その4
しばらくマンションで時間を潰した陽介たちは、午後七時少し前に家を出た。
夏祭り。
それなりに盛況なようで、城の周りには人が溢れ返っていた。友人同士や恋人同士、そして家族連れと、実に様々な組み合わせがいたが、恋人でもない異性の二人組、それも片方が異邦人という組み合わせは陽介たち以外にはなかった。
「妹や弟が今より小さい時は、父さんとも一緒に、四人でよく地元の夏祭りに出掛けたもんだよ。最近は、家族と行くような機会はほとんどなかったけど」
「恋人さんと一緒に来るようなことはなかったんですか?」
「いない者とどうやって一緒に来るんだよ」
「いないんですか? 陽介、可愛いのに」
「……密かに気にしてることなんだから、やめてくれないか」
無垢な心で男の尊厳を踏んづけたカチューシャに、陽介の顔が強張る。
ほんの少し前まで、恰好一つで女の子に間違われるのが日常だった彼にとって、容姿を女性的に評価されるのは屈辱なのだ。たとえそれが悪意なしの褒め言葉であっても、である。陽介はもう、来年には成人を迎えようという歳なのだから。
一方で。陽介の真意を計りかねるカチューシャは、どうして彼が不機嫌になったのかがまったく分からず、首を傾げている。が、何はともあれ、これ以上この話題を続けるのは危険だということは察し、話をそこで打ち切った。
仕方なく他へ興味を移そうと、視線を周囲に泳がせる。そして、何かを見つけて叫ぶ。
「あ! あれは何ですか? あんな物、聞いたことないです!」
「ん? どれ?」
「ほら、あの〝しがたわ〟という奴です」
「どこにそんな物あるんだよ」
「ですから、あれですよ」
カチューシャは一点に向けて指を差した。陽介はその方向を見る。そこで彼は、『ああ、やっぱりそれか』という反応を見せる。
浴衣の白肌銀髪碧眼少女が指差した先にあったのは、わたがし屋だった。
「あれは左からじゃなくて右から読むんだよ。だから〝しがたわ〟じゃなくて〝わたがし〟」
「でも、今の日本は左から読むんじゃないんですか?」
「『今の』って、そんなことまで知ってんのか」
陽介はカチューシャの……というより、彼女の親が持つ知識の豊富さに驚く。
「こういう時はな、特別なんだよ。古風に読ませた方が雰囲気も出るだろ? もっとも、日本でも左読みの方が歴史は古いらしいよ。『右から読む縦書き』に慣れてる庶民向けに生まれたのが『横書きの右読み』だったかな? まあ、今はそんなこと、どうでもいい。とにかく。今日のこれは、お祭り仕様みたいなもんだよ」
「じゃあ、ここでは他の物も全部右読みなんですか? あ、確かに。言われてみればそうみたいですね。今、初めて気付きました」
そう言うと、カチューシャは屋台という屋台の名前を逆読みし出した。
「きやいた!」「ハハッ」
「ラテスカービベ!」「ハハハッ」
「りぐまあんしんて!」「ハハハハッ」
「チン――」「言わせてたまるか!」
フルーツポンチをもう少しで逆から読もうとしていた口を寸でのところで塞いだ陽介の頬を冷や汗が伝う。一人の少女が公然わいせつ罪、もとい天然わいせつ罪に問われる事態となることは防がれた。彼女の名誉は陽介によって守られたのだ。
――というか、なんでこんな所にフルーツポンチ屋なんてあるんだよ。だいたい、横文字はそのまま左読みでいいだろに。
理不尽な愚痴を溢す陽介の手に吐息が掛かる。カチューシャの口に当てられた手に。
「ひひはへひはひへふ、ふふひーへふ」
「は? 何だって?」
「ふふひーへふっへは!」
「だから何を……」
がぶうっ!
「痛っ!」
突然カチューシャに手を噛まれた陽介は、痛さよりもむしろ驚きのせいで、思わずその手を引っ込めた。
「はぁっ……、はぁっ……。死ぬかと思いましたよ」
「あ、ごめん。口塞いだまんまだった」
膝に手を当て背を丸めたカチューシャが、ぜいぜいと荒い息を吐き出す。その様子を見た陽介がようやく自分の失敗に気付いて反省する。水中でも呼吸が出来る。そもそも、空気がまったくない空間でも生活できる。そんな異能の少女も、〝陽介〟の手で口を塞がれると、さすがに息苦しくなるのである。どこまで行っても彼女は夜留、ヴァンパイアなのだから。
「はぁっ……ふう。手は大丈夫ですか?」
呼吸が整ってきたカチューシャが、陽介に問い掛ける。そんな彼女に、陽介は表情ひとつ崩さず応対し、
「大丈夫、大したことないよ。ほら」
と、噛まれた掌を彼女に向けた――そこからは、二筋の血が流れていた。カチューシャの顔がさっと青くなる。動転し、涙目にすらなる。
「血、血が! ま、まさか今ので陽介までヴァンパイアに……」
「ならない、ならない。そんな簡単には。ちゃんとそういう風に意識して咬みつかないと。もっとも、咬んだ相手が俺である以上、たとえ意識して吸血したって意味ないけどね」
そう。仰野陽介に、吸血による奴隷化と同種化は通用しない。
「なら、よかったです」
いまいち事情を呑み込めていないカチューシャも、とりあえず胸を撫で下ろし、再び祭りを楽しみ始めた。
カチューシャは、わたがしやベビーカステラ、りんご飴、鯛焼きやら、初めて見るという物を片っ端から陽介にねだった。その他、金魚掬い、射的、スマートボール、輪投げなどといった、屋台の定番とも言える遊戯も次々にやっていった(但し、成績は奮わなかった)。そんな調子で二人は時間を忘れて遊んでいた。そして二時間ほどが経過し、午後九時を少し回った頃、とうとうカチューシャは座り込んでしまった。
