第12章(1818年):大いなる収穫と邸宅への野望
■新規の登場人物
ジョサイア・ブレッドソー牧師:42歳。ウォーキング教区の牧師で年収約230ポンド。イングランド北部の貧しい下級聖職者の四男。オックスフォード大学へは、裕福な学生の小間使いのような役割を果たす給費生として入学。学生時代から身分違いの同級生へのへつらいを叩き込まれており、その頃の劣等感が骨の髄まで染み込んでいる。
チャールズ・ロバート・コッカレル:26歳。ヨーロッパやギリシャ、オスマン帝国への7年間に及ぶグランドツアーから帰国したばかりの熱量のある若手建築家。
■今更ながら当時のイギリスの色々な単位について
1ポンド=20シリング=240ペンス
1シリング=12ペンス
1ギニー=21シリング ※高級なもの(仕立て服、競走馬、医師への謝礼、芸術品の購入)の価格には、ポンドではなくギニーが使用される。
・銀貨
クラウン:5シリング
ハーフクラウン:2シリング6ペンス
シリング:12ペンス
シックスペンス:6ペンス
・収入などの目安(女性は記載の半分。子供は三分の一程度。)
工場労働者の年収:40〜55ポンド
日雇いや一般都市労働者の年収:35〜45ポンド
農場労働者の年収:25〜35ポンド
農場の臨時労働者の日給(1日): 1シリング〜2シリング
パブのビール1パイント(約570ml): 3〜4ペンス
主食のパン1塊(約2kg): 約10〜12ペンス(約1シリング)
・穀物で使われる単位
1クォーター=8ブッシェル(約290リットル)※大人1人が1年間に消費する小麦の量
1ブッシェル=4ペック(約36リットル)
1ペック=2ガロン(約9リットル)
1ガロン=約4.5リットル
■1818年1月。
新年の冷たい風がテムズ川の水面を波立たせ、ロンドンの街路に凍てつくような冬の空気を運び込んでいた。
しかし、ブルームズベリーに建つパーシバル・シャルトンの邸宅は、分厚いカーテンと暖炉の火に守られ、書斎には心地よい静寂と石炭の燃える微かな匂いが漂っている。
パーシバルは、家令のウィリアムが淹れた紅茶を片手に、アイロンがけされたばかりの朝のタイムズ紙を開いていた。
農業と土壌改良に多額の資本を投じた彼であったが、その根本的な資金源が金融市場にあることに変わりはない。
毎朝、コンソル公債の価格や主要な会社の株価の動向、そして時事ニュースを確認することは、彼の欠かすことのできない日課であった。
紙面をめくっていたパーシバルの視線が、経済面の小さな、しかし目を引く広告と記事の欄でピタリと止まった。
そこには、ロンドンの夜を革新しつつある企業の名前が躍っていた。
『ガス燈・コークス会社、事業の拡大に伴い株価が額面を突破。
ウェストエンドの街路照明、さらに延長へ』
パーシバルは紅茶のカップをソーサーに置き、その記事を何気なく見つめた。
現在のロンドンにおいて、夜の街路を照らす主役は依然として鯨油を使ったランプであった。
しかし、鯨油は高価であり、燃える際に独特の生臭い悪臭を放つ上に、煤で周囲を黒く汚すという欠点があった。
それに代わる新たな技術として、石炭を蒸し焼きにして発生するガスを管で送り、それに火を灯すガス燈が数年前から試験的に導入され始めていたのである。
ペル・メル通りなどで実際にガス燈の眩いほどの明るさを目にしたロンドン市民たちは、その恩恵に驚嘆し、ガス燈・コークス会社の事業は現在、爆発的な勢いで拡大しつつあった。
パーシバルは新聞から顔を上げ、書斎の天井を見つめた。
その瞬間、彼の脳裏の奥底に眠っていた前世の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇ってきたのだ。
(ガス燈・コークス会社……そうだ、なぜ今まで思い出しもしなかったのだ!)
パーシバルは内心で激しく舌打ちをした。
歴史的な知識として、この企業がどのような未来を辿るか、彼は知っていたのである。
この会社は単なる一過性の流行企業ではない。
ガス燈がロンドン中に普及し、さらに一般家庭の照明や暖房へとガスが使われるようになることで、この企業は莫大な利益を上げ続けることになる。
そして何より、彼が思い出したのはその配当の凄まじさであった。
史実において、このガス燈・コークス会社は、額面50ポンドの1株に対して、毎年5ポンドの配当金を支払い続ける。
つまり、額面に対する利回りは驚異の10パーセントである。
現在のコンソル公債の利回りがおおよそ4パーセントであることを考えれば、常軌を逸した超高利回りだ。
しかも、その配当は一時的なものではなく、電気照明が本格的に普及する20世紀の初頭に至るまで、実に100年近くにわたって途切れることなく支払われ続ける、更に電気照明の普及後も暖房・調理需要により会社は利益を上げ続け、高配当が続けられる大英帝国を代表する歴史的な超優良株なのである。
「もっと早く思い出していれば、額面以下の底値で買い叩けたものを……。
ウォーキングの農場の事ばかり見ていて、足元のロンドンの灯りを見落としていたとは灯台下暗しだな」
パーシバルは自らの失態を小さく笑い飛ばしたが、その後すぐに資本家の顔に戻った。
額面を突破したとはいえ、株価はまだ上がり始めたばかりだ。
今のうちに買っておけば、100年以上に渡り不労所得を生み出す新たな金の卵となる。
パーシバルはすぐさま机に向かい、羽ペンを手にして2通の手紙を書き始めた。
1通目は、彼がコンソル公債の取引で重用している証券ブローカー、ダニエル・バーンズ宛である。
『バーンズ氏。
至急、市場に出回っているガス燈・コークス会社の株を買い集めてほしい。
すでに割増金がついているだろうが、1株あたり60ポンドを上限として、ひとまず40株を購入すること。
資金の2,400ポンドはバークレイズ銀行から引き出せるように手配しておく』
2通目は、ハンプシャーの実家にいる父、ヘンリー宛であった。
『父上。
農業の備えも重要ですが、ロンドンの街路を照らす新しい灯りにも目を向けるべきです。
ガス燈・コークス会社の株は、極めて安定した配当を生み出す有望な株券と私は見ております。
いくらか資金を投じて購入されることをお勧めします』
手紙を書き終えたパーシバルは、ウィリアムを呼んで直ちに父宛の手紙の発送を依頼しつつ、バーンズ氏へ向けて使いを走らせるように指示した。
数日後の午後。
ブルームズベリーの邸宅に、証券ブローカーのダニエル・バーンズが足を運んできた。
