最終話
正義を代行してきたはずの三人が知る、衝撃の事実。そしてその先に見えてきたのは、あまりにも大きすぎる影だった——。
事件から半年が過ぎた、ある雨の夜のことだった。
妙子は控室で、古い革張りの帳簿を繰っていた。
それは客の相談内容を記した表向きの予約帳ではない。妙子が長年、書き継いできた、「依頼人」の背景を記録するための裏帳簿である。
吉沢亜矢の名の欄を開く。そこには、当初聞き取った身の上話が、簡潔にまとめられているだけだった。妙子はふと、この案件だけ他の依頼と比べて、裏付けの調査が甘かったことに気づいた。
津田を追い詰めることに集中するあまり、依頼人自身の素性までは、深く洗っていなかったのだ。
「夏美さん、ちょっと来てもらえる」
妙子の声に、夏美が控室に入ってきた。
「どうしました」
「吉沢亜矢さんについて、もう一度、身元を洗い直してほしいの」妙子は帳簿を閉じながら言った。
「気になることがあって」
夏美は少し意外そうな顔をした。「今さらですか。事件はもう片付いているのに」
「何か嫌な予感がする…」妙子は静かに言った。
「本当に片付いたのか、確かめておきたい」
数日後、夏美は青ざめた顔で控室に飛び込んできた。ノートパソコンを開くなり、妙子と関口の前に画面を突きつける。
「妙子さん……大変なことが分かりました」
「何が分かったの」
「吉沢亜矢という人物、戸籍上どこにも存在しません。指紋も、住民票も、すべて偽装でした」夏美は震える声で続けた。「本当の名前は、東亜由紀子。サンライズ・ファッションの主要取引先である繊維商社『東亜物産』の、社長令嬢です」
関口の顔から血の気が引いた。「東亜物産といえば……津田に、会社を安く買い叩かれかけていたところじゃないか」
「その通りです」夏美は頷いた。「由紀子は、父の会社を守るために、身分を偽って津田に近づき、意図的に関係を持ち、そして自らの意志で『被害者』を演じていた可能性があります」
妙子はしばらく黙り込んでいた。「つまり、私たちが調査で見つけたと思っていた証拠の多くは……」
「最初から、由紀子側が仕込んでいたものだったかもしれません」夏美は答えた。「秘書の買収も、送信履歴の改竄も」
「くそっ」関口が舌打ちした。「俺たちは、正義を行ったつもりで、誰かの復讐の道具にされていたということか」
その時、妙子の指が、夏美が持ち帰った由紀子の調査資料の余白に添えられた、見覚えのない走り書きに気づいた。
「これを見て」
夏美が覗き込んだ。「『東亜物産もまた、津田の後ろにいる者に利用されただけの、駒のひとつに過ぎない』……妙子さん、これ、誰が書いたんですか」
「分からない。でも、この筆跡には、見覚えがない」
夏美は急いでノートパソコンを開き、香港の口座の情報を再度洗い直し始めた。しばらくして、彼女の顔から血の気が引いた。
「妙子さん……あの香港の口座、津田個人のものじゃありません」
「どういうこと」
「もっと大きな……名前も分からない、いくつもの企業と政治家に繋がる、資金の巣です。津田は、その一部を任されていただけの、末端に過ぎませんでした」
関口の顔も強張った。「つまり、俺たちが今まで潰してきたのは、しっぽの先だったということか」
「そういうことになる」妙子は静かに資料を閉じた。
「妙子さん、どうします」関口が尋ねた。「この先も、続けるつもりか」
妙子は答える代わりに、控室の隅に積まれた、これまでの依頼人たちのファイルの山を、じっと見つめていた。
その時、階下から呼び鈴が鳴った。閉店の札はとうに出してある。
「妙子さん」と夏美の声が緊張を帯びる。
「今日、予約は入っていません」
軋む階段を、誰かが一段ずつ上ってくる足音がした。ゆっくりと、確かめるように、まるでこちらの覚悟を試すかのように。
関口が無言で立ち上がり、扉の脇に身を寄せた。夏美はノートパソコンを閉じ、息を潜めた。
妙子はカードの束に手を伸ばしかけ、そして止めた。今夜めくるべきカードは、もう占いのためのものではない。
控室の窓の外、雨に煙る下町の灯りの向こうに、彼女は見えるはずのない何かを見た気がした。都市の底に張り巡らされた、無数の糸。その糸の先で、これまで相手にしてきた津田のような小物とは比較にならぬ、巨大な意思がゆっくりと、こちらへ眼を向け始めている——。
足音が、控室の扉の前で止まった。
「……どちら様でしょうか」
妙子の声に、答えはなかった。ただ、扉の向こうで、静かに息を潜める気配だけが伝わってくる。
完