「ふいー、ちょっと歩き疲れました」
「大丈夫か?」
「大丈夫です! 少し休めば、また元気になります」
何でもなさそうに返答するカチューシャであったが、ならばこれくらいで疲れるのがそもそもおかしいのだということには気付いていない。疲れの原因は、まだ履き慣れていない下駄に因るものが大きいのだろう。
「それにしても、こんな人通りの多いところで座り込んでいたら迷惑ですね。どこか人の少ないところに行きましょうか」
「そうしよう。ナイスアイデア」
祭りにやってきた当初からおかしな視線を一身に受け続けていた陽介が、カチューシャの申し出に嬉々として賛成する。確かに浴衣姿の異邦人というのは目立つが、しかし、おかしさの正体はそれだけではない。陽介に刺さる視線の中でもとりわけ鋭いものが、同性の友人同士で来ている男の子連中から向けられているものだったのである。
――耐え切れない。最近は小中学生でも彼女を欲しがるんだな。というかカチューシャは俺の彼女じゃないんだけど……勝手な誤解で睨むなよ。
「さあて、どこに行くかなあ」
「あそこなんてどうでしょう?」
カチューシャが指差した先は城。祭りが行われているのは、あくまで城の周りだけであり、城自体は通常通り、八時を過ぎた頃から門が閉められていた。ばれないように侵入すれば、建物の中には入れなくとも、庭で休むことは出来る。
「(あんまり行儀は好くないけど、この際、仕方ないな)。もうちょっとだけ、頑張って歩けるか? 無理なら負んぶするけど」
「いえいえ、そこまでは甘えられません。歩けます」
「そうか」
「でも、手だけ握ってもらえますか?」
「ああ、いいよ」
陽介はそう言ってカチューシャの手を握った。
彼女の手から、体温は伝わらなかった。
「賑やかなのもいいですけど、こういう場所もいいですね」
「まあ、喧騒は思いっきり聞こえてくるけどな」
城内の庭。
その隅にちょうどいいスペースを見つけた陽介たちは、二人並んで座っていた。
結局、侵入方法はひどくあっさりしたものになった。何故か開いたままだった裏口から、ごく自然に入ったのだから、侵入と呼べるのかどうかも怪しい。
「ここでもう少し休んだら帰ろうか。最終日じゃないと花火もないしな」
「花火がなくても、今日は本当に楽しかったです! こんなに楽しかったのは何年振りか分かりません。出来ればまた明日も来たいです!」
「今夜は特別だって言ったろ? 今度来るときは、少なくとも君の親の所在がはっきりしてからだ。それに毎日来たって別に」
屋台が日ごとに変わるわけでもないんだから、と続けようとした陽介の言葉が途切れる。
「|Невероятный(うそでしょ)……」
ふらふらと立ち上がり、一点を見つめるカチューシャの声が、唇が、手が、身体が震えている。彼女の視線の先には一人の女性。カチューシャ同様、白い肌に青い瞳を持つ女性。違う点といえばその髪と背丈。髪はブロンドで、肩に届くか届かないか程の長さしかない。身長は平均的な若い日本人男性……よりもまだ高い。一七五よりは一八〇に近い数値である。
そんな彼女の右手には恐ろしい物が握られていた。並の夜留以上に夜目が効く陽介には、それが何なのかハッキリと見えていたが、カチューシャは気付きもしない。
「Таня(ターニャ)?」
カチューシャは何かを懐かしむような声で、ふらふらとした足取りのまま、女に近付いていく。ただ同郷の人間に出会ったという感じではなく、明らかに親しい友人に対する態度で。
「――――――」
女の方も、少しずつカチューシャに歩み寄ってくる。言葉は一切発さずに。
「――――――――」
カチューシャは彼女の故郷のものと思われる言語で女に話し掛けているが、それに対しても女は一切答えようとしない。日本語と英語しか話せない陽介には、カチューシャが何を言っているのかもさっぱり分からない。
「этот человек может нам помочь(この人がきっと助けてくれるから)」
しかし、今の状況がどういうものか。それは理解していた。
赤ん坊の頃から教会で暮らしていたカチューシャにとって、同郷の友人や知人となると、同じ教会の関係者だと考えるのが妥当。しかし、カチューシャがいた当時の教会関係者たちのほとんどが、何者かに殺されるか、或いはヴァンパイアに攫われている。
そして何故か開いていた城の裏口。
女の手に握られている巨大な斧――砥ぎたてのように白く輝いた刃を持つそれは、一見して観賞用とすら思えるほどに美しい。だがそれ以上に、破壊と殺害を目的に作られた物に特有の禍々しさを醸している。武器なのだ。紛うことなく。陽介が導き出した、女の正体は――。
「っ!! カチューシャ!!」
陽介の叫び声に驚いたのか、カチューシャは前進を止めて一時停止する。陽介はそのまま彼女の元へ走る。そして彼女の浴衣の首部分を思いっきり引っ張り、抱き寄せた。そのままその軽い身体を抱きかかえ、出来得る限り後方へと跳躍する。
陽介が着地したのと同時。寸前までカチューシャがいた場所には件の斧が振り下ろされた。
「な、な、な、な……」
突然の事態に混乱の極致に陥ったカチューシャは、言葉にならない言葉を発しながら狼狽している。しかし、本当は彼女もこの事態の真相に気が付いている。ただ、認めたくないだけなのだ。そんな彼女に対し陽介は、真実をハッキリと口にする。
「カチューシャ……、今のあいつは敵だ」