彼はコーヒー・ハウスの喧騒と葉巻の匂いを身にまとったまま、足早に書斎へと通された。
「ごきげんよう、サー・パーシバル。新年早々、相変わらず鋭い嗅覚をしておられる」
バーンズは挨拶もそこそこに、革鞄から株券の取引証書を取り出した。
「ご指示の通り、ガス燈・コークス会社の株を40株、買い付けてまいりました。市場では少しずつ値上がりを始めておりましたが、なんとかご指定の上限である単価60ポンド、総額2,400ポンドで手に入れることができました」
「ご苦労だった、バーンズ氏。手際が良いな」
パーシバルは取引証書を受け取り、その重みと手触りを確かめた。60ポンドで買ったとはいえ、毎年5ポンドの配当が約束されているのであれば、実質的な利回りは8パーセントを超える。
十分すぎるほどの優良な投資であった。
「それにしても、見事な先見の明です」
バーンズは感心したように言った。
「現在、ウェストエンドの劇場や高級クラブでは、こぞってガス燈の導入を進めています。
あの光を見れば、誰もが薄暗く生臭い鯨油のランプなど二度と使おうとは思わなくなるでしょう。
夜の街が昼間のように明るくなり、スリや強盗も減ったと評判です。
この会社の利益は、これから先何十年と右肩上がりになるに違いありません」
「私もそう考えている」
パーシバルは満足げに頷き、証書を机の上に置いた。
「そこでだ、バーンズ氏。私はこの会社の将来性に大いに期待している。
銀行に掛け合い追加で資金を用意するから、市場に出ている株をさらに100株ほど買い集めてくれないか」
その指示を聞いた瞬間、バーンズは申し訳なさそうに肩をすくめ、首を横に振った。
「お言葉ですが、サー・パーシバル。それは不可能なのです」
「不可能? 金なら十分に用意できると言っているのだが」
パーシバルが眉をひそめると、バーンズは当時の金融市場における厳格な法規制について説明を始めた。
「資金の問題ではございません。法律の問題なのです。
ガス燈・コークス会社は、議会から特別な特許状を得て、道路の下にガス管を埋設する権利を与えられた公共企業です。
もし、一人の大資本家がこの会社の株を独占し、経営を牛耳ってガスの価格を不当に吊り上げれば、ロンドン市民の生活は根底から脅かされることになります」
バーンズは手帳を開き、規則を読み上げるように言った。
「そのため、議会はこの会社の設立にあたり、独占の弊害を防ぐための厳格な条項を設けました。
個人が保有できる株式の数には、明確な上限が設定されているのです。
サー・パーシバルが今回購入された40株という数字は、実はその法的な保有上限のぎりぎりのラインなのです。
これ以上の追加購入は、法律上認められておりません」
その説明を聞いたパーシバルは、前世の記憶と当時の時代背景が合致していくのを感じ、静かに息を吐いた。
(なるほど。公共インフラ企業における個人の独占防止規定か。
確かに、当時のイギリス議会がそのような安全装置を組み込んでいたとしても不思議ではない)
「そういうことか。私の財布にはまだ余裕があるが、大英帝国の法律がそれを許さないというわけだな」
パーシバルは微笑み、あっさりと引き下がった。
「不当な独占を防ぎ、市民の生活を守る。議会の懸念は極めて真っ当だ。
私の野心にとっては少々窮屈だが、ジェントルマンとして法律には従うとしよう」
「ご理解いただき、ありがとうございます。
ですが、上限いっぱいまで優良株を確保できたのですから、投資としては大成功と言えるでしょう」
バーンズもほっとしたように笑みを返した。
「全くだ。これでまた一つ、私の懐を温めてくれる確実な収入源が増えたというわけだ」
パーシバルは証書を綺麗にまとめ、封筒に収めた。
「バーンズ氏。この株券は、私が取引しているロンバード・ストリートのバークレイズ銀行へ持ち込み、ベリエフ氏に預けておいてくれ。
そして、今後の配当金はすべて私の当座預金口座へ自動的に振り込まれるように手配を頼む」
「承知いたしました。すぐに手配いたします」
バーンズは封筒を受け取り、恭しく一礼して書斎を後にした。
1人残されたパーシバルは、冷めた紅茶を一口飲み、満足げに目を細めた。
40株のガス燈会社の株。これにより、毎年200ポンドという、労働者の年収の数倍にも上る現金が、何もせずとも彼の手元に転がり込んでくる計算となる。
コンソル公債、フランス国債、そして新たな公共インフラ企業の株式。
いかなる時代の変化や天候の不順にも揺らぐことのない、極めて強固で多様性に富んだ資産ポートフォリオを、また一つ増強したのである。
■1818年2月。
「旦那様、ウォーキングの農場より管理人のジョージ・エバンスが到着いたしました」
家令のウィリアムが書斎の扉を静かに開けて告げた。
「通してくれ。冷え切っているだろう、温かい紅茶を頼む」
パーシバルが新しい本の執筆を中断し、顔を上げると、分厚いウールの外套を纏った巨漢の農場管理人が、恭しく会釈をしながら入室してきた。
筋骨隆々の体格は、繊細な調度品が並ぶロンドンの書斎にはいささか不釣り合いだが、彼が小脇に抱えている革装丁の帳簿は、彼が単なる腕力頼みの男ではないことを証明していた。
「ご機嫌麗しゅう、サー・パーシバル」
エバンスは帽子を取り、実直な笑みを浮かべた。
「よく来てくれた、エバンス。さあ、座ってくれたまえ。農場と土壌改良の様子はどうだ?」
パーシバルが椅子を勧めると、エバンスは深く腰を下ろし、早速仕事の顔になった。
「ええ、石灰釜は毎日稼働し順調に進んでおります。
本日は、今年の春からの具体的な営農計画と、農場の設備拡充についてのご報告とご相談に参りました」
エバンスは手元の帳簿を開き、パーシバルの机の上に広げた。
「まずは、昨年から土壌改良を進め、冬季にレンタルした羊の群れによる踏み固めと施肥を終えた、最初の500エーカーの土地についてです。
春の訪れとともに、3月から4月にかけて、この土地に播種を行います。
作付けするのはクローバーと大麦を400エーカー、そしてクローバーと燕麦を100エーカーで合計500エーカーです」
その報告を聞き、パーシバルは少し眉をひそめた。
「クローバー、それに大麦と燕麦だと? それらを同じ時期に、同じ畑に作付けするというのか?」
パーシバルは農業の知識を多少持ってはいたが、あえて疑問を口にした。
「違う種類の作物を同じ土地に混ぜて植えれば、土の中の養分や太陽の光を奪い合い、結局どちらも育たなくなるのではないか?
