プロローグ:古都の鼓動と赤い軍服
1803年3月の月曜日。朝の4時。
まだ夜の帳が降りている時間、パーシバル・シーモア・シャルトンは、
使い慣れた革の鞍を愛馬に載せ、シャルトン家のマナー・ハウスを後にした。
「気をつけてな、坊ちゃま。街の連中に風邪をうつされないように」
見送りに立った馬丁のモーリスが、提灯の明かりを揺らしながら声をかける。
パーシバルは軽く手を挙げ、馬を走らせた。
数マイルの道のりは、前世の記憶が戻る前までは単なる「通学路」だった。
しかし、今の彼にとって、この風景は19世紀初頭のイングランドという巨大な経済機構の「毛細血管」に見えていた。
ゆるやかな丘陵地帯を越え、霧の向こうに巨大な大聖堂の塔が見えてくると、そこがハンプシャー州の州都ウィンチェスターである。
かつてはイングランド王国の首都でもあったこの街は、今や静かな「大聖堂の街」であり、
同時にフランスとの戦争に備える「駐屯地」としての熱気を帯びていた。
■第37歩兵連隊と叔父ルイスの家
ウィンチェスターの西門をくぐると、蹄の音が石畳に高く反響した。
パーシバルが向かったのは、街の中心部にほど近い、赤煉瓦造りのこぢんまりとした貸家だ。
ここが、彼の学校生活を支える下宿先であり、叔父であるルイス・エドワード・シャルトン少佐の住まいである。
「お帰り、パーシバル。熱がぶり返したとは聞いていないが、顔色は悪くないようだな」
玄関で迎えてくれたのは、軍服に身を包んだルイス叔父だった。38歳。
父ヘンリーの弟である彼は、第37歩兵連隊の留守大隊に所属している。
当時のイギリス陸軍において、将校の地位は「買官制」といって、金銭で階級を購入するのが一般的だった。
次男坊として家を出たルイスも、実家からの援助と自身の武功で少佐の地位を手に入れたのだ。
「はい、叔父様。もうすっかり良くなりました。今日からまたお世話になります」
「そうか。アンネも喜ぶ。なにせ、この家には若い話し相手が足りないからな」
ルイスが笑うと、奥から華やかなドレスの擦れる音がして、叔父の妻であるアンネ・シャルトンが現れた。彼女はまだ20歳。
パーシバルとは8歳しか違わず、叔母というよりは姉のような存在だ。
「まあ、パーシー! 心配したのよ。さあ、冷えないうちに中へ入って。
温かい紅茶とトーストができているわ」
アンネの明るい声が、軍人の家特有の規律正しい空気を和らげる。
この貸家の維持費や、アンネの華やかな生活を支える給与、そして叔父が所属する連隊の軍需物資——。
パーシバルは、アンネが注いでくれる紅茶の湯気を見つめながら、それらがすべて「戦時国債」や「増税」によって賄われている現実に思いを馳せていた。
■駐屯地の喧騒と「情報の価値」
朝食を済ませ、パーシバルは叔父と共に街へ出た。
ウィンチェスターの街には、赤い軍服を着た兵士たちが溢れている。
「叔父様、連隊の様子はいかがですか? 街が少し、騒がしくなったように感じますが」
ルイスは周囲を警戒するように視線を走らせ、声を低くした。
「鋭いな。アミアンの和約はもはや紙屑だ。
ナポレオンがブローニュに軍を集結させているという噂がある。
我々も、いつ実戦部隊(本隊)に合流命令が下るか分からん状況だ。
……パーシバル、お前は学校でしっかり学べ。
これからの時代、剣だけでは家を支えられん」
叔父の言葉は重かった。
1803年、イギリスは「ボニー(ナポレオン)」の侵攻を本気で恐れていた。
街の掲示板には志願兵を募るポスターが貼られ、ドラムの音がどこからか聞こえてくる。
(戦争は悲劇だが、同時に巨大な需要を生む。軍靴、毛織物の軍服、火薬、そして兵士たちの食料。
このウィンチェスターという街は、その巨大な消費のハブになっているんだ)
パーシバルは、自身の記憶にある「ナポレオン戦争後の大不況」や「金本位制の復帰」といった将来の難局を乗り越えるためにも、今のうちにこの「戦争経済」の仕組みを観察し尽くそうと心に決めた。
