聖女伝説~1
船長は真っ青な顔で海を見つめていた。
(クラーケンだ、もうおしまいだ)
実際はクラーケンなど見たこともないし、それは千年以上も前の伝説や神話に出てくる怪物だ。しかし烏賊の化け物と言えばクラーケン。これは揺るぎない海の男の常識である。
船室から様子を伺う客たちもみな同じことを思っていた。
そしてラビオは
(烏賊のさばき方ってどうだっけな)
クラーケンとて烏賊は烏賊。
なんとかなるんじゃないかと隙を探っていたが
(無理だ、ゲソ一本も落とせそうにねぇ)
包丁どころか剣だって通らなさそうだ。早々に諦めてケインを振り返った。
「アンナを連れて逃げられるか? 鳥かなんかに変身して」
「できなくはないですが、彼女を連れていては長くも速くも飛べません。ああいう奴は動くものに反応するから、叩き落されるのがオチです」
「俺が気を引くからその間に逃げろ!」
船はぐらぐらと揺さぶられ、船員も客も立っていられないほど。船体は大きいけれど木造船だ。一撃でも食らったら折れてしまうだろう。
「ラビオ、斬りつけてはダメ」
「アンナ、下がってろ」
「あの烏賊は傷ついています。これ以上興奮させてはいけないわ」
「そんなことがわかるのか?」
アンナローゼは頷くとマストの方へ歩き出した。
「ラビオ、ロープを持ってきて。私をマストに固定してちょうだい」
「ばか、何すんだよ。まさか、海神様への生贄か?」
「そんなお伽噺みたいなことはしないわよ、早くして」
ラビオは周囲を見回したが、ロープは見当たらない。マストを背にしてアンナローゼの後ろにまわると、胴を抱えてその体を支えた。
「動かなきゃいいんだな」
「それとこれを持っていて。なくしちゃだめよ」
彼女はそう言って胸のペンダントを外した。
「うおっ?!」
ペンダントを外した途端に、アンナローゼの胸から光が走った。
「おいっまさか、おまえ」
「ごめんね、ラビオ」
アンナローゼは微笑むとすっとひと息吸い込んで、静かに歌い出した。
それは聞いたことのない言葉で、ラビオには歌声が美しいという以外わかることはなかった。
歌声につれ船の周りの空気が揺らめき出し、波は静かになってゆく。
船に乗っている人々も叫ぶのを忘れ、いつかその歌声に聴き入っていた。
そして烏賊は…
荒ぶる海神さながらだった烏賊は、いまは大人しくぷかぷかと海面に浮いている。やがてざぶんと水しぶきを上げて海中へと戻って行った。