種類ごとに区画を分けて植えるのが筋だと思うが」
エバンスは、主人のもっともな疑問に対して、自信に満ちた表情で首を横に振った。
「サー・パーシバル。一見すると無駄な争いをさせているように見えますが、これこそが我々が編み出した最も合理的な農法なのです」
エバンスは巨大な手で、空中に作物の成長を描くように身振りを交えて説明を始めた。
「500エーカーもの広大な農地において、最も恐ろしい敵は何だと思われますか?
それは、作物から養分を根こそぎ奪っていく雑草です。
クローバーの種を撒いても手入れをしないと雑草に勝てず結局は雑草畑となってしまいます。
しかし、労働者を雇って手作業で雑草を抜いていては、どれだけ資金があっても足りません。
そこで、大麦や燕麦とクローバーを同時に植えるのです」
「雑草対策になるというのか?」
「はい。春に種を撒くと、大麦と燕麦はクローバーよりも遥かに早く、背高く成長します。
すると、背の高い麦の葉が畑一面を覆い尽くし、地面に日陰を作ります。
太陽の光を遮られた厄介な雑草たちは、成長できずにそのまま枯れ果ててしまうのです」
エバンスの顔に、現場の知恵に対する誇りが滲んだ。
「一方で、クローバーという植物は非常に日陰に強い性質を持っています。
麦が作る日陰の中でも、クローバーはじっと耐え忍び、枯れることなく地面に根を張り続けます。
そして秋の8月から9月にかけて、我々は成長した大麦と燕麦だけを刈り取って収穫します」
「なるほど」
パーシバルは、化学的な除草剤などが存在しない時代において、植物の生存競争を巧みに利用したその生物学的なメカニズムに深く感心した。
「麦を刈り取った後には、雑草のない綺麗な畑に、クローバーだけが残るというわけだな」
「ご明察の通りです。
秋の陽光を浴びたクローバーはそこから一気に成長し、翌年には畑一面の豊かなクローバー畑となります。
クローバーは不思議なことに、土の力を劇的に回復させる力を持っています。
そのクローバーを来年は羊の餌とし、羊がまた土を肥やす。見事な循環が完成するのです」
(マメ科の植物による根粒菌の窒素固定と、その後の緑肥効果か。理論として完璧だ)
パーシバルは内心で現代の知識と照らし合わせ、農場管理人の能力に最大の賛辞を送った。
「見事な計画だ、エバンス。自然の理を完全に味方につけている。
それで、収穫した麦はどうするつもりだ?」
「大麦は穀物仲買人のハリス氏を通してロンドンのビール工場へ売却する計画です。
そして燕麦は、我々の農場で働く農耕馬や妊娠した羊の飼料として保管します。
これで馬の餌代が不要となり羊は元気な子羊を生むことができます」
「ビールと馬の餌か。大英帝国を動かしている2つの偉大な動力源だな。全く無駄がない」
パーシバルは満足げに頷いた。
「最初の500エーカーについては、君の計画を全面的に承認しよう。
では、残りの土地はどうなっている?」
「はい。今年も並行して、別の新たな500エーカーの荒れ地の土壌改良を進めます。
昨年と同様に、消石灰を撒き、新しい骨粉肥料を投入して、冬越しのための大量のカブを栽培します。
そこで、ご相談がございます」
エバンスは姿勢を正し、パーシバルを真っ直ぐに見据えた。
「冬に収穫できるカブの量は、昨年の結果から見て膨大なものになります。
このカブを無駄にせず、来年のために新たな500エーカーをしっかりと踏み固めて肥沃にするためには、近隣からレンタルする羊では数が圧倒的に足りません。
冬が来る前に飼育用の羊を新たに1,500頭ほど購入したいと考えております」
「1,500頭の羊か」
パーシバルは手元のペンを走らせた。
「現在の相場であれば、羊1頭につきおよそ1ポンド。総額で1,500ポンドの出費という計算になるな」
「はい。安い買い物ではありませんが、彼らは自らカブを食べて肉を太らせ、同時に農地を最高の状態に耕してくれる生きた農機具です。
投資に見合うだけの働きは必ずお約束します」
「分かっている。
羊の購入については、昨年の段階ですでに方針を決めていたことだ。
1,500ポンドの予算はすぐに手配しよう」
パーシバルがあっさりと承認すると、エバンスは安堵の表情を浮かべたが、すぐに帳簿の次のページをめくった。
「ありがとうございます。
しかし、サー・パーシバル。羊が1,500頭に増え、農作業の規模も拡大するとなると、現在の農場には致命的に不足しているものがございます。
それは水です」
「水、だと?」
パーシバルが聞き返すと、エバンスは真剣な顔で頷いた。
「はい。
ウォーキングの砂地は水捌けが良すぎるため、地表に水があまり留まりません。
雨が降らない日が続けば、羊たちに飲ませる水すら枯渇する恐れがあります。
そこで、農場に貯水池と深井戸を掘り、地下深くから安定して水を汲み上げるための設備を建設したいのです」
「なるほど、安定した水源は農場の生命線だ。
地下水を汲み上げるとなれば、最近炭鉱などで使われている蒸気機関のポンプを導入するか?