■ウィンチェスター・グラマー・スクール
叔父と別れ、パーシバルはウィンチェスター・グラマー・スクールの門をくぐった。
近くには有名なパブリック・スクールである「ウィンチェスター・カレッジ」があるが、あちらは上流階級の超エリート校だ。
一方、パーシバルが通うグラマー・スクールは、地元の紳士や裕福な商人の息子たちが通う、より実務的な色彩の強い学校である。
教室の空気は、冷たく乾燥していた。
19世紀の学校教育は、ラテン語とギリシャ語の暗唱が中心だ。黒板に向かう教師の厳しい視線の下、生徒たちは古い木のベンチに座り、ひたすら古典を書き写す。
(ラテン語……前世の僕には全く縁がなかったが、この時代の『紳士の教養』としては必須か。
だが、僕が本当に必要なのは、その先にある数字と法律だ)
そんなパーシバルの隣で、熱心に羽根ペンを動かしている少年がいた。
ウィリアム・ホッジス。街で馬宿を経営するホッジス家の次男で、パーシバルの数少ない友人の一人だ。
「おい、パーシー。やっと戻ったか。一ヶ月も休むなんて、お前、そのまま死んじまったのかと思ったぜ」
昼休み、ウィリアムがニヤリと笑いながら話しかけてきた。
「悪いな、ウィリアム。おかげさまで、地獄の淵から戻ってきたよ」
「はは、お前、なんだか喋り方が大人っぽくなったな。まあいいや。
これ、一昨日のロンドン新聞だ。お前の親父さん、こういうの好きだろ?」
ウィリアムが差し出したのは、馬宿に届いた最新のニュースだった。
馬宿は、ロンドンと地方を結ぶ郵便馬車の中継基地だ。
そこには、最新の公債価格や、海外の情勢が、公的な発表よりも早く届くことがある。
「ありがとう、ウィリアム。助かるよ。宿の方はどうだい? 忙しいか?」
「ああ、最悪さ。
軍の連中が部屋を占拠して、酔っ払って暴れるし、親父は馬の飼料が値上がりしたって毎日ぼやいてる。
お前のところみたいな、のんびりした領地が羨ましいよ」
ウィリアムは、商家の息子らしく、日常会話の中に自然と経済の状況を混ぜてくる。
飼料の値上がり。それはつまり、農業国イングランドにおいてインフレが始まっている兆候だ。
二人は笑い合いながら、冷たいパイを口に運んだ。
ウィリアムにとってはただの雑談でも、パーシバルにとっては、街の「実体経済」を知るための貴重なフィールドワークだった。
夕暮れの思索
放課後、パーシバルは一人、大聖堂の裏手にある静かな小道を歩いた。
石造りの巨大な伽藍が、夕日に染まって長く影を落としている。
(1803年のウィンチェスター。ここは平和に見えるけれど、世界は確実に変わり始めている)
彼はポケットの中で、父からもらった10シリング銀貨を指先でなぞった。
30シリングの小遣い。それは12歳の子供にとっては大金だが、立身出世を志す投資家にとっては、あまりにも心許ない。
(叔父様は軍人として、父上は地主として、この時代を生きている。でも、僕は違う。
僕は、この時代がどう終わるかを知っている。
ならば、そのアドバンテージを最大限に活かさなければならない)
下宿先に戻ると、アンネが明るいランプを灯して待っていた。
叔父ルイスは連隊の事務でまだ戻っていない。
パーシバルは、自分の部屋の机に向かい、一冊のノートを開いた。
そこには、前世で学んだ色々な科学や、19世紀初頭の主要な歴史イベントの年表が、
1803年のイギリスでは、ほとんど彼にしか読めない日本語で書き記されている。
「まずは、父上の信頼を。そのためには、父の領地経営の事務を手伝うなどする必要がある」
彼は羽根ペンをインクに浸した。
来週末、実家に戻った時に仕掛ける「最初の提案」。
それは、父の手伝いを願い出て信頼を獲得し、自分自身の発言権を確保するための提案だ。
窓の外では、ウィンチェスターの街に夜の静寂が訪れようとしていた。
しかし、12歳の少年の心には、これから始まる激動の時代への期待と、慎重な計算の火が赤々と灯っていた。




