 身内の恥を晒すようで恐縮ですが、多くの医師は、字が決して綺麗ではありません……はっきり言って、汚い方が多いと言われます。忙しいので殴り書きになるため、さらに汚くなってしまいます。

 カルテ(診療録)は、医師だけでなく、看護師や薬剤師、臨床検査技師や医療事務も使うので、字の汚い医師は顰蹙ひんしゅくを買います(注1)。面倒くさがって書かない医師は、ましてそうです(注2)。


 一般人にはカルテは読めない、というのは有名な話です。ひと昔前のTVドラマや映画では、ネタになるほどでした。主人公が不治の病に侵され、それを知らされていない本人やその恋人が、ベッドサイドにうっかり忘れられていたカルテを見つけ、隠れて読もうとするのですが、読めない(注3)。専門用語を調べて事実を知り、ショックを受ける――という。

 あれは何語で書いてあるのか? 主人公に知られちゃいけない病気とは? 視聴者の好奇心を煽って盛り上げる場面です。え、日本語で書いてありますよ、一応……(何故か、目をそらす)。


 正確には、日本語と英語の一部と、略語の混在です。


 日本の西洋医学は「蘭学」に代表されたように、オランダ語で輸入されました。その後、明治政府はドイツ医学を模範とし、大学医学部ではドイツ語で授業を行うようになりました。森鴎外の留学先は、ドイツでしたね。今でも、年配の医師の中にはドイツ語を使う方がおられ、用語にもドイツ語が残っています。カルテKarteとかクランケKranke(患者)とか、オーベンOben(指導医)とか、クレブスKrebs(癌)とか……。

  現在の医学教育は、ドイツ語に偏ってはいません。というか、ごちゃ混ぜです。――大学で習う第一外国語は英語、第二外国語はドイツ語かフランス語を選択。解剖学用語はラテン語と英語で暗記します(生物学の学名はラテン語が原則なのです)。「いい訳語がないんだよ〜(教授談)」という理由で、ウイルス学や免疫学、脳神経外科の講義と試験は英語でした。外科と整形外科の年配の教授が使っていたのは、ドイツ語……。

 研究は英語圏での発表が主なので、英語の用語が多量に使われています。論文は、国内向け以外は全て英語表記。カルテは医師以外も使うので、日本語で書くよう指導されます。しかし、上述のドイツ語の名残や英語、省略された用語が混じり、わけのわからないことになっています。


 たとえば……


 基本、「SOAP法」で書くように、と言われます。ほら、いきなり略語です。

  S=Subject(主観的情報):患者さんの言っている事

 O=Object(客観的情報):身体所見や検査データ

 A=Assessment(判断、評価):SとOから考えたこと

 P=Plan(治療計画):Aから今後行う事柄、という内容です。

 こんな風に書きます。


S)先生、しんどいです。

O)体温38.5度

血圧120/80mmHg 脈拍74/分、 SpO2 98%(血中酸素飽和度)

血液検査 WBC 13000(白血球数)、CRP 4.8(炎症反応)

胸部X-p(レントゲン)右下肺野に網状影


A)肺炎

P)入院。抗生剤投与。


 ――綺麗に書いてあれば良いのですが。書いていない、文字が汚くて解読できない、ということがあります。


 処方箋になると、さらに混沌としています。


Rp) メチコバール 3T/N

  トランサミン 2T/MA

  セルベックス 1C/T

  レンドルミン  1T/Vds


Rp:  レシピRecipeの略語です。フランス語……ラテン語由来。

3TのT: 錠剤Tabletsの略です。英語ですね。

/N:  毎食後、という意味。nach dem EssenのN……ドイツ語由来。

/MA:  朝食後・夕食後、という意味。Morgen und AbendのMとA……ドイツ語。

1CのC: カプセルCapsuleの略です。英語。

/T:   昼食後、という意味。ドイツ語の昼Tagから。

/Vds:  眠前、という意味。ver dem Schlafengehenの略……ドイツ語。

 

 もはやいったい何語なのか……。おそらく、ドイツ語だった先人の表記法に、後輩たちがラテン語や英語のアレンジを加え、慣用化していった結果でしょう。こんな書き方、日本の医療業界以外では通じません。(メチコバール、トランサミン、セルベックス、レンドルミンは薬剤の名前です。)



 病名は、多くは英語、しかも省略した言葉で書かれています。これも、書く時間を短縮したいというのが、主な理由です。

 例えば……


 筋萎縮性側索硬化症 Amyotrophic Lateral Sclerosis:ALS

 慢性炎症性脱髄性多発性神経炎 Chronic Inflammatory Demyelinating Polyneuropathy:CIDP


 日本語(漢字)や英語で書くと長いうえに解りにくく、ALS、CIDPなどと書く方が簡単だということは、お分かりいただけると思います。


 先日、ある当直医が、救急車で来院された方のカルテを書く際、「救急車」なのか「急救車」なのかで迷った挙句、「QQ車」と書いていました。急いでいるから、もう、何でもありです。


 以上のような、業界でしか通じない用語、書き方が羅列してあるために、カルテは一般の方には読みにくいのです。

 でも、それ以上に問題なのは、やはり、どうしようもなく字が汚い、ということだと思います……(注4)。








(注1)ひんしゅくを買う

 「自分の言動が原因で、人から嫌がられ、軽蔑されること(大辞林 第三版)」

 文字で見るとウンザリしますね。顰蹙。自分で書けない漢字は使わない方がいいと考えていますが、薔薇ばらはともかく、これは書けません。本当に顰蹙ひんしゅくものです。


(注2)面倒くさがって書かない

  診療行為を行った場合、カルテを書かなければならないと、医師法で定められています。義務なんですよ。書かないと怒られます。


(注3)ベッドサイドにうっかり忘れ

 フィクションですので何でもあり、ですが、これは無理があるだろうと思います。あんなに大きなモノ、どうしたら「うっかり」忘れられるのか……。回診の時にはカートに載せて運びますので、普通は忘れません。


(注4)字が汚い

 最近は電子カルテになっているから大丈夫、と思われるかもしれませんが……。

 電子カルテは、厚生労働省の指導により全国に導入されました。問題は、医療従事者は、誰もブラインドタッチの訓練をしていない、ということです。パソコンなどなかった時代から仕事をしてきた年配の医師たちは、操作が苦手です。指一本で入力している方さえいて、やたらと時間がかかります。もうね……入力するだけで精一杯なんですよ……(涙)。さらにそこへ、誤変換という闇が襲いかかります。

 かくして「あの医者は、パソコンの画面ばっかり見て、ちっとも患者を診ていない」という苦情が寄せられることになりました。そして、やっぱりろくに書いていない(書けない)、読めないカルテが出来あがります。

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