石炭を燃やして動かす、あれなら水などいくらでも汲み上げられるだろう」
パーシバルは資金力に任せて、当時の最新技術である蒸気機関の導入を提案した。
しかし、エバンスは首を横に振った。
「お言葉ですが、サー・パーシバル。
蒸気機関のポンプは確かに強力ですが、機械そのものの初期費用があまりにも高すぎます。
それに、動かすための石炭の燃料費が、我々が農業を続ける限り永遠に掛かり続けることになります。
私が提案したいのは、枯渇することのない無料の動力……風車を用いた揚水ポンプの建設です」
エバンスは自作の簡単な図をパーシバルに提示した。
「ウォーキングの平野には、年間を通して十分な風が吹き抜けます。
深井戸の上に風車を建設し、風の力で地下水を汲み上げ、それを隣接する貯水池に蓄えておくのです。
これならば、建設さえ終わってしまえば、燃料費は1ペニーも掛かりません」
「風力か。
実に堅実な判断だ。燃料費が掛からないというのは、最も美しい響きだよ」
パーシバルはエバンスの地に足の着いた提案を大いに気に入った。
新しい技術に飛びつくのではなく、ランニングコストを極限まで抑えるという農場経営の鉄則を、この男は完璧に理解している。
「建設に掛かる費用は、どの程度と見積もっている?」
「深井戸の掘削、貯水池の整備、そして揚水風車の建設。
すべて合わせて、総額で350ポンドで収まる計算です」
「350ポンド?
それはいくら何でも安すぎないか? レンガや木材の資材費だけでもかなりの額になるはずだが」
パーシバルが疑問を呈すると、エバンスは誇らしげに笑った。
「重量のある木材やレンガは、ベイジングストーク運河を使い、我々のレンガ造りの荷揚場に直接荷降ろしさせます。
これで馬車による陸路の輸送費を劇的に削減できます。
もし馬車で資材を運んでいたら建設費は倍となっていたでしょう」
エバンスはさらに言葉を続けた。
「それに、貯水池や井戸を固めるために大量の漆喰が必要になりますが、我々の農場には土壌改良のために建設した石灰釜がございます。
あの釜で焼いた石灰を使えば、建設用の漆喰をすべて自家生産できるのです。
外部から高価な建築資材を買う必要がありません」
パーシバルは息を呑んだ。
運河の荷揚場と石灰釜。
昨年、赤字を承知で投じた初期費用のインフラが、土壌改良だけでなく、ここへ来て新たな建設コストの劇的な削減という形で間接的な利益を生み出し始めているのだ。
「……見事だ、エバンス。
君の頭の中では、農場のすべての要素が歯車のように噛み合っているのだな。
総額350ポンドの建設、即座に承認する」
パーシバルは机の引き出しから紙を取り出し、流れるような手つきでペンを走らせた。
羊の購入費1,500ポンドと水インフラ建設費350ポンド。
合計1,850ポンドの支出を認める証書を書き上げサインをしてエバンスに向かって差し出した。
「君の計画に、1ペニーの出し惜しみもするつもりはない。
羊を買い付け、最も頑丈な風車を建ててくれ。
今年の夏には、私もウォーキングの農場へ視察に赴こう。
青々した麦畑と風車が完成していることを楽しみにしているぞ」
「承知いたしました、サー・パーシバル。
必ずや、あなたのご期待を超える農場に仕上げてご覧に入れます」
エバンスは1,850ポンドという支出を認める証書を押し戴くように受け取り、深く、力強く頭を下げた。
■1818年6月。
ロンドンから南西へ乗合馬車から乗り継ぎ仕立馬車を走らせること合計3時間半。
パーシバル・シャルトンを乗せた馬車は、初夏の爽やかな風が吹き抜けるサリー州ウォーキングの地へと足を踏み入れた。
窓から外の景色を眺めていたパーシバルは、目の前に広がる光景に静かな感嘆の息を漏らした。
彼が昨年の冬、囲い込み法案を通過させて手に入れたこの3,000エーカーの土地は、見渡す限りのヒースが生い茂り、酸性の土壌が広がるだけの荒野であった。
冬の視察時に見たものは、労働者たちが撒いた真っ白な消石灰が寒風に舞う、荒涼とした風景に過ぎなかったのだ。
しかし今、彼の目の前には、整然と張り巡らされた真新しい木製の柵と、規則正しく区画された緑の大地が広がっている。
ベイジングストーク運河沿いには堅牢なレンガ造りの荷揚場には、平底船が横付けされて物資の搬入を行っていた。
馬車が農場の中心部、管理人家屋の前に到着すると、すでに巨漢の農場管理人、ジョージ・エバンスが直立して主人の到着を待ち構えていた。
「よくおいでくださいました、サー・パーシバル。
ウォーキングの風は、ロンドンの空気よりいくらか肺に良いでしょう」
エバンスは実直な笑顔を浮かべ、馬車から降り立つパーシバルを出迎えた。
「そのようだな、エバンス。
馬車の窓から見えた景色だけでも、君がこの半年間でどれほどの仕事をしたのかがよく分かったよ」
パーシバルはステッキを手に取り、初夏の陽光を浴びながら周囲を見渡した。
「まずは、完成したばかりの設備をご覧いただきましょう」
エバンスの案内に従い、パーシバルは農場の中心部へと歩みを進めた。
そこには青空を背景にして巨大な木製の羽根を持つ真新しい風車がゆっくりと、しかし力強く回転していた。
風車の足元からは、規則正しい歯車音が響き汲み上げられた新鮮な地下水がレンガで美しく舗装された広大な貯水池へと勢いよく流れ込んでいる。
陽の光を反射してきらめく水面は、この農場がもはや干ばつに怯えることのない近代的な水インフラを手に入れたことを証明していた。
「見事な揚水風車と貯水池だ。これならば、どれほど羊が増えようと水に困ることはないだろう」
パーシバルが満足げに頷くと、エバンスは手元の帳簿を開いて言った。
