その5
振り下ろした戦斧を持ち上げ、女吸血鬼は前進を再開した。緩慢な歩みだが、確実に陽介たちのいるところを目指している。庭内に敷き詰められた小石の上を歩く、ジャリジャリとした足音が二人に近付く。
「カチューシャ、裏口の門まで退がってろ。でも外には出るな。俺の目の届く範囲にいるんだ。こいつの〝親〟がどこかで見ているかもしれない。下駄は脱いどけ。足の裏が痛いかもしれないけど我慢しろ。じゃないと、もしもの時、まともに逃げることも出来ないからな」
状況に即して、陽介の口調と語調が普段より少し荒く、早口になっていた。そんな彼の言葉を聞いているのかいないのか、カチューシャは動かない。俯き、震えたままで、陽介の服の袖を掴んで離さない。その間にも、吸血鬼はじりじりと近付いてきていた。焦りを感じ始めた陽介がカチューシャを諭そうとする。
「カチューシャ、早くしないと」
「殺さ、ないで」
「え?」
「ターニャを、殺さないで……。お願いだから、助けてあげてください!!」
「カチューシャ……」
「お祭りに連れって下さいなんて言いません! 浴衣が着たいなんて、疲れたから休みたいなんて、手を握って欲しいなんて、明日も来たいなんて言いません! 我が侭はこれっきりにしますから! 私のこと、お家から追い出してもいいですから! お願い、ターニャのことは助けてあげてください……!! 親友だったんです!」
あまりにも悲痛な叫びが響く。
陽介はカチューシャの肩に手を置いた。カチューシャはそれに反応して顔を上げる。
「なんて顔してんだ」(今にも泣きそうじゃないか)「約束するから安心しろ。親友は必ず助ける。だから、早くここから離れてくれ」
「……(こくっ)」
表情は変わらなかったが、カチューシャは陽介の言った通りの場所を目指して駆けていく。ターニャという名だったらしい吸血鬼は、走るカチューシャに視線を向けるが、それは一瞬。すぐにまた視線を陽介に戻した。陽介はその動作をターニャが「先にこの男を始末すべき」と判断したのだと推測した。推測しながら、陽介は両腕を〝太陽〟に変えた。
仰野陽介は『太陽の化身』という名の異能力をその魂に宿す人間である。吸血鬼の多くや人狼といった夜の魔物に対して絶大な効果を発揮するその能力によって、彼は人殺しならぬ夜殺しとして、夜留に恐れられる存在であった。
「ふうっ……、行くか!」
陽介は、ターニャという名の吸血鬼を目指して駆ける。呼応する形で女も駆け出す。二人の距離は瞬く間に縮まり、互いの間合いが、攻撃可能範囲にまで近付いたその時、
女の斧が真横に振られた。
「うわっ!」
上からの攻撃を予想していた陽介は虚を突かれる形となり、吃驚しながら真上へと跳躍してその攻撃をかわした。女はすぐさま斧の刃を上に向け、空中の陽介を目掛けて振り上げる。
「やばっ」
空中で体を回転させながら、陽介は彼女の背側へと飛んだ。
直撃こそかわしたものの、衝撃が風の刃となり、陽介の背には直線状の傷がついた。傷口から流血し、彼は顔をしかめる。しかしそれは、傷の痛みに起因するものではなかった。
「どうしてあそこで上に跳ぶんだ、俺は!」
一瞬の判断ミスに苛立つ陽介。しかしただちに思考を切り替え、前を見る。
そこには誰もいなかった。
ただ、さっきまで吸血鬼の手に握られていた斧だけが転がっていた。
「しまっ……!! カチューシャ!」
陽介は、一瞬でも戦闘から思考を離れさせたことを後悔し、カチューシャがいる方に視線を向ける。だが、そこにも女の姿はない。カチューシャはいたが。
――消えた?
瞬間、陽介の身体は弾き飛ばされた。
「うっ……?」
宙を舞う陽介の目に、女吸血鬼の姿がはっきりと見えた。
――高速移動なんかじゃなかった。実際に姿を消してたっていうのか?
何とか両足で着地した陽介は後ろ向きに飛び跳ね、吸血鬼との距離を取る。殴られたと思しき脇腹に鈍い痛みを感じながらも、彼は冷静に、彼女を分析しようとしていた。
――術か能力かは分からないけど、こいつが自分の姿を消すことが出来るのは確実。このままの戦い方じゃ分が悪いな。どうすりゃ……。
「――!!」
陽介の思考が結論を導き出す前に、再び吸血鬼の斧が、斧だけが、彼に襲いかかった。ターニャは手にした斧を投げつけていたのだ。
「ぐっ!」
人外の肩力で投擲された斧が、回転しながら陽介に迫る。彼はその攻撃を、斧の柄を掴むことでやり過ごし、女の方を睨もうとする。だが彼女の姿は再び消えていた。
「……これで見えればいいんだけど……」
呟いた陽介が静かに眼を閉じる。
彼の瞼の隙間から微かに光が漏れる。直後、見開かれた彼の目は橙色の光を放っていた。淡いと呼ぶには強すぎて、激しいとするには弱すぎる、ただ鮮やかな光を。
そんな彼の眼に、飛びかかって来る女の姿が、半透明に映った。
「見えた!」
陽介は開いた掌を女の額に向けて突き出す。
「ッアアアアアアアア!!」
直後、完全に姿を現した女吸血鬼は、仰け反り苦しみながらその場に倒れ、悶え始める。陽介は、直接的には女の額に触れていない。しかし、太陽そのものと化した彼の手を覆う〝コロナ〟が彼女を捕えていたのだ。のた打ち回っている女の額に、陽介はそっと触れた――橙色の光を解除し、新たに緑色の光を帯びた手で。
「あっ……」
嬌声にも似た短い叫びを上げ、女はそのまま動きを完全に停止させた。その額は、ほんの少しだけ焦げていた。