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第14章(1820年):製造工程の見直しと高級牛乳の販売事業

■事前知識

1ガロン = 8パイント

1パイント = 約568ml

※1820年頃のロンドンで牛乳の市販価格は、1パイントあたり2〜2.5ペンスです。


・重さの単位

1ポンド=約454g

※中世のイギリスでは、銀などの貴金属の重さそのものがお金としての価値を持っていました。

当時の通貨の基準となったのが、1ポンド(重量)の銀です。

つまり、1ポンドの重さがある銀=1ポンド(通貨)という非常に物理的でシンプルな仕組みでした。

そして、紙幣が流通したり金本位制に移行したりと、通貨としてのポンドは実際の銀の重さから離れて独自の価値を持つようになっていましたが名前だけはそのまま受け継がれたらしいです。


■1820年1月。

新年の訪れから間もないロンドンは、例年通りの厳しい冬の寒波に包まれている。

ブルームズベリーの閑静な区画に建つサー・パーシバルのタウンハウスでは、暖炉で赤々と燃え盛る石炭の火によって心地よい温もりが漂っている。

書斎の書棚には革装丁の立派な書籍がインテリアとして整然と並び、頑丈な作りの机には、地質学や鉱業に関する本が積まれていた。


大陸に平和が戻ってから数年の歳月が流れた。

かつて大英帝国陸軍の王立輸送部隊の大尉として、拠点から前線への輸送を指揮し、ナポレオンの百日天下においては、後方からの効率的な物資輸送を指揮、叙勲まで受けたパーシバルであったが、軍務を退き民間人となっている。

だが、パーシバルは、3年以上の時間を費やし、自らの前世の記憶に眠る近代的な輸送の知識と、イベリア半島戦争やナポレオンの百日天下での陸軍総司令部ホース・ガーズでの実体験を織り交ぜた一つの巨大な著述を完成させていた。


引き出しに仕舞われた原稿の表紙には、飾り文字でこう記されていた。

『軍隊の維持、行軍および後方管理に関する総合大系』全6巻。


単なる荷車の手配や食料の運搬記録ではない。

本国の港から前線へ続く補給線の安全な構築法、街道の幅や構造に応じた歩兵および騎兵連隊の行軍速度の算出、占領地における住民への税務と行政管理、さらには将来の大英帝国軍が目指すべき理想の後方支援の姿までをも網羅した、軍事輸送の集大成とも呼ぶべき教範であった。


ペン先をインク壺に浸し、ロンドンの社交界で知り合った知人への手紙を書いていたパーシバルの耳に、書斎の重い扉を控えめに叩く音が届いた。


「入ってくれ、ウィリアム」


声をかけると、家令のウィリアム・ホッジスが静かに足を踏み入れた。

いつものように隙のない黒のフロックコートを纏った彼の手には、磨き上げられた銀の盆が掲げられている。

盆の中央には、一通の分厚い書簡が置かれていた。


「旦那様。陸軍総司令部ホース・ガーズより、急ぎの使者が届けてまいりました。アーサー・ウェルズリー閣下……ウェリントン公爵からの書簡にございます」


「公爵からか。随分と仕事が早いな」


パーシバルは羽ペンを机に置き、盆から手紙を手に取った。裏面を確かめると、公爵家の厳格な紋章が赤い封蝋に鮮やかに刻まれている。


昨年の暮れ、パーシバルはこの『軍隊の維持、行軍および後方管理に関する総合大系』全6巻の草稿を書き上げた際、その写しをかつての連合軍総司令官であり、現在の補給庁長官であるウェリントン公爵のもとへ送っていた。

自身の構築した補給の体系が、兵站の天才の目にどう映るか、専門的な評価を仰ぐためであった。


引き出しから銀のペーパーナイフを取り出し、滑らかな手つきで封を切る。

便箋を開くと、そこにはウェリントン公爵特有の、過剰な修飾や社交辞令を一切省いた、極めて簡潔で実直な筆致が並んでいた。


パーシバルは視線を落とし、文章を読み進めた。


『サー・パーシバル・シャルトン。

貴殿から送付された6巻の草稿、すべて目を通した。

驚くべき内容であると言わざるを得ない。

本国の港から前線への補給路の構築手順、さらには占領地における食料調達と住民への税務管理に至るまで、これほど無駄がなく、かつ軍隊の生存に不可欠な知見を体系化した書物は過去に存在しない。

貴殿がワーテルローで成し遂げた仕事の正体が、この書物によって完全に解き明かされた』


最高の賛辞であった。

感情に流されることを嫌い、結果と効率を何よりも重んじるあの稀代の総司令官が、ここまで手放しで自らの著作を褒め称えたのだ。

著者としての充足感がパーシバルの胸に広がった。


だが、手紙の文面はそこで終わりではなかった。

次の段落から、文章のトーンが明確に変化していたのである。


『しかしながら、貴殿も承知の通り、軍隊の生命線は後方の補給にある。

本書に記された手法は、単なる学問の書ではない。

国家の存亡を左右する極秘事項に匹敵する兵器そのものだ。

もしこれが街の書店に並び、フランスやロシアの軍人たちの手に渡れば、大英帝国が持つ優位性は一瞬にして失われることになろう。

したがって、本書が出版された暁には、その全量を陸軍省および補給庁において買い上げる。

貴殿におかれては、民間市場における一般への販売を全面的に遠慮いただきたい』


パーシバルは便箋から目を離し、書斎の天井を見上げた。


「遠慮いただきたい、か。公爵らしい言い回しだが、これは事実上の市販禁止命令だな」


「市販禁止、でございますか」

傍らに控えていたウィリアムが眉をわずかに動かした。


「ああ。

内容が優れすぎているがゆえに他国に真似されないよう、軍の中にすべて閉じ込めるということだ。

著者が街の書店で名声を博する機会は、国家の安全という大義名分の前に完全に没収されたわけだよ」



パーシバルの推測は、翌朝になってより明確な形となって現れた。


新年の冷たい朝霧がまだ晴れぬ朝方。

再びホース・ガーズから騎馬の使者が訪れ、今度は正式な公文書の束を邸宅へ届けたのである。


書斎の机に広げられたのは、2通の書類であった。

1通は、軍部による検閲が正式に完了し、内容の正確さを承認する旨を記した通知書。

そしてもう1通は、厚手の羊皮紙に記された契約書であった。

末尾には、補給庁長官としてのウェリントン公爵の力強い署名が施されている。


契約の内容は明快であった。


著者であるサー・パーシバル・シャルトンは、『軍隊の維持、行軍および後方管理に関する総合大系』全6巻を、軍事調達品として補給庁へ一括納入すること。

民間への流出を防ぐため、印刷の刷り出しから製本に至るまで厳格な機密保持を貫くこと。

その対価として、国庫から適正な買い上げ代金を即座に支払うことが約束されていた。


「さて、ウィリアム」

パーシバルは契約書を綺麗に折り畳み、机の上に置いた。


「私の名前がタイムズ紙の書評欄を賑わせる夢は消えた。

だが、悲しんでいる暇はない。相手は大英帝国の政府だ。

不渡りの心配が全くない、最高に確実な大口顧客が向こうから契約書を持ってきてくれたのだからな」


「全くもってその通りにございます。

個人の読者に1冊ずつ売る手間が省けたと考えれば、これほど効率の良い商取引はございません」

ウィリアムの顔にも一般への名声は得られないことの慰めつつ、確実な利益を強調する確かな活力が宿った。


「公爵からの注文は、全6巻のセットを600部だ。

つまり、単行本にして3,600冊という膨大な数になる。

これをすべて、最高級の装丁で印刷し、製本して軍へ納品しなければならない。

手配はすべて君に一任する」


「承知いたしました」


ウィリアムは即座に懐から手帳を取り出し、滑らかな筆つきで条件を書き留め始めた。

「3,600冊の書籍を一度に刷り上げるとなると、フリート・ストリート周辺にある大手印刷所へ依頼する必要がございます。

紙質はどうなさいますか。

軍の司令部や各駐屯地の図書室で長年にわたって酷使されることを前提とすれば、通常の安価な紙では数年で擦り切れてしまいます」


「最高級のウーブ・ペーパーを使ってくれ。

インクの裏写りがなく、湿気にも強い丈夫なやつだ。表紙の装丁も出し惜しみはしない。

背表紙には丈夫なカーフスキンを使い、角には真鍮の補強を施す。

6巻すべてを並べた際に軍人の書棚にふさわしい重厚な威厳が出るように仕上げてほしい」


「素晴らしい装丁になりますね」とウィリアムは素早く頭の中で計算をする。

「紙代、インク代、製本職人の手間賃、そして機密保持のための特別手当をすべて合算いたしますと、1セットあたりの製本費用は1ポンドを軽く超え、2ポンド程度なるでしょう。

600セットでおそらく1,200ポンドの程度の出費となります」


「契約書に記載された補給庁からの買い上げ単価は、1セットにつき3ギニー……

すなわち3ポンド3シリングだ。

600セットの総売り上げは1,890ポンド。経費を差し引いた純粋な利益は……」

「推定690ポンドにございます、旦那様」


ウィリアムの口元に、満足げな笑みが浮かんだ。

「本を書いた原稿料としては、十分すぎるほどの金額だな」


「ええ。それに、軍の予算は手続きさえ踏めば確実に支払われます。

ただちに信頼できる工房を選定し、機密契約を結んだ上で作業に入らせます。

表紙の型押しや革の仕入れも、急ぎ手配を済ませましょう」


満足げな顔のパーシバルは付け加えるように注文をつける。

「うむ、よろしく頼むよ。

それと巻頭にウェリントン公の書評を挿入すること、これが有ると無いとでは信用度が段違いだからな」


ウィリアムは手帳を閉じ、恭しく一礼した。

その身のこなしには、出版業務という面倒な手配を前にしても微塵も動じない、完璧な秘書役としての頼もしさが満ち溢れていた。


ウィリアムが部屋を出て行き、再び静寂が戻った書斎で、パーシバルは立ち上がって窓際に歩み寄った。

パーシバルは懐から懐中時計を取り出し、その針を見つめた。


(690ポンドの利益……確かに金としては悪くない。

だが、私がこの3年、この時代でも運用出来るように苦心して兵站に関する軍事書6巻を書き上げた本当の理由は、金貨を稼ぐためではない)


彼の意識は、1820年のロンドンから、少し未来の時間軸へと飛んでいた。


前世の歴史知識として、彼ははっきりと記憶している。

今からおよそ30年後、西暦1850年代の半ばにこの大英帝国がオスマン帝国やフランスと共に、ロシア帝国と激突する戦争が起きることを。

黒海の半島で行われる、あのクリミア戦争。


史実において、あの戦場に送られたイギリス軍の将兵たちを襲った最大の敵は、ロシア軍の砲弾や銃剣ではなかった。

圧倒的な後方管理の欠如と、補給線の完全な崩壊であった。


港には食料や防寒具を満載した船が届いているにもかかわらず、そこからわずか数マイル先の戦場にいる部隊へ物資を運ぶ手段がなく、多くの兵士たちが冬の塹壕の中で寒さと飢えに苦しみ病死していった。

官僚機構の硬直化と現場における輸送体系の無知が招いた、あまりにも愚かな無駄死にであった。


(もし、私が書いたこの兵站に関する総合解説書が軍によって買い上げられ、士官達の教範として採用されれば……)