「機能だけではありません、サー・パーシバル。
総工費について事前に家令のウィリアムには、お伝えしておりましたがこの場で正式にご報告とさせてください。
2月にご承認いただいた建設予算は350ポンドですが、最終的な総工費は300ポンドきっかりに抑えることができました」
「50ポンドも浮かせたというのか?」
パーシバルは少し驚いて眉を上げた。
「はい。運河の荷揚場のお陰で重い木材やレンガの輸送費が予想以上に削減できました。
さらに、貯水池の底や井戸の壁面を固めるための漆喰も、我々の石灰釜で焼いた石灰からすべて自家生産しました。
労働者たちの手際も良くなっており、無駄な出費を完全に削ぎ落とすことができたのです」
「エバンス、君は優秀な農場管理人であるだけでなく、会計士になれる素質があるようだな」
パーシバルは支出を抑えて満足の行く成果を挙げたエバンスを称賛した。
「50ポンドの節約は、50ポンドの利益と同じだ。君に現場を任せて本当に正解だった」
「私はシャルトン家の農場で兄から扱かれて教わって育ちましたから」
エバンスは誇らしげに微笑み、そして農場の奥へと手を差し向けた。
「さあ、サー・パーシバル。本日の主役は風車ではございません。あちらをご覧ください」
エバンスに導かれて歩みを進めたパーシバルの目の前に緑の海が広がった。
昨年から徹底的な土壌改良を行い、冬の間に羊の群れによって踏み固められた最初の500エーカーの土地である。
そこには、見渡す限りの大麦と燕麦が、初夏の風に揺れて波打っていた。
パーシバルは麦畑の畔に立ち、その成長ぶりに目を見張った。
不毛な砂地であったはずの土地から生え出た穀物は、青々と太い茎を伸ばし、すでに大人の腰から胸の高さにまで到達しようとしている。
麦の穂はふっくらと膨らみ始めており、これが秋になれば黄金色に輝く豊作となることは、農業の素人目にも明らかであった。
「信じられない光景でしょう?」
エバンスが麦の穂を優しく撫でながら言った。
「ロンドンから送り込んでくるあの新しい骨粉肥料。
あれの効果は、まさに絶大の一言に尽きます。
ただの骨粉とは違い、土に撒いた瞬間から作物が養分を吸い上げているのが分かるほどです。
この荒れ地で、これほど立派な大麦と燕麦が育つなど、近隣の地主たちが見れば腰を抜かすに違いありません」
現代の化学知識である過リン酸石灰の圧倒的な威力を目の当たりにし、パーシバルは内心で深い満足感を覚えた。
自らの投資と理論が現実の土壌で機能しているのだ。
「だが、エバンス。私が感心しているのは肥料の効果だけではないよ」
パーシバルはステッキの先で、背高く育った大麦の足元を指し示した。
「君が2月にロンドンで語った自然の理が完璧に証明されていることだ」
パーシバルが麦の茎を少し掻き分けると、そこには本来であれば畑の養分を奪い尽くすはずの厄介な雑草の姿はほとんど見当たらなかった。
大麦が密集して生い茂ることで強烈な日陰を作り出し、雑草の繁殖を物理的に抑え込んでいるのである。
そして、その暗い日陰の足元には、マメ科の植物であるクローバーが、青々とした葉を広げてしっかりと地面に根を張っていた。
「おっしゃる通りです、サー・パーシバル」
エバンスは満足げに頷いた。
「麦の背丈が雑草を殺し、日陰に強いクローバーだけが生き残っています。
秋にこの大麦と燕麦を刈り取れば、畑には綺麗なクローバーだけが残り、来年の羊たちの極上の餌となるのです。
除草のために労働者を雇う必要もありません」
「見事だ。
麦はロンドンのビール工場で現金に変わり、クローバーは羊の血肉となり、羊は再び土を肥やす。
素晴らしい循環だな」
パーシバルはステッキを収め、広大な500エーカーの緑の海を見渡した。
「土壌改良は極めて順調に進んでいるようだな。
これならば、今年から着手している次の500エーカーの改良も問題なく進むだろう」
「はい。
しかし、サー・パーシバル。
来年に向けて、一つだけ早急に手を打たなければならない問題がございます」
エバンスは少し表情を引き締め、パーシバルに向き直った。
「言ってみろ。資金の問題であればすぐに手配する」
「資金というより建物の問題です。
この冬には、ご指示の通り追加で1,500頭の羊を購入し、新たな500エーカーの土地で大規模なカブの栽培と踏み固めを行います。
それに伴い、農場で働く労働者の数をさらに増やさなければなりません」
エバンスは、遠くに見える農場労働者の家を指差した。
「現在ある家の数では将来増加する労働者を受け入れた場合、窮屈な生活となってしまいます。
冬が来る前に、レンガ造りのしっかりとした労働者用の家屋を複数、追加で建設していただきたいのです。
また、来年の春には膨大な数の羊の毛刈りを行うための、専用の作業小屋も必要になります」
パーシバルは躊躇することなく深く頷いた。
「確かに。労働者が寒さにより病に倒れたり、不満を抱いて逃げ出したりすれば、農場という巨大な工場は一瞬で停止してしまうからな。
彼らが健康で忠誠心を持って働けるよう、しっかりとした家屋を建設しよう」
「ありがとうございます。
彼らもサー・パーシバルの寛大さに感謝し、より一層粉骨砕身して働くことでしょう」
エバンスは安堵の表情を浮かべた。
「労働者の健康は、私への最大の配当だからな。
ロンドンに戻り次第、建設に必要な資金を工面しよう」
パーシバルは再び大麦と燕麦の揺れる畑に視線を向け、初夏の風を深く吸い込んだ。
不毛な荒野に投じた資本は、風車というインフラと、化学肥料という未来の技術、そして有能な管理人の手によって、確実な収穫へと姿を変えようとしている。
