082 フィロメラのとの結婚から二十年後② フィクス37歳
十年という歳月をかけた陸と海の物流網が領内にくまなく張り巡らされたとしても、そこを流れるべき荷が乏しければ、巨費を投じた仕組みもやがて立ち行かなくなる。街道の整備と定期便の運行と同時期に、フィクスは、エリミオン領内の生産に地味であるが重要な一手を打った。
派手な大増産の号令などではない、日々の作業現場における見直しだった。かつてエウメロスの窯場において、工程管理担当と共に築き上げた「現場現物」「5S」「標準化」といった規律が、領内のあらゆる工房へと静かに移植されていったのである。
作業場を掃き清め、散らかりがちな道具や原料の定位置を定め、誰が作業台に立っても同じ手順を踏めるよう工程を整える。劇的な技術革新が起きたわけではなかった。しかし、乱雑だった作業場から無駄な動きや資材の放置が消え去り、手順が明確に示されたことで、焼き損じや革の裁ち落としといった不良は目に見えて減少し、仕上がる製品の品質も安定していった。素焼きの壺にしても、亜麻の布や革の鞍にしても、「エリミオンの品は高い質で安定している」という評判が、日々の地道な積み重ねの中から育まれていったのである。
この生産性の底上げは、エリミオンから外の世界へ送り出される品々の種類をも大きく変貌させた。
かつてのエリミオン領では、港から船へ積み込まれるのは、収穫されたばかりの小麦や刈り取った羊毛といった、加工前の一次農産品が常であった。だがいまや、ナバルノの船着き場から送り出される荷のほとんどは、丹念に織り上げられた染色織物、狂いなく組まれた木工品、丁寧に鞣された皮革製品、そして均質な焼き上がりの窯業製品といった、高い付加価値を与えられた加工品ばかりとなっていた。
外へ売り出すのは手間をかけた工芸品とし、生命の源脈である穀物や油などの農産物は領内の備蓄へと手堅く回す。将来の飢饉や天災に備え、領外への食糧流出を抑え込むというフィクスが当初から掲げていた構想は、工房の改善という静かな内政によって、着実にその実を結んでいた。
しかし、領内の経済が独自の陶貨「オル」を血液として力強く拍動し始める一方で、海を越えた取引の現場には、依然として古代交易ならではの分厚い壁が立ちはだかっていた。
エリミオンの領内を一歩出れば、オルの信用は通用しない。東地中海の世界を支配しているのは、厳然たる銀の重みであり、国際的な交換価値を持つ銅と錫の現物であった。
外の商人たちは、エリミオンの上質な製品を買い付けるため、重くかさばる銀や青銅の地金を船底に積み、海賊の跋扈する危険な海を渡ってナバルノへとやってきていた。船が沈めば全財産を失い、嵐に遭えば真っ先に海へ投げ捨てざるを得ない金属の現物は、商人たちにとって常に頭痛の種だったのだ。
そこでフィクスが打ち出したのが、海外の主要港に構えたナバルノ商会の支店網を活用した「オル建て為替」の仕組みであった。
キプロスやテュロス、クレタなどの各支店に商人が銀や銅、錫といった正貨・現物を持ち込めば、商会は所定の手数料を差し引いた上で、その価値に見合う額面を記したオル建ての為替手形を発行する。商人は危険を冒して重い金属を船に積む必要などなく、嵩張らず軽い為替の証書を一枚携えるだけで、身軽にナバルノ港へ渡れるようになった。
手形には、ナバルノ商会が誇る二頭のイルカの印章と、発行した各支店固有の割り印が押され、他にも容易な偽造を許さない工夫が施されていた。港へ着いた商人は、その為替をナバルノの本店に差し出すだけで、即座に領内の地域通貨であるオルへと引き換え、工房の製品や加工品を買い付けることができる。
一方、各国の支店で引き受けられた大量の銀や銅、錫といった現物は、武装した常時雇用の傭兵たちによって護衛されるイルカ印の定期船によって海況を見計らいながらナバルノの本店へと送られた。
民間の商人たちから危険と輸送の手間を取り除いて手数料を稼ぎつつ、その実、来たるべき有事に武器や防具の原材料となる銅と錫という最重要の戦略物資を、海を越えてエリミオンに集積させる太い水路が、こうして完成したのである。
この為替決済の利便性と安全性は、東地中海の商人たちに好意をもって広まった。
「ナバルノへ行くなら、現物を積む必要がない」という評判は、交易船をナバルノに吸い寄せる強力な磁石となった。港には新たな商人が次々と船を寄せ、取引が活発化するにつれて、遠方の情勢や各地の物価といった貴重な情報もまた、商人の口を通じてナバルノの地に雪崩れ込んできた。そして、豊かな情報と確実な商機を求めて、さらに別の商人が集まるという、自律的な好循環が回り始めたのである。
工房の生産手段の向上による確かな品質、街道と定期便がもたらした淀みなき流通、そして海を越える為替が切り開いた決済の円滑化。
これらが噛み合わさった結果、エリミオン領の経済規模は、年ごとに拡大していた。