パーシバルは窓ガラスに映る自身の顔を見つめた。


これから30年の間、若い将校たちが図書室でこの本を手に取り、部隊の活動に必要な物資の計算方法と輸送方法を脳裏に叩き込む。

そうして育った将校たちが将来の戦場で指揮を執れば、あの港から塹壕までの数マイルを繋ぐ馬車道が整備され、適切な荷車が手配されるはずだ。

彼の書いた文字が、30年後に凍え病死するはずだった見知らぬイギリス兵たちの命を、何百人、何千人と救うことになるかもしれない。


「……まあ、未来の歴史がどう転ぶかなど、今の私には確かめようもないがな」


パーシバルは息を吐き出し、窓から視線を外した。

書斎の机に戻り、冷めかけたティーカップを手に取る。

自分が前世から持ち越した知識をこの時代の土台にしっかりと埋め込んだという事実だけは、確かな感触として両手に残っている。




■ 1820年2月。

大英帝国の首都ロンドンは、深い喪の象徴である黒いヴェールにすっかり包み込まれていた。

去る1月29日、60年という長きにわたり玉座にあった国王ジョージ3世が崩御したのである。


1811年から続いた摂政時代が正式に幕を閉じ、摂政皇太子が新国王ジョージ4世として即位することとなったが、市民たちの間には祝祭の空気よりもむしろ、先行きに対する不安と重苦しい哀悼の念が強く漂っていた。

農夫ジョージと呼ばれ、素朴で親しみやすい人柄で敬愛された先代とは異なり、新国王の過剰なまでの贅沢や派手な宮廷生活は、恐慌で傷ついた庶民の目には極めて危ういものに映っていたからである。


街を通る市民たちの装いは皆、黒いウールの外套や喪服に揃えられ、紳士たちの腕には黒いリボンが巻かれていた。

官庁やクラブの建物には半旗が掲げられ、セント・ポール大聖堂をはじめとする街のあちこちの教会から、弔いの鐘の音がゆっくりと、重々しく響き渡っている。


活気を失い、静寂と哀悼に沈む街路とは対照的にブルームズベリーにあるサー・パーシバル・シャルトンのタウンハウスには、そこまで悲観した雰囲気は存在しなかった。


書斎の扉がノックされ、家令のウィリアムが客のお訪れを告げた。

「旦那様。顧問弁護士のラルフ・ハンストン氏が参られました」


「通してくれ」


パーシバルが応じると、間もなく黒いフロックコートを隙なく着こなした紳士が入室してきた。

宮廷の喪に合わせた厳格な黒装束である。

髭を完璧に剃り上げた顎と、鋭い眼光は相変わらずであったが、その手にはいつものように分厚い革鞄が提げられていた。


「ご機嫌麗しゅう、サー・パーシバル。

ロンドンの街はどこも弔いの鐘ばかりで、馬車を進めるのも骨が折れました」


ハンストンはお辞儀をし、勧められた革張りの椅子に腰を下ろした。

「外はひどい寒さだろう。ウィリアム、彼に温かいミルクティーを」


ウィリアムが湯気の立つカップを運び、お辞儀をして退室すると、密室の書斎には2人の男だけが残された。


「国王陛下の崩御は誠に痛み入る出来事だが、我々生きている者がいつまでも手を止めているわけにはいかない」


パーシバルはミルクティーを口にし、机の上に置かれていた革紐で縛られた書類の束をハンストンの前へ押しやった。


「今日あなたを呼んだのは、新たな事業計画について相談をするためだ。

すでに計画書は私が独自に作成してある」


「これはこれは、これほど準備が良い相談者は初めてです。早速拝見いたします」


ハンストンは革鞄を置き、書類を受け取ると早速読み始めた。

何枚もの紙に記されていたのは、サリー州ウォーキングにあるパーシバル所有の3,000エーカーの領地、その直営農場において生産される高級牛乳に関する事業構想であった。


『サリー州直営農場産・特製瓶詰め牛乳のロンドン販売商会』


ハンストンは視線を落とし、そこに並ぶ数字と運搬経路の記述を読み進めた。

乳牛から搾る生乳の量、特製バネ付き荷馬車を使用したロンドンへの輸送、透明なガラス瓶への充填、ウェストエンドの高級住宅街への毎朝の配達、瓶詰め牛乳の販売価格、そして空き瓶の回収手順。


書類を読み終えたハンストンは、深く息を吐き出し、感嘆の表情を浮かべた。

「……素晴らしい。

あなたの頭の中にある事業の設計図は、恐ろしいほどの緻密さで仕上がっております。

市場で出回っているチョークの粉や不衛生な水が混ぜられた粗悪で危険な牛乳とは違い、領地から直接運ばれる安全で濃厚な牛乳。

ウェストエンドの貴族たちがどれほど食の安全に金を払うかを計算し尽くした見事な商売です」


しかし、ハンストンはそこで表情を引き締め、法律と社交界の専門家としての厳しい視線をパーシバルに向けた。

「ですが、サー・パーシバル。あなたの顧問弁護士として、私はこの計画に対して強く忠告せねばなりません。

まず、社交界における身分の問題でございます」


ハンストンは書類を指先で軽く叩いた。

「あなたは国王陛下から勲章を授かったナイトの称号を持つジェントルマンです。

そのあなたが、自ら牛乳の配達人となり、屋敷の裏口で料理人から小銭を受け取るような真似をすることは、大英帝国の特権階級における体面が絶対に許しません。

もし、ジェントルマンが自らの名前で直接的な小売商売や日々の売買に手を染めたことが露見すれば、社交界のクラブから名前を抹消され、サロンから永遠に追放されることになります。

ジェントルマンの条件とは不労所得で暮らすことだからです。

労働をしたら労働者階級に転落し、2度と社交界に戻ってくることは出来ません」


当時のイギリス社会において、ジェントルマンとは単なる金持ちを指す言葉ではない。

広大な領地を所有して小作人から地代を得ることや、国債の確実な利息を受け取ること、あるいは軍人や聖職者、法律家として国家や公衆に奉仕することこそが、ジェントルマンにふさわしい高貴で清廉な生き方とされていた。


品物を店頭や街路で直接売り歩き、日々の小銭や利ザヤを稼ぐ商人は、どれほど莫大な金貨を金庫に溜め込んでいようとも、特権階級からは油と煤に汚れた卑しい労働者として明確に蔑まれていたのである。

労働をしたら最後、汚れた労働者と高貴な人々が交わることはない。


「もちろん、あなたが自ら荷車を牽いて牛乳を配るとは思っておりません。

ですが、商会の持ち主としてあなたの名前が公の登記簿や新聞の広告に載ることすら、名誉の傷となり得るのです」


「その通りだな」

パーシバルは動じることなく頷いた。


「私は誇りを捨てるつもりも、名誉に傷を付けるつもりはない、その様なことが表沙汰になったら信用を失う。

だからこそ、この商売を行うための商会設立を相談している」


「身分の問題だけではありません。

さらに恐ろしいのは、法律上の問題……すなわち無限責任の重荷でございます」

ハンストンは身を乗り出し、声をさらに低くした。


「法において、議会の特別な私法や国王の特許状を得ずに設立される民間の商会は、すべて出資者が無限の責任を負う組合として扱われます。

これがどれほど恐ろしい意味を持つかお分かりですか。

シティのコーヒーハウス周辺では、仲間の商人の手形にうっかり裏書をしたばかりに、あるいは1ポンドでも出資した貨物船がドーバー海峡で嵐に遭って沈没したばかりに、何代も続いてきた立派な名家の当主が、ある朝突然にして全財産を差し押さえられ、債務者監獄へと送られる悲劇が連日のように起きております」


ハンストンは言葉に力を込めた。

「もし、この牛乳商会が荷馬車の事故を起こして街路の通行人を傷つけたり、あるいは運搬中の牛乳が腐敗して貴族の邸宅で重篤な病人をを出したりして、巨額の賠償を請求された場合……

商会の金庫が空であれば、債権者は出資者であるあなたの個人資産にまで刃を向けることができるのです」


弁護士の忠告は止まらない。

「あなたが銀行に預けている多額の現金、大切に保有しているコンソル公債、そしてサリー州に広がる3,000エーカーの領地。

それらすべてが差し押さえの対象となり、最悪の場合、あなたは瞬く間に破産に追い込まれます。

わずかな牛乳の売り上げを得るために、ご自身の全財産を危険に晒すなど、法の専門家としては断じて承認できません」


書斎に静寂が降りた。暖炉の中で石炭が燃える音が小さく響く。


普通の地主であれば、弁護士からこれほどの脅威を説かれれば、顔を青くして計画書を暖炉の炎に放り込んだことだろう。

しかし、パーシバルは取り乱す様子を全く見せず、むしろ満足げに微笑んだ。


「ハンストン氏。あなたが指摘してくれた忠告は、どれも極めて妥当なものだ。

身分の喪失と、無限責任による財産の没収。

商売における最大の落とし穴だな」


パーシバルは机の上で両手を組んだ。

「だが、それらの危険性はすべて認識した上での話だ」


「危険を承知、でございますか」


「そうだ。

この事業は大きな利益を生むと確信している。

無限責任の危険を負うに値する価値ある事業だ。

それと商会の名称は『ウォーキング酪農商会』とする。

そして、実際の営業顔と管理者になる代表者には、私ではなく代理となる人物を据えるのだ」


パーシバルはミルクティーの残りを飲み干した。

「そこで、あなたに依頼したい仕事が2つある」


「まず1つ目。

この『ウォーキング酪農商会』を設立するための手続きと、私の権利を守るための厳格な契約書を作成してほしい。

代表者が誠実に行動し、利益はオーナーへ還元され、収支を間接的に管理できるようにすること。

私が地主として牛乳を供給し、資金を出資する旨を記した、誰にも付け入る隙を与えない書類だ」

「お任せください。私の事務所の総力を挙げて、完璧な書類を起草いたします」


「そして2つ目。

これが最も重要だ。

この商会の代表者として支配人となり、実務の矢面に立つ人物を探し出してほしい」


パーシバルは求める条件を提示した。

「ウェストエンドの裕福な貴族や、格式高いクラブを相手に売り込みを行うのだ。

街の粗野なゴロツキや、言葉遣いを知らない労働者階級では話にならない。

元はジェントルマン階級に属していたが、不運な事故や不況によって没落し、商売の算段を身につけている男が良い。

身なりが清潔で、礼儀作法を知り、なおかつ確実な身元保証人がついている誠実な男だ」


ハンストンはしばらく顎を撫でて考え込んでいたが、やがて力強く頷いた。

「探してみましょう。

近年の戦争や不景気により、先祖からの資産を失い、新たな職を求めて私の事務所に相談を寄せている元紳士が何人かおります。

彼らの経歴と負債の状況を徹底的に洗い出し、最も条件に合致する人物をこの屋敷へ連れてまいりましょう」


「頼んだぞ、ハンストン氏。

準備が整い次第、ただちに商会を立ち上げる。

春が来る頃には、ロンドンの街に私の農場の牛乳を配り始める計画だ」


「承知いたしました。

弔いの黒い旗が街から消える頃には、素晴らしい商売が産声を上げることでしょう」


ハンストンは書類を革鞄に丁寧にしまい込み、立ち上がって深々と頭を下げた。


書斎の扉が開き、ウィリアムが弁護士を玄関まで案内するために現れる。


国王ジョージ3世の長い治世が終わり、大英帝国が新たな時代へと歩み出そうとする暗い冬の只中。

特権階級の体面と厳しい法の壁にぶつかりつつも、自らの領地が生み出す富を金貨へと変換する新たな商会の設立が静かに動き始めたのである。



■1820年4月。

前年から続く深刻な現金不足と不況の波は、いよいよ大英帝国全土に暗い社会不安の影を落としていた。

北部の工業都市やスコットランドでは、職とパンを求めた急進派の労働者たちによる騒乱や武装蜂起が頻発し、軍隊が出動する事態にまで発展している。

さらに首都ロンドンにおいては、ケイトー街の古い馬小屋の屋根裏に潜み、閣僚たちの暗殺を企てた陰謀グループが摘発されるという衝撃的な事件が世間を震撼させていた。


街路には銃剣をつけた近衛歩兵連隊の巡回が目を光らせ、市民たちの間にはいつ暴発してもおかしくない不穏な空気が張り詰めている。

そんな騒然とした世情の中であっても、ブルームズベリーに建つサー・パーシバル・シャルトンのタウンハウスは、静寂に守られていた。


ある朝のことである。

パーシバルが寝室のベッドで目を覚ましたとき、扉をノックして洗面用の熱いお湯が入った白磁のピッチャーを運んできたのは、いつもの粗野な従僕スローターではなかった。

隙のない黒の衣装を纏った家令のウィリアムが、自ら盆を捧げて立っていたのである。


「おはようございます、旦那様」


「おはよう、ウィリアム。

君がわざわざ従僕の仕事をするとは珍しい

スローターは休みか?」


パーシバルがベッドの背もたれに体を預けながら尋ねると、ウィリアムはピッチャーを洗面台に置き、少し困ったような、しかし厳格な秘書役らしい表情で答えた。


「恐れながら、旦那様。

あの馬鹿者が昨夜、厨房で腹をくだしまして、本日は部屋から出れない状態にございます」


「腹をくだした? 厨房のものを何か盗み食いでもしたのか」


「盗み食いというより、貧民街に育った者特有の貧乏性が災いいたしました。

試作用としてロンドンへ運ばれ、厨房の室温に2日間置かれて酸っぱくなっていた特製瓶詰め牛乳が残っていたのです。

本来であれば下水に流して捨てる予定の代物でしたが、スローターは真っ白な牛乳を廃棄するのは罰当たりのもったいないことだと考え、その腐りかけた牛乳をすべて飲み干したのにございます」