自らの壮大な実験が順調に機能していることをその目で確認したパーシバル・シャルトンは、来るべき秋の豊作に対する確信と深い満足感をが胸の奥から湧き上がってきていた。
「ところで、エバンス。
このまま順調に夏を越せば、秋には我々の予想を超える豊作となるだろう」
パーシバルがステッキで畔を指し示しながら言うと、農場管理人のジョージ・エバンスも力強く頷いた。
「ええ。これほど見事に穀物が育てば、秋の収穫時期にはロンドンから臨時の季節労働者を大量に雇い入れる必要があります。しかし、豊作となればなるほど、例の厄介な問題が頭をよぎりましてな」
エバンスは少し顔をしかめ、苦笑いを浮かべた。
「教区の教会に納めなければならない、十分の一税のことです」
イングランドにおいて、土地から上がるあらゆる収穫物の1割を教会に納める「十分の一税」は、農業に従事する者にとって最も重く、かつ忌まわしい負担であった。
これは大きく二つに分かれる。
小麦や大麦、燕麦といった主要な穀物や干し草などに課せられる「大十分の一税」と、羊や豚、家禽、果物、卵などに課せられる「小十分の一税」である。
せっかく手塩にかけて育てた作物の10分の1を、収穫の場にやってきた教会の徴収人にそっくりそのまま持っていかれることは、農民たちの最大の不満の種であった。
「心配には及ばないよ、エバンス」
パーシバルは笑みを浮かべ、エバンスの肩を軽く叩いた。
「まず、このウォーキングの3000エーカーは、手付かずの不毛な荒れ地であったため、荒地開墾法の適用対象となる。このエドワード6世の時代に制定された古い法律より、開墾を始めてから最初の7年間は、すべての十分の一税の納付が完全に免除されるのだ」
「7年間もですか。それは非常に助かります。
立ち上げの苦しい時期に収穫の1割を持っていかれては、農場の拡張計画にも支障が出ますからな」
「さらに言えば」
パーシバルは声を一段低くした。
「7年が経過した後も、我々が穀物の税で苦しむことはない。
昨年、オンスロー伯爵からこの土地と一緒に、教区牧師を任命する権利である聖職禄を1,500ポンドで購入したことを知っているな?」
「はい。土地の権力を完全に掌握するためのご投資だと伺っております」
「実はあの契約には、このウォーキング教区における『大十分の一税』を徴収する権利そのものも含まれているのだ」
かつてカトリックの修道院が独占していた大十分の一税を受け取る権利は、ヘンリー8世の修道院解散以降、国王から土地を賜った信徒の手へと渡っていることが多かった。
オンスロー伯爵家が保持していたその権利をパーシバルは土地と聖職禄もろとも買い上げていたのである。
「つまり、この土地でどれほど大量の大麦や燕麦が穫れようと、その大十分の一税を受け取る権利者は、他でもない領主である私自身だ。
自分の左のポケットから右のポケットへ麦を移す必要などない。我々の農場で生産される穀物は、将来的にも実質的に永久免税というわけだ」
「なんと! それは素晴らしい。穀物に対する重い税が免除されるとは」
エバンスは農場管理人として、その税制上の圧倒的な有利さを理解し、本心から歓喜の声を上げた。
「我々農民からすれば、苦労して収穫した麦を教会の荷車に積む作業ほど、気が滅入ることはありませんからな。
サー・パーシバルの見事な先見の明に、改めて感服いたしました」
「そういうことだ。
労働者たちには、自分たちが育てた麦は1粒残らず我々の利益になるのだと伝えておいてくれ」
パーシバルは満足げに頷き、ふとあることを思い出した。
「そういえば、私はこのウォーキング教区の聖職禄を持ちながら、赴任している教区牧師に直接の挨拶をしていなかったな。
土地を買って以来、ロンドンからの手紙だけで済ませていたが、私もこの教区の正式な領主となったのだ。
これだけ農場の開発を進めておいて、不在地主のように振る舞うのはジェントルマンとしてよろしくない。
明日の昼頃、ロンドンへ帰る前に牧師館へ立ち寄ることにしよう」
パーシバルはすぐに使いを走らせ、明朝の訪問を牧師へ伝えるように指示を出した。
翌日、農場管理人のエバンスと朝食を取り農場を散歩したあと馬車へ乗り込んだ。
パーシバルを乗せた馬車は、農場から少し離れたウォーキングの牧師館の前に到着した。
出迎えたのは、築年数が経ち修繕も行き届いていない古びたレンガ造りの館であった。
屋根の傷みや手入れのされていない庭の雑草がこの牧師館の住人の懐事情を如実に物語っている。
馬車が止まるや否や、古びた扉が勢いよく開きこの教区を預かるジョサイア・ブレッドソー牧師がもみ手をするようにして現れた。
「お初にお目にかかります、サー・パーシバル!
このような見窄らしい牧師館へ、大英帝国の英雄であり我らが偉大なる領主様をお迎えできるとは、身に余る光栄の至りに存じます!」
ブレッドソー牧師は42歳。
彼の服装は、ブラシがかけられ清潔に保たれてはいるものの、袖口が少し擦り切れており、明らかにジェントルマンとしての体面を保つギリギリの代物であった。
彼のような末端の教区牧師は、大十分の一税を受け取ることができないため、村人たちが飼う豚や羊、あるいは鶏の卵といった小十分の一税だけが頼りの収入源であった。
ブレッドソー牧師の年収はおよそ230ポンド。
年収数千ポンドを稼ぎ出すパーシバルから見れば小銭に等しいが、当時のジェントルマン階級の下限を這いずるような額である。
「急な訪問を受けていただき感謝する、ブレッドソー氏。
今日はロンドンへ戻る前に、教区の様子を伺おうと思ってね」
パーシバルが馬車を降りて淡々と挨拶をすると、ブレッドソーは過剰なほど深く腰を折り曲げた。
「滅相もございません!
