【第1話】占い師と消えた正義
下町の古びた雑居ビルにひっそりと佇む占い館。そこを訪れた一人の女の告白から、静かで冷たい復讐劇が幕を開ける——。
京成電鉄の高架下を抜けた先、戦後の面影をわずかに残す雑居ビルの二階に、その店はあった。看板の文字は色褪せ、「星辰堂」という金文字がかろうじて読み取れる程度である。階段の踏板は歩くたびに軋み、踊り場には隣の中華屋の油の匂いが染みついていた。
堂本妙子は、その二階の三畳ほどの控室で、常連客の予約帳を繰っていた。四十二という歳には見えぬ、化粧気の薄い、しかし人を見透かすような眼をした女である。窓の外を都電の代わりに走る都バスが通り過ぎるたびに、ガラス戸がかすかに震えた。
その日の最後の客は、予約のない飛び込みだった。
「あの……占っていただけますか」
戸口に立った女は、吉沢亜矢と名乗った。
二十八歳。化粧の下に隠しきれない疲労が、目の縁に薄墨のような色を落としている。
「どうぞ、お座りください」妙子は静かに椅子を勧めた。
「今日は、どういったご相談で」
亜矢は座ると、しばらく俯いたまま黙っていた。妙子はそれを急かさなかった。やがて、絞り出すような声で言葉が始まった。
「仕事のことで……いえ、仕事だけじゃなくて。全部です。全部、おかしくなってしまって」
「順番に聞かせてください。まずは、お仕事のことから」
「大手のアパレル企業で企画をしていました。津田という常務に、目をかけてもらって……」
「津田さん、ですか」妙子の眼が、わずかに細くなった。「その方とは、どういうご関係で」
亜矢は言葉を選ぶように、視線を泳がせた。「最初は、仕事を評価してもらえて、嬉しかったんです。でも、食事に誘われるようになって、結婚をほのめかされて……気づいたら、身体の関係になっていました」
「それで」
「私が半年かけて作った企画が、いつの間にか津田さんの発案になっていました。役員会で賞賛されたのは、彼でした」
妙子は小さく頷いた。「よくある話です。残念ながら」
「それだけじゃないんです」亜矢の声が震えた。「機密情報が競合他社に漏れたことになっていて、その証拠の送信履歴が、私のIDから発信されたことになっていて……私、身に覚えがないのに、懲戒解雇されました」
「警察には」
「相談しました。でも……」
亜矢は乾いた笑いを漏らした。「津田は、政治家のパーティーにも顔を出すような人です。会社の顧問弁護士も、警察の上の方も、みんな津田の味方なんです。誰も、私の話なんて聞いてくれません」
妙子はしばらく黙って、亜矢の顔を見つめていた。
「吉沢さん。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「あなたは、今日ここへ、何をお求めにいらしたのですか。慰めですか。それとも——」
亜矢は顔を上げた。その眼には、これまでとは違う、ひどく静かな光が宿っていた。
「天罰が下ってほしいんです。法律なんて、あの人には通用しない。だから……占いでもいい。何でもいいから、あの人が壊れていくところを、見たいんです」
妙子は黙って卓上のカードを一枚めくった。逆位置の「正義」。彼女はしばらくそれを見つめてから、静かに言った。
「星の並びが、彼に天罰が下ることを告げているわ」
亜矢の眼に、初めて小さな涙が滲んだ。「本当に……そんなことが」
「大丈夫。今日はもう、お帰りになって。詳しいことは、また改めてご連絡しますから」
亜矢が帰った後、妙子は控室の奥にある電話を取り、短くダイヤルを回した。
「関口さん。仕事よ」
受話器の向こうで、しばらく間があった。「また厄介な話か」関口の低い声が返ってくる。
「厄介だからこそ、私たちの出番でしょう」
「……分かった。夏美にも連絡しておく」
〈次回予告〉
妙子の依頼を受けた元刑事・関口と、天才ハッカー・夏美が動き出す。津田芳彦という男の裏側に、静かに網が張られていく——