ウィリアムの報告に、パーシバルは思わず眉をひそめた。

ロンドンのイーストエンドやスラム街で育った貧民にとって、新鮮で濃厚な牛乳など生涯お目にかかれない贅沢品である。

チョークや石灰で白く濁らせた不衛生な牛乳しか知らない彼らにとって、本物の白い乳を捨てるなど正気の沙汰とは思えないのだろう。


だが、パーシバルの脳裏に浮かんだのは、従僕の浅はかな胃袋への呆れではなかった。

それよりも遥かに深刻な、自身の事業に対する強い危機感であった。


(サリー州ウォーキングの農場で搾られ、加熱と瓶詰めを施した牛乳が、ロンドンの室温に2日間置かれただけで腹を壊すほど危険な状態に変質する……)


もし、この牛乳を計画通りにウェストエンドのメイフェアや、開発が進むベルグラヴィアに住む大貴族や富裕層の邸宅へ配達・販売し始めたらどうなるか。

貴族の屋敷の厨房でも、牛乳がすぐに使われず二日間ほど放置されることは十分にあり得る。その酸っぱくなった牛乳を貴族の子息や公爵家の客人たちが口にし、重篤な食中毒を起こせば、設立したばかりの『ウォーキング酪農商会』の信用はただちに失墜し、事業は破滅するだろう。


「……ウィリアム。

スローターには砂糖と少量の塩を入れた紅茶を飲ませて、暖かくして寝かせておいてくれ。

それと、明日の朝食後に馬車の用意を頼む。

サリー州ウォーキングの農場へ向かう」


「ウォーキングへ、でございますか」


「ああ。瓶詰め牛乳の製造現場をこの目で直接確かめたくなった。

私の朝食と将来の事業が、見えない汚れによって脅かされているからな」



翌日、馬車を走らせることおよそ三時間。

春の陽光が差し込むサリー州ウォーキングの領地は、ロンドンの殺伐とした空気とは無縁の青々とした緑の大地に包まれていた。

農場では揚水用の風車が回り、見渡す限りのクローバーと麦の畑が広がっている。

馬車が農場の中心にある管理人用コテージに到着すると、筋骨隆々の巨漢である農場管理人のジョージ・エバンスが出迎えた。


「ようこそおいでくださいました、サー・パーシバル。

ロンドンの物騒な噂は当地にも届いておりますが、こちらの農場は平穏そのものにございます」


「ご苦労だったな、エバンス。

今日は畑を見に来たわけではない。牛乳を瓶詰めしている作業を実際に見たくなった。案内してほしい」


パーシバルがステッキを片手に告げると、エバンスは大きな肩を少し揺らし、すぐさま作業場となっている石造りの小屋へと主人を導いた。


作業場の中では、白っぽいエプロンをつけた農村の乳搾り女たちが、木製の桶や錫メッキされた鍋を相手にせわしなく動いていた。

搾られたばかりの生乳が、大きな鍋に注がれているところである。


パーシバルは小屋の部屋の端に立ち、物静かな眼差しでその作業工程の隅々まで観察した。

前世の記憶にある21世紀の衛生学や生物学の法則に照らし合わせたとき、その現場で行われている作業は、あまりにもお粗末で雑菌の温床となる欠陥だらけであった。


まず、乳搾り女たちが牛の乳房や自らの手を洗う水が不十分であり、拭き取る布も使い回されてうっすらと汚れている。

さらに、牛乳を湯煎する鍋の火加減が適当であり、作業者が湯気を見て指先を突っ込み、熱さをあてずっぽうで測っている。

おそらく、温度計が高価であるから壊すこと恐れて使用を躊躇しているのかもしれない。

おまけに、煮沸したガラス瓶を乾かす際、作業台の上に瓶の口を上に向けて並べていた。

これでは小屋の天井から落ちるチリや、空気中に漂う腐敗の元が瓶のなかにそのまま降り注いでしまう。

そして、鍋の上部から柄杓を使って牛乳を掬い上げ、漏斗で瓶に注ぎ込んでいるため、空気が大量に巻き込まれて牛乳が酸化し、チリが混入する隙を与えていた。


(これではダメだ。

どれほど上質な生乳を搾ろうとも、製造の段階で見えない汚れをわざわざ瓶の中に詰め込んでいるようなものだ。

雑菌は適温において倍々で増殖する、最初に混入する雑菌を少しでも減らせば腐敗のタイムリミットを伸ばすことができるはずだ)


パーシバルはステッキを床に打ちつけ、作業の手を止めさせた。


「エバンス。ただちに作業場を片付けろ。これより牛乳の製造手順を変更する」


「変更、でございますか? 彼女たちはこれでも村で常に乳を扱ってきた熟練の女たちでして、お陰で瓶詰め牛乳も涼しいところに置けば4日は飲むことができます」


「村のやり方は通用しない。相手はウェストエンドの舌の肥えたジェントルマンたちだ。

わずかな腐敗も許されないのだよ」


パーシバルは農場の事務管理室へ移動すると、机に向かって新しい紙を引き寄せた。

インク壺に羽ペンを浸し、迷いのない筆つきで厳格な作業指示書を執筆し始める。

題して『サリー州領地における特製瓶詰め牛乳製造作業指示書』。

書き上げた指示書をエバンスに手渡し、パーシバルはその項目を指先でなぞりながら説明を始めた。


「いいか、エバンス。

これに記された6つの手順は、我が領地が提供する安全な瓶詰め牛乳を作るための絶対的な規律だ。

作業員の勝手な判断による手抜きや省略は、領地の名誉を傷つける大罪とみなす」


エバンスは姿勢を正し、書類に目を落とした。


「まず第1の手順。

朝、牧舎にて乳牛から搾られた牛乳は、目の細かい清潔な綿布で濾しながら、ただちに特製の湯煎鍋へと注ぎ入れよ。

搾乳から投入までわずかな遅れも許されない。投入後はすぐに蓋を厳重に閉めること」


「鍋の蓋を閉めるのでございますね」


「そうだ。次に第2の手順。

ここがもっとも肝心だ。湯煎鍋の外槽に熱湯を沸かし、底が焦げないようにかき混ぜながら中の牛乳を温める。

温度計を常に監視し、牛乳の温度が65℃に達した瞬間から、正確に30分間その温度を保ち続けるのだ」


パーシバルは理由を説いた。


「水が沸騰するような高温で温めてしまえば、牛乳が焦げつき、風味が台無しになる。

逆に温度が低すぎれば、牛乳が腐敗しやすくなってしまう。

65℃を30分間は、絶対に遵守すること。

この間、蓋の上部にあるハンドルを決まった速さで回し、内部のミキサーで絶えず静かにかき混ぜ続けろ。

温度が62℃を下回ることも、68℃度を超えることも厳禁とする」


エバンスは真剣な表情で深く頷いた。


「そして第3の手順だ。

30分の加熱が終わったら、鍋を熱湯から遠ざけ、鍋の蓋を絶対に閉じたままの状態で、深井戸から汲み上げた10℃の冷水を満たした冷却槽に鍋ごと浸す。

周囲の水を絶えず入れ替え、井戸水と同じ冷たさになるまで急速に冷ますのだ。

中身を確認するために蓋を開けることは断じて許さない」


「続いて第4の手順。

煮沸洗浄したガラス瓶の乾燥法だ。

大釜からトングで引き上げたガラス瓶は、必ず瓶の口を下向きにした逆さまの状態にして並べろ。

絶対に瓶の口を上に向けてはならない」


「第5の手順。

充填作業だ。逆さにしていた瓶を静かに起こし、湯煎鍋の下部にある真鍮製の蛇口の真下に差し込む。

蛇口を開き、冷水で冷やされた牛乳を瓶の壁面に沿わせて静かに注ぎ入れろ。

鍋の蓋を開けて柄杓で掬うなど言語道断だ。

ガラス瓶の口まで満たし、余分な隙間を残すな」


「そして最後の第6の手順。

打栓と封蝋による密閉だ。

熱湯に浸しておいたコルク栓を力強く打ち込み、間髪を入れずに封蝋をすること。

コルクとガラスの隙間を完全に蝋の膜で覆い尽くすのだ」


パーシバルはさらに言葉を重ねた。


「密閉が終わった瓶は、ふたたび深井戸の冷水に浸して10℃まで冷やし、内部を間仕切りしてウールと自農場の藁をたっぷりと敷き詰めたオーク製の保冷箱に格納してロンドンへ輸送する。

これが見えない汚れを封じ込める手順だ」


エバンスは書類を胸に抱き、大きな肩を怒らせた。


「……非常に細かいですね。

乳搾り女たちには手順が体に染みつくまで徹底的に仕込みましょう」


「頼んだぞ。そしてエバンス、もう一つ重要な命令がある」


パーシバルは農場の拡張計画を口にした。


「ロンドンでこの瓶詰め牛乳をとある商会経由で売る予定だ、需要に応えるため、生産基盤をさらに強化する。

ただちに追加で30頭の乳牛と30頭の子牛を購入してくれ。

昨年、子牛で購入し成長した15頭と合わせ、合計で60頭の搾乳可能な乳牛と30頭の子牛という体制に拡充するのだ」


「60頭の乳牛にございますか!」


エバンスは驚きつつも、手元の帳簿に素早く数字を書き留めた。


「それほどの頭数となれば、毎日搾られる生乳の量は莫大なものになります。

いかに指示書通りの加熱と密封を施しても、牛乳が日持ちする日数には限度がございます。

売れ残った牛乳をすべて保存用バターに変えたり、農場で自家消費したりするにも限界が……」


エバンスが現場の懸念を口にしたところで、パーシバルの口元に静かな笑みが浮かんだ。

余剰ミルクの処理策はすでに彼の中に用意されていたのである。



パーシバルは少し休憩をしようとエバンスに話しティータイムに入る。

エバンスがメイドに声を掛け、急ぎ紅茶を用意させる。

すぐさま白磁のティーポットが運ばれ芳醇な香りが部屋に広がる。

パーシバルは椅子に腰を下ろし、出された紅茶に静かに口をつけた。


「……さて、エバンス。先ほどの作業場での指示書、および乳牛の拡充命令についてだが、何か質問はあるか」


パーシバルがカップをソーサーに置いて尋ねるとエバンスは大きな体躯を椅子に沈め、考えながら色々と書き込んだ手帳を見つめていた。

その表情には、主人の果断な決断に対する驚きと戸惑い、現場を預かる責任者としての重い懸念がにじんでいた。


「サー・パーシバル。

特別な手順で製造する瓶詰め牛乳。

そして、搾乳可能な牛を合計60頭、子牛を30頭へと拡充するご命令も領地の発展のため全力で遂行いたします。

……ですが、現場の人間として、どうしても計算しておかねばならない数字がございます」


エバンスは太い指先で帳簿の余白をなぞった。


「現在、このサリー州の豊かな牧草で育った乳牛は、すこぶる健康でございます。

優秀な乳牛であれば、夏に1日約20パイント、冬は約8パイント程度の搾乳が可能です。

60頭の乳牛のうち50頭から乳を搾れたとして夏には1,000パイントもの濃厚な牛乳を生産することになります」


エバンスの声が事務室に低く響く。


「毎日1,000パイント、約125ガロンにございますよ!