さあさあ、どうぞ中へ。粗茶しかございませんが、最高のおもてなしをさせていただきます」
応接間に通されたパーシバルは、出された紅茶を一口飲んだ。
茶葉の質は悪く、お湯の温度も低かった。
パーシバルは前に事務弁護士のハンストンから受け取っていた人物調査報告を思い出しながら様子を観察する。
彼はイングランド北部の貧しい下級聖職者の四男として生まれた。
野心を持ってオックスフォード大学へ進学したものの、当然ながら学費を払う余裕はなく、裕福な貴族の学生たちの靴磨きや小間使いのような役割を果たす給費生として入学した過去を持つ。
独身である彼は過去に何度か、持参金付きだが決して器量が良いとは言えない女性に狙いを定めてプロポーズを試みた。
しかし、年収の低さと卑屈な性格が原因なのかことごとく拒絶されてきたのである。
「サー・パーシバル、あなたの名声は当地でも轟いております。
何しろ、あのオンスロー伯爵から見事に広大な領地を買い上げられたのですから」
ブレッドソーは、目を細め、上目遣いにパーシバルを見ながら、ひたすら媚びを含んだ言葉を並べ立てた。
「前の領主である伯爵は馬車にうつつを抜かすばかりで、教会の修繕には1ペニーも出そうとされませんでした。
ですが、高名で慈悲深いサー・パーシバルであれば、私どものようなつつましい教会の働きにも、必ずや深いご理解と多大なるご寄付をいただけるものと確信しております」
ブレッドソーは揉み手をしながら、聖職推挙権を持つ権力者であるパーシバルに対し、露骨なまでのすり寄りの姿勢を見せた。
(この男……自分が教区の精神的指導者であるという矜持は1ミリも持ち合わせていないのか)
パーシバルは内心でドン引きしていた。
実直なエバンスや、実務的なハンストン弁護士といった有能な男たちと接してきた彼にとって、このブレッドソーの態度はあまりにも卑屈で、イギリス紳士らしい会話のキャッチボールすら成立しそうになかった。
こちらを探るような、ネットリとした卑屈な視線も不快である。
「教会の窮状は承知している」
パーシバルは薄い紅茶をもう1口だけ飲み、早々にカップをソーサーに置いた。
「もちろん、信徒の義務として寄付はさせて頂く。
だが、現在私はあの荒地に莫大な資本を投じ、新規に農場を開拓している最中でね。
まずは過酷な労働に耐えている労働者たちの生活基盤を整えることが先決だ。
教会の修繕は急を要するものを除き、その事業が軌道に乗ってから考えさせてもらう」
「は、はい。もちろんでございます、サー・パーシバル。おっしゃる通りでございます」
ブレッドソーは慌てて同調し、作り笑いを浮かべた。
「領地が豊かになれば教区全体も潤うだろう。
今後もこの地の教区牧師として、よろしく頼む」
パーシバルは立ち上がり、帽子とステッキを手にした。
「私はこれからロンドンへ戻らなければならない。
何か農場の労働者との間でトラブルが起きたり、緊急の報告があったりした場合は、ロンドンの私宛てに手紙で知らせてほしい」
「ははっ、承知いたしました!
サー・パーシバルの輝かしい農場計画に、神の御加護があらんことを、日夜祈らせていただきます!」
ブレッドソーが玄関口で深々と頭を下げるのを背に、パーシバルは足早に牧師館を後にした。
「エバンスが言っていた通りだな。
あの牧師に我々の大事な麦の1割を渡さずに済むのは、精神衛生上も極めて喜ばしいことだ」
馬車に乗り込んだパーシバルは、ロンドンへと向かう車内で1人呟いた。
実質的な免税の特権と、新たな教区の面倒な人物事情を把握したパーシバルは、黄金色に輝くであろう秋の収穫へと思いを馳せながら、順調に開発が進む領地を後にしたのであった。
■1818年6月。
初夏の陽光が降り注ぐサリー州ウォーキングの農場視察から、パーシバル・シャルトンを乗せた馬車がロンドンのブルームズベリーの邸宅へ帰り着いたのは、陽が傾き始めた夕刻のことであった。
「お帰りなさいませ、旦那様。ウォーキングの農場はいかがでしたか」
玄関で出迎えた家令のウィリアムが、パーシバルから埃を被った帽子とステッキを受け取った。
「見事なものだったよ、ウィリアム。
エバンスは、あの不毛な荒れ地を見渡す限りの麦畑に変えてみせた。
さらに揚水風車が回り、貯水池に汲み上げられた地下水が注ぐ光景は、美しい景色と言っていいだろう」
パーシバルは書斎へ向かいながら、視察の興奮を隠しきれない様子で語った。
「だが、麦が育ち羊の数が増えるということは、それらを管理するための労働者の数も増やさなければならないということだ。
エバンスも、現在の家屋では労働者たちを増やせないと言っていた」
書斎の革張りの椅子に深く腰を下ろしたパーシバルは、すぐに実務的な指示を出した。
「ウィリアム、エバンス宛てに手紙を書いてくれ。今後の労働者の増加を見越して、農場に長屋を建設するよう命じる。レンガ造りで、1棟に6戸が連なったしっかりとしたものを建てさせろ。労働者を増やせないと来年の収穫に影響するからな」
当時のロンドンや工業都市において、限られた敷地に効率よく労働者を住まわせるテラスハウスの建築様式は普及しつつあった。
パーシバルはそれを農場の労働者用住居として導入しようと考えたのである。
「承知いたしました。ただちにエバンス氏へ手紙をしたためておきます」
ウィリアムは頷き、そして少し表情を引き締めて言葉を続けた。
「……しかし旦那様。長屋の追加注文を出される前に、本日は少々、帳簿の数字をご確認いただきたいのです」
「帳簿だと? ああ、そういえば最近、残高を細かく計算していなかったな」
パーシバルは、ウィリアムが机の上に恭しく置いた革表紙の分厚い帳簿に視線を落とした。
「恐れながら、旦那様がウォーキングの農場視察で黄金の麦畑に気を良くしておられる間に我が家の金庫の底が少しばかり見え始めております」
ウィリアムの言葉に、パーシバルは微かに眉をひそめ、帳簿を開いた。