いかに先ほどの作業指示書にある通り製造をしたとしても液体である牛乳が保存できる期間には限度があるかと存じます。

そして、ロンドンで瓶詰め牛乳を高貴な方々や富裕な人々へ製造から数日経過した商品を売るわけには参りません。

これほどの量となりますと大量の売れ残りを生み出す危険がございます」


エバンスは困惑したように両手を広げた。


「売れ残った牛乳を、毎日すべて保存用バターに加工する作業は、今の労働者の妻たちの手には負えません。

かといって、農場の労働者たちで自家消費させようにも、彼らの胃袋が牛乳で溺れてしまいます。

余剰牛乳の処理には、限界があるのでございます」


そのもっともな指摘を聞き、パーシバルは静かに目を細めた。

ただ盲目的に命令に従うのではなく、生産量の拡大がもたらす供給過剰の未来を正確に予測し、損益の分岐点を提示する。

優秀な現場管理人であった。


「素晴らしい指摘だ、エバンス。

君がそこまで先を見通してくれるからこそ、私は安心してこの3,000エーカーの農場を任せることができる」


パーシバルは紅茶をもう一口味わい、ゆったりと微笑んだ。


「鮮度だけに依存する商売は、天候や市場の気まぐれによっていつでも足元をすくわれる。

だからこそ、保存が効かない余剰の生乳を1ヶ月経っても価値が落ちない高付加価値な商品へと変換する仕組みが必要なのだ。

解決策はすでに私の方で用意してある」


パーシバルは懐から、数枚の紙を取り出しエバンスに手渡した。

題して『黄金のオイル漬けフレッシュチーズ製造手順』。


「チーズにございますか?

ですが、チェダーのような硬いチーズを熟成させるには、洞窟の倉庫と何ヶ月もの時間が必要になりますが」


「私のチーズは洞窟を必要としない。

一日で完成し、なおかつ壺の中で少なくとも1ヶ月間、最高の味を保ち続ける特別なチーズだ」


パーシバルは指先で製造手順書の紙を指し、その全8段階の手順をエバンスに口述し始めた。


「商品名は『パールチーズ』とする。

完成したチーズは、小指の先ほど小さく、真珠のように白く美しい小さな粒であることからつけた名前だ。

メイフェアの貴族たちの晩餐会にふさわしい逸品となる」


エバンスは身を乗り出し、パーシバルの言葉を聞き漏らさないよう耳を傾ける。


「まず第1の工程。

牛乳を湯煎鍋に入れ、蓋を閉めたまま65℃できっちり30分間保持する。

これは瓶詰め牛乳の手順と同じだ」


「次に第2の工程。

ここがもっとも重要だ。

鍋の蓋を開け、凝固剤として南欧産のレモンの搾り汁を投入する。

手回しの攪拌器ミキサーを数秒間だけ回してレモンの搾り汁を牛乳全体に馴染ませたら、ただちに動きを止め、蓋を閉めて15分間、絶対に手を出さず静置する」


パーシバルは厳しく注意を促した。


「かき混ぜすぎは禁物だ。

レモン汁を入れたあとに激しく攪拌すれば、せっかくのチーズが細かく粉砕され、ただの白いカスになってしまう。

15分間、静寂の中で待つことで、高品質で濃厚な牛乳の結びつき、まるで真っ白な大理石のような美しい塊へと成長するのだ」


「第3の工程は圧搾だ。

塊となったカードを清潔な綿布で包み出し、圧搾用の桶に移してテコ式のプレス機で水分ホエイを押し出す。

工程2から3で生まれるチーズの残り物、ホエイは豚の餌にすること」


「第4の工程。

脱水した固形のチーズを清潔なナイフで指先ほどの大きさに切り分け、深井戸から汲み上げた冷水に投入して中心の熱を一気に奪う」


「第5の工程は表面の完全脱水だ。

冷水から引き上げたチーズ粒を手回し式の水切り器で水気を飛ばし、仕上げに乾燥した清潔な布を使って、表面に付着した水分を拭い去る」


パーシバルは声を潜めた。


「チーズの表面に水分が残っていれば、保管中にそこから緑色のカビが繁殖する。

カビの住処となる水分をとにかく減らす作業だ」


「そして第6の工程。

充填とオイル漬けだ。

容量1ポンド(約454g)入りの小さな陶器の壺を用意し、切り分けたチーズ粒を隙間なく詰める。

その上から、少量の塩とコショウ、そしてすり潰したレモン(ピューレ)、南欧産の最高級オリーブオイルを注ぎ込み、チーズを完全に油面の下に沈める」


エバンスは不思議そうに首をひねった。


「レモンの爽やかな風味をチーズに移すのでしょうか?」


「まあ、そんなところだ」

酸性にすることによる、ボツリヌス菌の封殺を上手く説明できなかったパーシバルは曖昧に風味付けと答える。


「第7の工程。

壺に蓋をはめ込み、壺の口全体を封蝋シーリングワックスで分厚く覆い尽くし密閉する」


「第8の工程。

完成した壺を領地の冷暗所にて保管し、日持ちする至高のオードブルとして定期的にロンドンへ出荷するのだ」


製造手順を見つめながら、エバンスは頭の中で驚くべき利益の計算をはじめていた。


「サー・パーシバル……。

余剰に生産された牛乳やロンドンから戻ってきた売れ残り牛乳がわずか1日の作業で保存の効くチーズに生まれ変わるのですね!」


エバンスの声が興奮で震えた。


パーシバルは満足げに立ち上がり、帽子とステッキを手にした。


「これで過剰生産による危険は下がっただろう。

生乳はロンドン行きの瓶詰め牛乳にするか、あるいはこのパールチーズに変える。

一滴の無駄も出すつもりはない」



事務室を出て、パーシバルはロンドン帰還用の馬車が待つ中庭へと歩いた。

午後の柔らかな光の中、農場の奥にある広大な牧草地では、放牧されている牛たちの群れがのどかに草をはんでいた。


パーシバルは馬車に乗る足を止め、柵のそばにやってきた一頭の牛をじっと見つめた。

一般的なイングランドの大きな赤茶色の牛とは異なり、小柄で鹿のような優美な体つきをしている。

つぶらで大きな瞳と、黒っぽい蹄、そして柔らかな毛並み。


パーシバルはふと疑問に思い、隣に立つ巨漢の管理人に視線を向けた。


「ところで、エバンス。

私は先ほど君に追加の乳牛を買うよう命じたが……

そもそも、この素晴らしい乳牛の正確な品種はいったい何なのだ?」


エバンスは主人の問いかけに対し、自慢の娘を紹介するかのように大きく胸を張り、まことに誇らしげな笑顔で答えた。


「当然にございます、サー・パーシバル!

あなた様の口にふさわしい、まるでクリームのように濃厚な極上の乳を搾るため、イギリス海峡に浮かぶジャージー島から海を越えて取り寄せた、最高峰のアルダニー牛にございますよ」


その地名を聞いた瞬間、パーシバルの双眸が大きく見開かれた。

彼の脳裏の奥底に眠っていた前世の記憶――現代のスーパーマーケットや洋菓子店で、最高峰のブランドとして燦然と輝いていたあのプレミアムミルクの名前が、目の前の鹿のような牛の姿と完全に合致したのである。


「そうか! これがジャージー牛乳というわけか!」


パーシバルはステッキを握りしめ、心の底から湧き上がる歓喜の声をあげた。


「素晴らしい! まさに最高の選択だ、エバンス! あのジャージー島から来たジャージー牛だったとはな!」


満面の笑みで牛を絶賛する主人の姿を見つめながら、エバンスはただ目を瞬かせ、深い困惑に包まれていた。

なぜ自分の主君が、アルダニー牛という呼び名を聞いただけで、「ジャージー牛乳」などという島の名前を付けた言葉を口にしてこれほど熱狂的に喜んでいるのか、その理由がいっこうに理解できなかったからである。


「は、はい……島の名はジャージー島にございますが……サー・パーシバル?」


首をひねる巨漢の管理人をあとに残し、パーシバルはご機嫌な足取りで馬車に乗り込んだ。

安全な瓶詰め牛乳と、長期保存が効くオリーブオイル漬けのパールチーズ。

そして最高峰のジャージー牛。

上流階級の食卓を彩る新たな商業の萌芽が、サリー州の確かな春の日差しの中で、いよいよ力強く産声をあげたのであった。



■1820年6月。

大英帝国の首都ロンドンは、例年になく喧騒に包まれていた。

大陸に長らく滞在していた王妃キャロラインが、新国王ジョージ四世の即位に伴い、突如として帰国を果たしたのである。

国王側はただちに王妃の不貞を理由に離婚を要求し、その裁判の行方は王室のゴシップ記事として連日のようにタイムズ紙などの紙面を独占していた。


王室と政府への不満を募らせる急進派の市民たちは王妃の熱烈な支持に回り、街角のパブや高級なクラブにおいて、紳士たちの話題はこの政治的な醜聞で持ちきりとなっている。


ブルームズベリーに建つサー・パーシバル・シャルトンのタウンハウスは、そんな世間の浮ついた熱気から完全に遮断されていた。

書斎の窓から差し込む初夏の温かな光の中、パーシバルは革張りの椅子に深く体を預け、配達されたばかりのタイムズ紙を広げていた。

視線は王妃のゴシップ欄に向けられているものの、その表情はいたって穏やかである。



部屋の扉がノックされ、家令のウィリアムが姿を現した。

彼の手には、頑丈な木箱が抱えられている。


「旦那様。サリー州ウォーキングの農場を預かるエバンスから、荷物が届きました」


「例の試作品だな。見せてくれ」


新聞を畳み、パーシバルは机の上を空けた。ウィリアムが木箱を置き、丁寧に蓋を開ける。

中には緩衝材として農場で刈り取られた干草がぎっしりと詰められており、その中心から透明なガラス瓶と、小さな陶器の壺がいくつも現れた。


ガラス瓶には特製の牛乳が満たされている。

製造工程を徹底して見直した結果、領地の冷暗所で1週間強もの間、まったく味を落とさずに保存可能となった品である。

そして陶器の壺は、真紅のシーリングワックスで完全に密閉された1ポンド入りの容器であった。

中身は、パーシバルの指示通りに作られたオリーブオイル漬けフレッシュチーズ、『パールチーズ』である。


「外見の梱包は申し分ない。あとは中身の出来栄えだな」


パーシバルはガラス瓶の冷たさを手のひらで確かめながら、満足げに頷いた。


「明日の夜、ハンストン氏をディナーに招いている。そこで彼自身の舌で確かめてもらおう」



翌日の夜。

シャルトン邸の食卓を囲むのは、主人であるパーシバルと、顧問弁護士のラルフ・ハンストン氏の2人である。

ウィリアムの手によって、前菜の皿が運ばれてきた。

皿の中央には、農場から届いた陶器の壺から取り出されたばかりのチーズが上品に盛り付けられている。


「ハンストン氏。これが現在、私の農場で試作を重ねている新商品だ。

少なくとも1ヶ月は保存可能なフレッシュチーズのオリーブオイル漬けだ。

忌憚のない意見を聞かせてほしい」


ハンストン氏は興味深そうにフォークを手に取り、真っ白なチーズの粒を口に運んだ。

咀嚼したまたたく間、弁護士の目が大きく見開かれた。


「……これは驚きました」


ハンストン氏はもう一口味わい、感嘆の声を漏らした。


「舌の上で滑らかに溶けるような食感。

そこに絡みつくオリーブの芳醇な風味。

これはレモンでしょうか?わずかな酸味と塩気が、全体の味を見事に引き締めております。

ロンドンでは保存食といえば塩辛いだけの代物が相場ですが、これはまったく違う。

まさに高級な晩餐会にふさわしい逸品です」


「牛乳も試していただきたい」


パーシバルが促すと、ウィリアムがガラス瓶からグラスへ牛乳を注いだ。

ハンストン氏はグラスを傾け、ゆっくりと飲み込んだ。


「これは、まるでクリームのように濃厚な味わいです。

しかも、サリー州から運ばれてきたにもかかわらず、酸味がまったく存在しない。

サー・パーシバル、これはロンドンの社交界を間違いなく席巻します。大成功は確実です」


顧問弁護士の絶賛を受け、パーシバルはナプキンで口元を拭い、グラスを置いた。


「味の保証は得られた。

だが、商売を長期的に安定させるためには、法律の壁を味方につける必要がある。

ハンストン氏、あなたには法務の面で重要な仕事をお願いしたい」


パーシバルは身を乗り出し、声を少し潜めた。


「バーモンジーで事業を展開しているエンジニア、ブライアン・ドンキン氏およびジョン・ホール氏に接触していただきたいのだ。

彼らは現在、食品を加熱して容器に密閉する保存技術に関する特許を保有している」


ハンストン氏は手帳を取り出し、ペンを構えた。


「彼らの特許技術を使用する許可を得るのでございますね。

しかし、特許権者は高額な使用料を要求してくるのが通例ですが」


「そこで交渉の余地が生まれるのだよ」


パーシバルは微かに口角を上げた。


「彼らが国王陛下から特許状を取得したのは、おおよそ1810年代の前半だ。

この国の法律では、特許の存続期間は14年間と定められている。

つまり、彼らの権利はあと3年か4年で完全に期限が切れ、誰でも自由に使用できる技術に変わるのだ。

期限切れが間近に迫った特許に巨額の価値はつかない」


ハンストン氏は手を止め、パーシバルの顔を見た。


「なるほど。権利の残り期間を盾に取り、価格を切り下げる算段ですね」


「その通りだ。

さらに、交渉の条件を絞り込む。

彼らの技術を大英帝国全体で使用するつもりはない。

私が求めるのは、ロンドンおよびその近郊市場における瓶詰め牛乳事業に限った独占ライセンス契約だ。

対象地域と商品を限定すれば、彼らも自分たちの本業である海軍向けの保存食事業と競合しないため、はるかに合意しやすくなるはずだ。

あなたの交渉次第でライセンス料は驚くほど安く抑えられるだろう」


特許権の存続期間を先読みし、契約の範囲を限定することでコストを最小限に抑える。

パーシバルのその計算し尽くされた手腕に、ハンストン氏は深い敬意を抱いた。


「お見事な着眼点です。

ただちに私の事務所の人間を動かし、もっとも有利な条件で独占ライセンス契約を取り付けてまいりましょう」


「それから、もう1件。商会の支配人候補についてだ」


パーシバルの言葉に、ハンストン氏は手帳の別のページを開いた。


「はい。先日ご依頼いただきました件でございますね。

『ウォーキング酪農商会』の実務を担う支配人候補を、現在わが事務所にて2、3人ほど選定中でございます。

候補者の経歴を洗い出し、確実な人物を絞り込んでいる最中にて」


「急ぐ必要はないが、妥協はしないでほしい」


パーシバルは真剣な眼差しを向けた。


「私たちが相手にするのは、ロンドンの上流階級だ。

ウェストエンドの貴族の邸宅やセント・ジェームズの格式高いクラブへ出向いて商談を行うことになる。

相応の人物でなければいけないからな、妥協はしたくない」


「たしかに、顧客の身分にふさわしい品格が求められますね」


食後のポートワインが運ばれてくると、二人の話題は再び世間のゴシップへと戻った。


「それにしても、王妃の裁判はどうなることでしょう。

タイムズ紙は毎日新しい疑惑を報じており、市民の関心はまったく衰えません」


ハンストン氏がワイングラスを揺らしながら言うと、パーシバルは静かに頷いた。


「大衆というものは、不満の捌け口として他人の醜聞を消費することに喜びを見出すものだ。

王室のゴシップが終わったらまた次のスキャンダルを探してくるだろう、気にしていてはキリがない」




■1820年某月

サー・パーシバル・シャルトンは、ハイド・パークのすぐそばに建つ壮麗な邸宅、アプスリー・ハウスへと幾度も足を運んでいた。

アーサー・ウェルズリー、すなわちウェリントン公爵からの招待を受けたためである。

パーシバルが執筆した全6巻の兵站に関する大著を軍が買い上げたことへの公爵からの個人的な返礼であった。


公爵は自らが主催する私的な晩餐会や夜会において、パーシバルを賓客として厚くもてなした。

不愛想で知られる公爵であったが、実力のある人間には惜しみない賛辞を送る人物である。

彼は集まった招待客たちに対し、「この若者は、我が軍の動脈を正確に理解している稀有な男だ」とパーシバルを紹介して回ったのである。


大英帝国を救った英雄である公爵の後ろ盾を得たことで、パーシバルの社交界における地位は確固たるものとなっていた。

蝋燭が眩く輝き、室内管弦楽団が控えめで静かな音を奏でる広間のなかで、パーシバルはグラスを片手に会場を埋め尽くす着飾った淑女たちを静かに観察していた。


パーシバル自身、莫大な富を築き上げつつある今、自らの邸宅を取り仕切り、将来の跡継ぎを生む妻を娶りたいという結婚願望は確かに持っていた。

しかし、この時代の上流階級における正しい淑女のあり方は、現代の常識と価値観を魂の奥底に記憶している彼からすれば、あまりにも退屈で魅力に欠けるものであった。


1820年代のイギリスにおいて、良家の令嬢に求められるのは、男性を喜ばせるためのたしなみばかりである。

フランス語の朗読、水彩画、ピアノフォルテの演奏、そして美しい刺繍。

彼女たちは幼い頃からそれらの技術を徹底的に叩き込まれる。

その一方で、政治や経済、さらには哲学や科学といった学問に深い興味を示すことは女性らしさに欠けるとして厳しく忌避された。

常に男性の後ろへ少し下がり、か弱く従順に微笑むこと。

それがこの時代の完璧な女性像であった。


ある程度対等な関係を築き、社会の動向や領地の事業について議論を交わすことができるような自立したパートナーを無意識に求めてしまうパーシバルにとって、彼女たちはまるで美しい鳥籠のなかに閉じ込められた、虚飾にまみれた鑑賞用の鳥のようにも見えたのである。

目の前でただ愛想笑いを浮かべる令嬢たちの姿には、どこか空虚なものを感じざるを得なかった。

彼女たちの世界は、邸宅の応接間と舞踏室だけで完結しているのである。


しかし、パーシバルの内心の冷え込みとは裏腹に、会場の淑女たちから彼に向けられる熱視線は、夜を追うごとに激しさを増していた。

パーシバルはまだ28歳という若さでありながら、サリー州に広大な土地を所有し、出身も地方のジェントリ出身で血筋も確か、ナイトの称号も得ており、さらにはウェリントン公爵のお気に入りである。


結婚市場において、これほど条件の揃った魅力的な獲物は他に存在しない。

令嬢たちの背後には、娘を金持ちの紳士に嫁がせることに執念を燃やす母親たちが、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い目つきで控えている。


当時の厳格な礼儀作法において、女性から見知らぬ男性に直接声をかけるようなはしたない真似は絶対に許されなかった。

そこで彼女たちが用いるのが、偶然を装った落とし物の戦術である。


パーシバルが談話室から舞踏室へと移動する短い距離のあいだに、信じられないほど多数の偶然が発生した。

すれ違いざまに、純白のレースのハンカチがふわりと床に落ちる。

装飾の施された高価な象牙の扇子が、手から滑り落ちる。

次の舞踏の相手を記すための小さなカードが、彼の革靴のすぐそばに転がる。

なかには、パーシバルの目の前でわざとつまずき、彼の手を借りようとする大胆な令嬢すらいた。


紳士たるもの、女性の落とし物を見過ごすことはできない。

パーシバルがそれを拾い上げ、手渡した瞬間、会話の糸口が生まれ、すかさず背後から母親が現れて正式な紹介の挨拶を交わすことになる。

パーシバルは紳士としての完璧な礼儀を保ちながらも、その果てしなく続く紳士に課せられた暗黙の義務の連続に深い疲労を覚えていた。


7月の終わりのある夜。

時計の針が深夜の12時を大きく回った頃、パーシバルはブルームズベリーのタウンハウスへと帰還した。

寝室に続く控室で、家令のウィリアム・ホッジスが主人の帰りを待ち受けていた。

彼は無言でパーシバルのフロックコートを受け取り、清浄な水をグラスに注いで手渡した。


「ご苦労だったな、ウィリアム。

今夜のアプスリー・ハウスも、まことに骨が折れる戦場であったよ」

パーシバルがクラバットを緩めながら口を開くと、ウィリアムは微かに眉を上げて答えた。


「お疲れのようですね、旦那様。

今夜の夜会も、さぞ華やかであったこととお察しいたします。

公爵閣下との有意義な語らいはございましたか」


「公爵との会話は非常に有意義だった。

だが、私を心底疲れさせたのは軍事の話ではない。

会場にひしめくご令嬢方からのあまりにも激しい砲撃の嵐の方だ」

パーシバルは水を口に含み、面白そうに目を細めた。


「ウィリアム、今日の私はまるで落とし物係だったよ。

会場を歩くたびに私の目の前でひらひらと物が落ちるのだ。

今夜だけで、私は5枚の絹のハンカチ、3本の扇子、そして2枚のダンスカードを床から拾い上げる羽目になった。

床に向かって腰を曲げすぎて、私の背骨が折れなかったのが不思議なくらいだ」


ウィリアムは主人の冗談に、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「それは素晴らしい戦果でございますね。

5枚のハンカチとは、社交界の紳士たちも羨むほどの記録かと存じます。

もしそれらを集めてつなぎ合わせれば、いずれは立派なテーブルクロスができあがるかもしれません。

それで、旦那様はその落とし物の持ち主たちの中から、将来の奥様となりそうな方を見つけられたのでしょうか」


パーシバルは水が入ったグラスを揺らし、蝋燭の灯に透かして透明な液体を見つめた。


「残念ながら、私の心に火をつけるようなご令嬢は誰1人いなかった。

彼女たちの所作は確かに美しい。

だが、私が求めているのは、ただ微笑んでハンカチを落とすだけの飾り物ではないのだ。

会話をしても返ってくるのは王室の不倫騒動の噂話か、最近の天候の話ばかりだ。

私がもし領地経営について話でも振ろうものなら、彼女たちはきっと顔を青くして卒倒してしまうだろうからな」


「ご令嬢たちにその様な話題を口にすることは、刺激が強すぎますからね。

彼女たちはそう教育されているのにございます」

ウィリアムが相槌を打つと、パーシバルは肩をすくめた。


「私がいま求めているのは、事業の足場を固めることだ。

妻を娶るのは、そのあとにゆっくりと考えれば良い。

それにしても、あのご令嬢方の計算し尽くされた落とし物の技術には感心するよ。

あれほど見事に私の足元へハンカチを滑り込ませる技術があれば、王立砲兵連隊の大砲の狙いももう少し正確になるかもしれないな。

いっそのこと、彼女たちをフランス軍の陣地へ送り込み、敵の将校たちの前にハンカチを落とさせて大混乱を引き起こさせるべきかもしれない」


ウィリアムは静かに頭を下げた。


「明日の朝には、その素晴らしい技術を持つご令嬢方から、旦那様宛ての招待状や挨拶のカードが多数届くことでしょう。

私がしっかりと受け取りの対応をしておきます」


「頼んだぞ。明日は領地から届く報告書を読まねばならないから、手紙の返事はまた今度にしよう」


1820年の狂騒の夏。

華やかな社交界の裏側で、パーシバルは恋愛の遊戯よりも自身の事業に重きを置き、孤独に歩みを進めていた。



■1820年7月。

ロンドンの街路には、夏の強い日差しが容赦なく降り注いでいた。

テムズ川から立ち上る湿気と、馬車が行き交う通りの熱気が、市民の体力を容赦なく奪っていく。

太陽に熱せられた石畳からは不快な臭いが漂い、生鮮食品を扱うコヴェント・ガーデンの市場では、腐敗の進行を恐れる商人たちの怒声と、ハエを追う音が絶え間なく響き渡っていた。


しかし、現在のロンドン市民、とりわけウェストエンドの高級住宅街に住む富裕層たちを悩ませていたのは、夏の厳しい暑さや悪臭だけではなかった。

彼らの関心は今、自分たちの食卓に並ぶ食品の安全に対して、かつてないほど強烈に向けられていたのである。


ブルームズベリーに建つタウンハウスの応接間の中央に置かれたのテーブルを囲むように、3人の紳士が座っている。

当主であるサー・パーシバル・シャルトン、顧問弁護士のラルフ・ハンストン氏、そして、本日この屋敷へ招かれたトマス・アップルトン氏である。


アップルトン氏は現在35歳。

もともとは地方に土地を持つ、裕福なジェントリー階級の出身であった。

しかし、ナポレオン戦争の初期、彼の父親が運航費用を浮かすために高額な海上保険の掛け金と護衛艦の費用を節約して商船隊を海へ送り出した結果、フランス軍の私掠船に船を拿捕され、海の藻屑、あるいは敵の戦利品となってしまったのである。

莫大な負債を抱えた実家は破産を宣告され、先祖代々の領地も美しい家具もすべてが借金取りの手に渡った。


その後、かつての繋がりを頼ってロンドンの貿易商で貴族相手の応接役として働き始めたものの、運命は彼に味方しなかった。

昨年のデフレ不況によってその貿易商もあえなく倒産し、彼は再び職を失うという悲運に見舞われたのである。

住む場所も切り詰め、粗末なパンで食い繋ぐ日々を送る、まさに苦労人であった。


だが、応接間のソファに座るアップルトン氏の姿には、度重なる不運に対する卑屈さや、人生を呪うような暗さは全く見られなかった。

彼が身に纏う服装は古い仕立てであり、生地もすり減っていたが、袖口のほつれは綺麗に切り揃えられ、見事に修繕されている。

シャツの襟にはしっかりと糊が効いており、磨き上げられた革靴にはわずかな泥の跳ねすら存在しない。

背筋を真っ直ぐに伸ばし、相手の目をしっかりと見て話すその佇まいは、没落してもなお誇りを失わない、穏やかで気高いイギリス人紳士の品格そのものであった。


パーシバルは、彼のその姿勢に強い好感を抱いていた。

ハンストン氏が外部から集めた推薦状にも、彼の人柄の誠実さと、帳簿管理や商務に関する知識の正確さが間違いのないものだと記されている。


「アップルトン氏。

あなたのこれまでの経歴と、逆境にあっても紳士としての誇りを保ち続けるその姿勢、まことに感服いたしました」


パーシバルは穏やかな口調で語りかけ、机の上に用意した雇用契約書を提示した。


「あなたを我々の新しい事業、『ウォーキング酪農商会』の総支配人として正式に迎えたい。

契約の条件は以下の通りだ」


隣に座るハンストン氏が、法的な効力を持つ書面を読み上げる。

「商会からアップルトン氏へ支払う固定年給は、160ポンドと定めます。

これに加え、商会が計上する純利益の2パーセントを歩合給として支給いたします。

本契約の期間は、やむを得ない事由がない限り、15年間の長期継続雇用を保証いたします」


固定年給160ポンドに加え、利益に応じた歩合給。

さらには15年間という確実な身分の保証。

それは、街頭に迷い出ようとしていた没落紳士にとって、破格とも言える救いの手であった。


「サー・パーシバル……。

私のような者に、これほど寛大な条件を提示していただけるとは。

私の生涯を懸けて、商会の職務に全力を尽くすことをお誓いいたします」

アップルトン氏の声は深く震えていたが、その表情はあくまで紳士としての抑制が効いていた。


「ありがとう。しかし言葉だけの約束では商売は動かないだろう。

アップルトン氏、まずはあなたがロンドンの上流階級に売ることとなる品物をあなた自身の舌で確かめてほしい。

自分が売る商品の味と品質を知れば成功への道筋も思い浮かぶはずだ」


パーシバルが合図をすると、控えていた家令のウィリアムが銀のトレイを運んできた。

トレイの上には、透明なガラス瓶に入ったジャージー牛乳と赤い封蝋を削り取った1ポンド壺入りの『パールチーズ』が載せられている。

オリーブオイルの輝きが窓からの太陽光を反射して美しくきらめいていた。


少しの躊躇も見せず、アップルトン氏は勧められるままに、まずはグラスに注がれた牛乳を口に含んだ。

その瞬間、彼の瞳に驚愕の色が広がった。

粗末な食事で飢えをしのいできた彼の身体に濃厚な牛乳の栄養と甘みが染み渡っていく。


「……なんと。

この夏の暑さの中でこれほど濃厚で全く雑味、酸味のない牛乳が飲めるとは」


次にオリーブオイルに漬かった真珠のようなチーズ粒をフォークで口に運ぶ。


「素晴らしい。

舌の上で溶けるようなチーズの滑らかな食感とオリーブオイルの芳醇な風味が見事に調和しております。

保存食特有の嫌な塩辛さも全くありません。

これらがサリー州の農場から運ばれてきたままの鮮度を保っているとは、にわかには信じがたい品質にございます」


「サリー州の確かな管理が生んだ品質だ」とパーシバルは微笑んだ。


「この商品の販売価格を発表する。

まず、透明ガラス瓶入りの高級牛乳は、1パイントにつき1シリング6ペンスで販売する。

瓶は必ず回収し、顧客が紛失、あるいは破損した場合は6ペンスを別途弁償させる契約だ。

そして、オリーブオイル漬けのパールチーズは、1ポンド壺につき6シリングとする」


その価格を聞き、アップルトン氏は少しだけ目を見開いた。

「1パイントが1シリング6ペンス……市場の相場よりかなり高価な設定にございますね。

しかし、挑戦してみる価値は存分にございます」


アップルトン氏は確信に満ちた声をあげた。

「現在、化学者フレデリック・アークム氏が告発した著書『食品の混ぜ物工作と厨房の毒』がベストセラーとなり、富裕層たちを恐怖のどん底に陥れております」


「パンを白く見せるための明礬、ワインの酸味を消すための鉛、ピクルスを鮮やかな緑色にするための銅。

そして何より、チョークの粉や汚れた水で薄められた市販の牛乳。

貴族たちは今、自分たちの厨房に潜む偽装食品の毒に対して、強い危機感を抱いているのです。

料理人を疑って解雇し、市場で買ってきた食べ物を自ら薬品で検査しようとする貴族まで現れる始末にございます」


アップルトン氏は身を乗り出した。

「我が商会が混ぜ物が全く存在しない絶対的な安全性を謳えば、価格が高くとも必ず需要がございます。

彼らは自分たちの健康と安全を金で買うことを惜しみませんから」


「見事な読みだ。その恐怖こそが、我々の最大の味方となる」

パーシバルは深く満足し、社会の動向を正確に読み取る彼の見識を高く評価した。


「商品の安全性を保証するためには、配達網の保安対策も完璧でなければならない」


パーシバルは話題を変え、指示を下した。

「ロンドンの街路には、高価な品物を狙うゴロツキや強盗が潜んでいる。

そこで、配達員には王立輸送部隊の退役兵たちを雇用せよ」


「王立輸送部隊、でございますか?」


「そうだ。私はかつて大尉としてあの部隊に所属していた。

彼らは馬の扱いや荷車の操縦において右に出る者のいない専門家であると同時に戦場を生き抜いた戦士だ。

過酷な戦地で弾薬や食料を運び続けた彼らが御者台に座り、鞭と棍棒を握っていれば、街の悪党どもから商品を守る極めて強力な盾となる」


パーシバルはさらに具体的な人脈を提示した。

「さらに、私の屋敷で従僕をしているスローターは、もともと私の従卒として戦場を駆けた男であり、現在も王立輸送部隊の退役兵たちと繋がりを持っている。

酒癖の悪い者や怠け者を排除し、本当に頼りになる兵士だけを見分ける目を持っているのだ。

彼が推薦する元兵士を雇い入れれば、身元の信頼性も高い」


「馬車の操縦から警護まで、非の打ちどころのない布陣となりますね」

アップルトン氏は深く頷き、新たな職務への決意を瞳に宿らせた。


炎天下のロンドンにおいて、上流階級の恐怖を確実な需要へと変えるウォーキング酪農商会が、いよいよ本格的な船出の時を迎えたのである。




■1820年10月末。

大英帝国の首都ロンドンに、秋の深まりを告げる冷たい風が吹き始めていた。

ブルームズベリーの閑静な区画に建つサー・パーシバル・シャルトンのタウンハウス。

その書斎で、パーシバルは心地よい疲労感とともに、分厚い革張りの椅子に深く体を預けていた。

彼の手元には、「ウォーキング酪農商会」の総支配人であるトマス・アップルトンから届けられた、10月度の定期報告書が広げられている。

その紙面に整然と並ぶ数字と事業の成果は、パーシバルの予測をさらに上回る、極めて見事なものであった。


商会はロンドンでの営業を開始してからわずか数ヶ月で、すでに数十件もの大口契約を獲得し、毎日200パイント近い高級瓶詰め牛乳をウェストエンドの邸宅へ配達する順調な滑り出しを見せていた。

これほど短期間で富裕層の顧客を取り込めた成功の要因は、ひとえにアップルトンという男の、上流階級の心理を完璧に突いた宣伝戦略にあった。


彼はまず、タイムズ紙の広告欄に、非常に洗練された文章を掲載した。

そこには、市場の牛乳のような価格の安さや量の多さなどは全く書かれていない。

強調されたのは、「サリー州の緑豊かな専用牧草地」「海を越えて取り寄せた純血の牛」、そして何よりも「徹底された清潔と完全な密閉」という、絶対的な安全性と品質の保証であった。


現在、ロンドンの富裕層の間では、化学者フレデリック・アークムが告発した食品の偽装問題が大きな波紋を呼んでいる。

貴族たちは、自分たちの食卓に毒が盛られているかもしれないという事実を知り、強い恐怖に怯えていた。

アップルトンはその恐怖心を巧みに利用したのである。

「高い代金を支払えば、絶対に安全で出所の確かな、極上の牛乳が手に入る」という安心感を提示し、彼らの不安を購買意欲へと変換したのだ。


さらに、元はジェントルマン階級に属していたアップルトンは、その洗練された身なりと完璧な礼儀作法を武器に、セント・ジェームズ地区に立ち並ぶ高級クラブへと直接足を運んだ。

特に、軍人や将校が集う「ユナイテッド・サービス・クラブ」では、配達員に歴戦の退役兵を雇用しているという事実が、会員たちから大きな共感と信頼を集めた。

彼はクラブの談話室で、透明なガラス瓶に入った冷たい牛乳の試飲会を開き、舌の肥えた紳士たちにその濃厚な味と安全性を直接証明してみせたのである。


「やはり、彼を支配人に選んで正解だったな。高い固定給を払って優秀な男を雇っただけのことはある」

パーシバルは報告書を読みながら、深い安堵の息を漏らした。

身分を隠すための単なる壁としてではなく、事業を拡大するための強力な矛として、アップルトンは期待以上の働きを見せている。


パーシバルは報告書のページをめくり、生産の現場であるサリー州ウォーキングの農場に関する項目へと視線を移した。

農場管理人のジョージ・エバンスからの報告によれば、現在農場では、搾乳可能な乳牛約50頭が、毎日平均600パイントという膨大な量の生乳を生み出している。

この600パイントの生乳が、無駄もなくロンドンで金貨へと変換されていくシステマチックな構造が、領地においてすでに完全に機能していた。


まず、毎朝搾られた600パイントのうち、250パイントが直ちに作業場へと運ばれ、指示書通りの加熱殺菌と瓶詰め工程に回される。

厳重に密閉された250本のガラス瓶は、振動を吸収する特製馬車に積まれ、ロンドンへと出荷される。

ロンドンに到着したのち、契約している邸宅へ毎日200パイント近くが配達され、残りの50パイント前後は新規顧客への見本、あるいは急な注文に備える予備在庫として商会に保管される。


そして、農場に残された350パイントの生乳。

これらはそのまま放置すれば数日で腐敗して商品価値を失ってしまうが、パーシバルの構築した事業においてその心配は無用である。

残る350パイントの生乳と、ロンドンから売れずに戻ってきた数日前の予備在庫の牛乳は、すべてその日のうちに集められ、ただちに「パールチーズ」の製造工程へと回されるのである。


凝固剤と遠心脱水機を使用し、新鮮なうちに水分を完全に抜かれたチーズの粒は、1ポンド用の陶器の壺に詰められ、南欧産のオリーブオイルとレモンピューレの海に沈められる。

生乳のままでは数日しか持たない短い命が、この工程を経ることで、数ヶ月の保存に耐えうる高付加価値の特産品へと生まれ変わるのだ。


牛乳の廃棄による損失を極限まで減らす、この完璧な循環システム。

それはまさに、領地の牧草を黄金のコインに変える、巨大な錬金術の装置であった。

パーシバルは、自ら構築したこの目論見が完全に軌道に乗っている事実に、資本家としてのこの上ない満足感を覚えていた。


報告書の後半には、そのパールチーズの販路と熟成に関する、興味深い結果が記されていた。


農場で作られたばかりの真新しいパールチーズも十分に美味であるが、アップルトンの報告によれば、領地の冷暗所で壺のまま3ヶ月間オリーブオイルのなかで熟成させると、さらに驚くべき変化が起きるという。

オイルのなかで3ヶ月という静かな時間を過ごすことで、チーズの成分と塩味、そしてレモンの酸味が完全にオイルへと溶け合い、角の取れた最も滑らかで芳醇な至高の味へと仕上がるのだ。

壺を開けた瞬間に広がるオリーブオイルの艶やかな輝きと、芳醇な香りは、まさに高級食材の証であった。


アップルトンはこの熟成されたパールチーズを、無闇に街の市場で売り歩くような真似はしなかった。

彼は、メイフェアに建ち並ぶ大貴族の邸宅において、台所の全権を握っているプライドの高いフランス人料理長たちに狙いを定めたのである。


当時、ロンドンの大貴族たちの間では、美食の本場であるフランスから料理長を雇い入れることが最高のステータスとされていた。

晩餐会の出来不出来は、彼らフランス人シェフの腕にかかっていると言っても過言ではない。

アップルトンは彼らのもとを訪れ、「サリー州の領地で特別に作られた、この国では他に類を見ないオードブルです。ぜひ、貴方の素晴らしい料理のインスピレーションにお役立てください」と、熟成されたパールチーズの壺を試食用として無償で提供して回ったのである。


結果は火を見るより明らかであった。

味にうるさいフランス人料理長たちは、初めて口にするその滑らかな舌触りと芳醇な風味に驚愕した。

そして彼らはこぞって、自身が仕切る華やかな晩餐会のオードブルとして、このパールチーズを使用し始めたのである。


晩餐会に招かれた貴族のゲストたちが、その美しい真珠のようなチーズの味を絶賛する。

「これはどこの品だ?」と主人が尋ね、料理長が誇らしげに「ウォーキング酪農商会の特別なチーズでございます」と答える。

これ以上ない、最高級の宣伝であった。


報告書の結びには、アップルトンの力強い筆致でこう書かれていた。

『フランス人料理長たちからの継続的な注文が入り始めております。

1ポンド入りで6シリングという高価な壺が、少しずつ、しかし確実に毎週の定期注文として売れ始めております。

牛乳の売り上げと合わせ、商会の利益はさらに加速することでしょう』


パーシバルは報告書を机の上に置き、窓の外を見た。

秋の夕暮れが迫るロンドンの街並みは、ガス燈の明かりを灯し始めている。

あの明かりの向こう側で、自分が仕掛けた商品が貴族たちの舌を虜にし、莫大な富を生み出し続けているのだ。


「素晴らしい。実に素晴らしい働きだ」

自らの持つ知識と、アップルトンという有能な人物の才能が完璧に噛み合った結果である。

毎日600パイントの牛乳が、全くの無駄なく金貨へと変換されていく。

このシステマチックな生産と販売の構造が崩れない限り、彼の金庫は絶え間なく膨れ上がり続けるだろう。




■1820年11月。

夜、パーシバルは顧問弁護士であるラルフ・ハンストン氏をディナーに招いていた。

家令のウィリアムが、前菜として1枚の美しい飾り皿を2人の前に静かに置いた。


皿の中央に品良く盛り付けられているのは、サリー州ウォーキングの農場で製造され、領地の冷暗所のなかでオリーブオイルに浸かったまま3ヶ月間という時間をかけて熟成されたパールチーズである。


ハンストン氏は銀のフォークでチーズの粒をすくい上げ、口に運んだ。

ゆっくりと咀嚼したのち、弁護士の顔に深い感嘆の溜息が漏れた。


「……まことに素晴らしい。以前に出来立てを試食させていただいた時も驚きましたが、3ヶ月の熟成を経たこれはさらに格別です。

レモンのほのかな酸味がオリーブオイルのなかに完全に溶け合い、舌の上でとろけるような芳醇な風味に仕上がっている。

メイフェアのフランス人料理長たちがこぞって買い求めるのも頷けます」


「気に入っていただけて何よりだ。熟成という時間こそが、この品物に最高の魔法をかけてくれる」


パーシバルはワイングラスを傾け、穏やかに微笑んだ。


「そのチーズの売れ行きも含め、ウォーキング酪農商会の事業は極めて順調に進んでいる。

支配人のアップルトンから届いた報告によれば、先月、すなわち10月度の売上総額が600ポンドを超えたそうだ。

配達網も安定しており、事業の基盤はすでに盤石と言っていい」


「600ポンドですか! 営業を開始してわずかな期間でそこまでの数字を叩き出すとは。

あなたの事業構想と、アップルトン氏の手腕が見事に噛み合った結果ですね」


ハンストン氏は賞賛の言葉を贈りつつ、やがて表情を弁護士のそれへと引き締めた。


「さて、サー・パーシバル。

本日の本題に入らせていただきます。

あなたが私に依頼されていた、ロンドン西部ケンジントン周辺における土地買収の件についてです。

残念ながら、芳しくないご報告をせねばなりません」


「難航しているようだな。詳細を聞こう」


パーシバルが促すと、ハンストン氏は革鞄から書類の束を取り出した。


「計画では、10エーカー以上のまとまった土地を買い取るお考えでした。

しかし、結論から申し上げますと、ケンジントンにおいてそのような広大な土地をそのまま確保することは非常に困難です」


ハンストン氏は書類を指先で叩いた。


「ご存知の通り、ケンジントン周辺の広大な土地は、昔から王室や貴族たちが分割して所有しております。

彼らは土地を開発業者に貸し出す際、99年間のリースホールド、すなわち借地権として設定するのが通例です。

求めているようなフリーホールド……完全自由保有権として土地を永遠に譲り渡すことなど、彼らの誇りが許しません」


パーシバルは黙って頷いた。

大英帝国における大地主にとって、価値のない荒れ地ならともかく、価値がある土地を手放すことは自らの権力基盤を切り売りすることに等しい。


「さらに」とハンストン氏は続けた。

「貴族の持ち物から外れたわずかな土地も、すでに何人もの地主や小作農によって複雑に細分化されており、境界線も入り組んでおります。

10エーカーものまとまった土地を現地の地主たちの抵抗を押し切って買い上げることは、現在の状況では絶望的と言わざるを得ません」


報告を終えたハンストン氏は、パーシバルが落胆するか、あるいは計画を白紙に戻すだろうと予想していた。

しかし、目の前に座る若き資本家の顔に、諦めの色は微塵も浮かんでいなかった。


「一度に完全な所有権が手に入らないのであれば、アプローチを変えるまでだ」


パーシバルはウィリアムに合図を送り、ケンジントン周辺の詳細な地図をテーブルの上に広げさせた。

インクで描かれた道路や区画の線を、パーシバルの指先がなぞっていく。


「ハンストン氏。

正面から大きな土地を買えないのであれば、点と点を繋ぎ合わせて私たちの陣地を作る。

地図のここを見てほしい。

ロンドン中心部から西部へと伸びる幹線道路、ケンジントン・ハイ・ストリートだ。

この街道に面した場所に1エーカーほどの土地を所有する馬宿が建っているな」


パーシバルが指差した先を、ハンストン氏が覗き込んだ。


「はい。たしかに古い馬宿がございます。

街道を行き交う駅馬車や旅行者が馬を休めるための施設ですが……」


「その馬宿をただちに買い取れ。1エーカーの土地に1,500ポンド支払っても構わない。

完全自由保有権を手に入れるのだ」


「1エーカーに1500ポンド! それは相場をはるかに超えた暴利です。なぜそのような無駄遣いを?」


驚く弁護士に対し、パーシバルは計画の真髄を語り始めた。


「無駄ではない。

ケンジントン・ハイ・ストリートは、ロンドンと西部の豊かな地方を結ぶ交通の大動脈だ。

その幹線道路に面した1エーカーの土地を持っているということは、将来あの場所に高級住宅地を造成した際、表通りへの最も立派な玄関口を確保できるということを意味するのだ。

交通の要衝を押さえることは、奥の土地の価値を何倍にも引き上げるための重要な鍵となる」


ハンストン氏は目を丸くした。点としての馬宿ではなく、未来の街の入り口としての価値。


「そして、ここからが本番だ。

その馬宿を買収した上で、馬宿の裏手に広がる地続きの南側農地に狙いを定める。

街道に面していない不便な農地だ。これらを所有しているのは大貴族ではなく、昨年の不況で日々の資金繰りに困窮している小作地主や自営農民たちのはずだ」


パーシバルの声に、確信に満ちた力が宿る。


「彼らのもとへ行き、現金という名の救いの手を差し伸べてやれ。1エーカーあたり500ポンドという、彼らにとっては十分すぎる額を提示し、個別に少しずつ買い集めるのだ。

とりあえず15エーカー分、総額7,500ポンドだ」


パーシバルは地図の上で、馬宿と裏手の農地をペン先でぐるりと囲んで見せた。


「表通りの馬宿1エーカーと裏手の農地15エーカー。

これらを結合させれば、幹線道路に面した立派な出入り口を持つ、合計16エーカーの素晴らしい一筆の土地が完成する。

貴族と正面から争うことなく、私たちの完全な領土がケンジントンに誕生するというわけだ。

総予算9,000ポンドで速やかに事を進めてくれ」


目の前に立ち塞がっていた大きな障害を圧倒的な資金力で突破してのける。


「……サー・パーシバル。

パズルのピースを集めて1枚の巨大な絵を完成させるような手法ですな。

地主たちも1エーカーあたり現金で500ポンドを積まれれば喜んで土地を手放すでしょう。

ただちに権利書の作成と買収工作に取り掛かります」


「頼んだぞ。

さて、土地の話はここまでだ。次は、私が考えているもう1つの投資先について、あなたの事務所に事前調査を依頼したい」


ウィリアムがメインディッシュを下げ、食後の紅茶をティーカップに注ぐ。

パーシバルはミルクティーの豊かな味わいを楽しみながら、次なるターゲットの名前を口にした。


「南ウェールズの西部に位置する炭鉱の買収を考えている。

現在の不況で石炭の需要が落ち込み、経営が行き詰まっている鉱山主が必ずいるはずだ。

現地の権利関係と、彼らが抱えている負債の状況を詳細に調べてほしいのだ」


「ウェールズの炭鉱ですか。たしかに不況で売りに出されている物件はいくつか心当たりがございますが……」


ハンストン氏は少し言い淀み、やがて心配そうな表情を浮かべて忠告の言葉を口にした。


「サー・パーシバル。

出過ぎた真似を承知で申し上げますが、その炭鉱から掘り出される石炭の種類はお分かりでしょうか。

南ウェールズ西部で採れるのは、大部分が『無煙炭』と呼ばれる非常に硬い石炭です」


「知っている。燃やしても煙がほとんど出ない石炭だ」


「だからこそ、儲からないのです」


ハンストン氏は語気を強めた。


「無煙炭は硬すぎるがゆえに火付きが極めて悪く、燃焼させるのが非常に困難です。

産業を支えている蒸気機関や製鉄所の溶鉱炉で重宝されているのは、簡単に火がつき強い火力を生む北部の瀝青炭です。

火を起こすのに手間がかかる無煙炭は使い道がなく、家庭の暖炉用としても扱いにくいと不評を買っております。

わざわざそのような使い道のない無煙炭の炭鉱を買収しても利益を生むとは到底思えません。

考え直されるべきかと存じます」


1820年という時代における、それはごく常識的な判断であった。

当時、無煙炭を効率よく燃焼させるための強力な送風技術はまだ普及しておらず、使い道がほとんど無いゴミ石炭と思われており、その真の価値は地中に眠ったままであった。


しかし、パーシバルは前世の記憶を持っている。

やがて蒸気船の時代が到来し、ボイラーの技術が進化すれば、煙を出さずに高い熱量を生み出す無煙炭は、海軍の軍艦や世界中の船にとって必要不可欠な最高級燃料として扱われるようになる。

ウェールズの無煙炭は、いずれ莫大な富を生み出す黒いダイヤへと化ける運命にあるのだ。


今のうちに経営難の炭鉱を格安で買い叩いておけば、20年後には計り知れない利益をもたらす。


「ハンストン氏、あなたの弁護士としての的確な忠告には常に感謝している。

だが、私が求めているのは現在の価値ではない。

10年後、20年後の大英帝国の姿を見据えた上での投資なのだ。

火付きが悪いという欠点など、いずれ新しい技術が解決してくれる」


パーシバルの口調は静かであったが、そこに込められた意志は鋼のように揺るぎないものであった。


「私はウェールズの無煙炭に賭ける。どうか、私の指示通りに事前調査を進めていただきたい」


その迷いのない眼差しを受け、ハンストン氏は小さく息を吐き出した。

これまでのパーシバルの投資がどれほど常識外れに見えても、最終的には莫大な利益を生み出してきたことを彼は誰よりも身近で見て知っている。


「……承知いたしました。

そこまで確信を持っておられるのであれば、これ以上申し上げることはございません。

ご依頼とあれば、私の事務所の調査員をただちにウェールズへ派遣し、権利と負債の状況を徹底的に洗い出させましょう」


「感謝する。これで私の夜も安心して眠りにつくことができる」


窓の外では、冷たい冬の雨が依然としてロンドンの街を打ち据えている。

しかし、シャルトン邸の食堂では、ケンジントンの土地とウェールズに眠る黒いダイヤという、未来の巨万の富に向けた確かな布石が、静かに、そして確実に打たれていたのである。



■1820年の12月末。

パーシバルは革張りの椅子に深く腰を下ろし、静かに耳を傾けている。

机を挟んだ向かい側には、家令のウィリアムが革表紙の帳簿を開き、主人に報告をしていた。

すなわち1820年の収支決算の報告が行われているところであった。


「……それでは旦那様。これより、本年度の最終的な決算をご報告いたします」

ウィリアムは、主人への深い敬意と、自らの仕事に対する誇りを込めた声で読み上げ始めた。


「まずは、本年度に新設いたしました『ウォーキング酪農商会』の決算から申し上げます。

事業を立ち上げるために投じた初期の投資総額は、およそ2,000ポンドとなりました」

「細かな内訳を頼む、ウィリアム」

パーシバルが促すと、ウィリアムは帳簿のページをめくった。


「はい。まず、ロンドン市内における販売の拠点となる事業所の購入費として、800ポンドを支出いたしました。

配達網の中心に位置する、レンガ造りの頑丈な建物でございます。

次に、牛乳への振動を吸収するための、バネ付き特製荷馬車6台および、それを牽く馬の購入費が400ポンド。

振動対策がいかに重要であるかは、春の試作段階で痛感した通りでございます」


ウィリアムの指先が、流れるようなインクの文字をなぞる。

「さらに、オーク材を使用した頑丈な保冷箱、特注の透明なガラス瓶、そして配達員として雇い入れた退役兵たちに支給する清潔な制服などの備品費に200ポンド。

ドンキン氏から取得した、加熱密閉特許の独占ライセンス費が200ポンド。

アップルトン氏への給与とその他の雑費で200ポンド

そして、ハンストン弁護士へ支払った法務および商会設立の手数料が200ポンド。

以上が、初期投資の主な内訳となります」


パーシバルは静かに頷いた。

「安全と品質を担保するための、完璧な土台作りだ。出し惜しみをする箇所はどこにもなかった。

それで、肝心の売上はどうなっている」


ウィリアムの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「驚くべき数字が出ております。夏に営業を開始してからわずか数ヶ月しか経っておりませんが、売上の合計はすでに3,000ポンドを突破いたしました。

支配人のアップルトン氏による宣伝が上流階級の心を完全に掴んだ証拠でございます」


「数ヶ月で3,000ポンドか。素晴らしい滑り出しだ」


「左様にございます。

この売上から、労働者への給与、馬の飼葉代、そして初期にタイムズ紙へ打った多額の広告費や、メイフェアの料理長たちへ配った無料の交際費などをすべて差し引きましても……

本年度だけで、旦那様のお手元に残る純利益は、確実に1,000ポンドを超える見通しとなっております。来年以降は初期の広告費が減りますので利益はさらに膨れ上がるでしょう」


パーシバルは満足げにランプの光を見つめた。

貴族たちに無料でチーズを配るという交際費は、最初は痛手のように見えたが、結果として最高の宣伝となり、今の莫大な利益を生み出している。計算し尽くされた投資の勝利であった。


「次に、サリー州ウォーキング領地、すなわち農場部門の決算に移ります」


ウィリアムは声を切り替え、新たな項目を読み上げる。

「今年度は従来の大麦に加え、初収穫となった小麦の売却益がございました。

しかし、昨今の穀物価格全体の下落を受け、売却の収入は約3,600ポンドに留まっております」


「価格の下落は市場の波だ。やむを得まい。全体の収支はどうなっている」


「はい。穀物の減収を見事に補ってくれたのが、2,500頭にまで増えた羊たちの存在です。

彼らがもたらした羊毛と食肉の収入が大きく貢献いたしました。

……とはいえ、本年度は農場へ多額の先行投資を行っております。

搾乳のための乳牛の追加購入、牛舎の新築、そしてチーズを製造するための機材の導入などです。

これらすべての支出を差し引いた結果、農場部門からの最終的な純利益は約4,000ポンドでの着地となりました」


商会の1,000ポンド、農場の4,000ポンド。

その他に保有している公債の利息など約2,000ポンドを合わせれば、パーシバルの金庫には、大貴族すら羨むほどの莫大な現金が積み上がっていることになる。


「そして、今年はウォーキングの農場村建設費とマナーハウスの建設費が約5,500ポンドが大きな支出となっており、来年も同様の支出となる見込みです」


およそ7,000ポンドの収入に対して支出は、生活費と雑費で約1,000ポンド、商会関連の初期投資2,000ポンド、領地の建設費5,500ポンドであり、収支はマイナス1,500ポンドであった。

これにより、当座の資金はおよそ32,500ポンドに減少してしまった。


ウィリアムはそこで言葉を区切り、姿勢を正した。

「旦那様。この素晴らしい決算の裏で、私からどうしても申し上げておかなければならない、重要な提言がございます」


「提言とは珍しいな。言ってみてくれ」


「組織の肥大化についてでございます」


ウィリアムの眼差しは真剣そのものであった。

「現在、ウォーキングでは3,000エーカーという広大な土地の開拓と複雑な酪農事業が同時に進行しております。

現場のジョージ・エバンスは極めて優秀な男ですが、彼1人ですべての現場を監督し、細かな指示を出し続けるのは、すでに人間の能力の限界を超えております。

このままでは、いずれどこかで負担が爆発し、品質の低下や労働者の不満に繋がるでしょう。

ただちに、現場の管理体制を刷新すべきです」


パーシバルはその言葉を受け、深く頷いた。

「なるほど。君の言う通りだ。

農場の規模が個人の管理能力を超えたのであれば、器の方を大きく作り直さなければならない」


パーシバルは机の上で両手を組み、新たな組織の図面を頭のなかに描いた。

「エバンスを、ウォーキング領地全体の農場総支配人に昇格させる。

そして、彼のこれまでの多大な労に報いるため、年給を大幅に引き上げ、150ポンドに増額しよう」


「彼もさぞ喜ぶことでしょう」


「その上で、彼の下に3つの専門部門を新設する。

農業部門、畜産部門、そして牛乳・チーズ製造部門だ。

それぞれの部門に、年給80ポンドから100ポンドを支払って新しい部門管理人を任命し、彼らに現場の実務を任せてエバンスを補佐させるのだ。

これでエバンスは、細かい作業から解放され、領地全体の指揮と発展に専念できるだろう」


ウィリアムは手帳を取り出し、主人の指示を正確に書き留めていく。

「完璧な体制でございます。すぐに適任者の選定と、辞令の準備に取り掛かります」


「そして、ウィリアム」

パーシバルは声を少しだけ高くし、目の前に立つ忠実な家令を真っ直ぐに見据えた。

「君の年給を、ただちに180ポンドへと増額する」


ウィリアムの手がピタリと止まり、その顔に驚きの色が浮かんだ。

「旦那様。それは……あまりにも過分な額にございます……」


「辞退は許さない」


パーシバルは力強い口調で遮った。

「これほど複雑になった商会と農場の全体会計、そしてこのロンドンの屋敷の運用を束ねているのは君だ。

君の働きがなければ、私の計画はただの紙切れで終わっていた。

これは君の能力に対する、当然の報酬だよ」


ウィリアムは深く頭を下げ、声の震えを抑えるように答えた。

「……身に余る光栄にございます。旦那様のご期待に背かぬよう、この職務を全ういたします」


「期待しているよ」


報告が終わり、ウィリアムが一礼して書斎を退室すると、部屋には暖炉の石炭が静かに燃える音だけが残された。


パーシバルは立ち上がり、燃え盛る炎の前に立った。

自身の頭のなかにあった目論見が、今や現実の大地の上ですべて実を結び、金庫のなかには盤石な現金資産が積み上がっている。

領地の農作物が収穫され、牛から乳が搾られ、それがチーズや瓶詰めとなってロンドンへ運ばれ、富裕層の食卓へと届けられる。

そこにはもはや、パーシバル自身が直接汗を流す必要はない。


「優れた組織とは、私が眠っている間も、自動的に富を生産し続ける仕組みのことだ」

パーシバルは炎の暖かさを感じながら、誰に言うともなく静かに呟いた。




(第14章 完)


スローターは今まで話に登場しておりませんでしたが、従僕としての仕事はしておりました。

ただ、なかなか従僕という立場では主人公との話に混ぜるのが難しく、

登場しても意地汚く腐敗が始まった牛乳を飲み、お腹を壊す役です。

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― 新着の感想 ―
やっと更新きたーーー!! 面白すぎる!!
更新お待ちしてました! やはりこちらの作品は毎度期待を超えてくるクオリティのストーリーをお出ししてくださるので読み応えがあって本当に楽しいです!次話も楽しみでなりません!
更新お疲れ様でした。 食品偽装まみれのロンドンにおいて、新鮮な本物の牛乳の価値が高いのは明らかですから、そうした時流や需要を読み切ったパーシバルの目と妥協のない徹底した品質管理手順の作成、それを乳搾り…
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