そこに記載されている数字の羅列は、冷徹な資本家であるパーシバルの目を一瞬で覚まさせるのに十分なものであった。
「これは……」
パーシバルの指が、支出の項目をなぞっていく。
1816年の冬、夏のない年による大凶作を見越して保税倉庫の小麦を売却し、借金を一部返済した時点で、パーシバルの手元には22,000ポンドを超える莫大な現金があった。
しかし、その現金は、大英帝国の真の支配階級たる土地持ちのジェントルマン(ランデッド・ジェントリー)としての地位を確立するための巨大な投資によって、凄まじい勢いで目減りしていたのである。
「振り返ってみましょう」
ウィリアムが冷静な声で支出を読み上げた。
「まず、昨年オンスロー伯爵から3000エーカーの土地と聖職禄を購入し、囲い込み法の法務費用などを精算したのが13,300ポンド。
バーモンジーの元なめし革工場の購入費と設備購入費が550ポンド。
そして、ウォーキング農場の初期インフラ建設と半年間の運営費が約4,500ポンド」
パーシバルは無言で頷いた。すでにこの時点で、18,350ポンドもの現金が飛んでいっている。
「さらに今年に入りましてから、ガス燈・コークス会社の株式購入に2,400ポンド。
そして追加の羊1,500頭の購入費として1,500ポンド、揚水風車と井戸の水インフラ建設費として300ポンドを支出しております」
パーシバルはペンを手に取り、余白に数字を書き込んで素早く足し算を行った。
「合計で……22,550ポンドか」
彼は短く息を吐き出した。
「これまでに投じた総額が20,000ポンドを優に超えている。
小麦の暴騰で手に入れた莫大な現金利益のほとんどをすでに使い果たしていたということだな」
「はい。もちろん、旦那様にはコンソル公債とフランス国債から支払われる、年間およそ1,925ポンドの莫大な利息収入がございますし、今年からはガス燈会社の配当金200ポンドも加わります。
日々の生活費や、農場の経費そのものは、これらの利息で十分に賄えております」
ウィリアムは手元の紙を指し示した。
「しかし、運営費と生活費を支払った残りの利息を計算に入れても、現在の旦那様の手元に残されている自由な現金の残高は、1,700ポンド程度にまで落ち込んでおります」
「1,700ポンド……」
「ここからさらに、先ほど旦那様がご指示された労働者用の長屋の建設費、推定300ポンドを差し引きします。
すると、手元に残る現金はわずか1,400ポンド程度となります」
書斎に沈黙が降りた。
1,400ポンド。それは当時の一般的な中流階級の家庭であれば、10年は遊んで暮らせるだけの大金である。
しかし、3,000エーカーもの領地を抱え土地の開拓を進めるパーシバルにとって、この数字は恐怖を覚えるほど心許ないものであった。
パーシバルの背筋を、冷たい汗が一筋伝い落ちた。
(なんというスピードだ……。いかに莫大な利息収入があろうと、大規模なインフラ開発という怪物は、想像を絶する速度で現金を食いつぶしていく)
農業投資の恐ろしさを、彼は今更ながらに肌で感じていた。
農場というものは、麦の種を撒いてから収穫し、それを現金化するまでに長い時間と膨大な先行投資を必要とする。
肥料代、労働者の賃金、機材の修繕費、そしてインフラの構築。
土壌が安定して本格的な利益を生み出すまでの間、資本家はひたすら手持ちの現金を土の中に埋め続けなければならないのだ。
「……計算が狂ったわけではない。計画通りに投資を行ってきた結果がこの1,400ポンドだ」
パーシバルは自分に言い聞かせるように呟いた。
「だが、手元に現金という防具がない状態は、資本家にとって全裸で戦場に立つに等しい。
もし今年、大麦に予想外の病気が蔓延したら? 羊の群れに疫病が発生したら?
トラブルの損失を埋めるための予備の現金が枯渇すれば、最悪の場合、手塩にかけた土地や大切な国債を安値で手放さざるを得なくなる」
「その通りでございます、旦那様」
ウィリアムが深く頷いた。
「1,400ポンドという残高は、これ以上の大規模な新規事業に手を出すには、あまりにも危険な水域に入っていると言わざるを得ません」
パーシバルはソファの背もたれに深く寄りかかり、目を閉じた。
彼の脳裏には、ジェントルマン階級としてのある一つの野望が思い描かれていた。
それは、自らの領地であるウォーキングの地に、自分自身が住まうための壮麗な本宅、マナーハウスを建設することである。
大規模な土地を所有するランデッド・ジェントリーにとって、領地に威厳ある邸宅を構えることは、近隣の地主や農民たちに自らの権力と富を誇示するための絶対的な象徴であった。
いずれはパーシバルも、素晴らしい建築家を雇い、見晴らしの良い丘にレンガ造りの立派な邸宅を建てようと目論んでいたのだ。
しかし、その野望は、今この帳簿の数字の前に完全に打ち砕かれた。
マナーハウスの建設には、農場のインフラなど比較にならないほどの莫大な費用がかかる。
内装、家具、庭園の造営まで含めれば、数千ポンドの現金などあっという間に消し飛んでしまうだろう。
「……ウィリアム。私はウォーキングの土地にマナーハウスを建てる夢を持っていたが、残念ながら、その計画は当分の間、完全に凍結せざるを得ないな」
パーシバルは目を開け、現実主義者の声で言った。
「賢明なご判断かと存じます。見栄を張るために現金を枯渇させ、事業の安全を脅かすのは、旦那様らしくありません」
ウィリアムは安堵の表情を見せた。
「全くだ。真のジェントルマンは、立派な石造りの城の中で餓死するより、ロンドンのタウンハウスで温かい紅茶を飲みながら生き延びる方を選ぶものだ」
パーシバルは自嘲の笑みを浮かべ、帳簿を力強く閉じた。
「手元の資金の安全は何よりも優先されなければならない。
ウォーキングの農場が本格的な収穫を迎え、投じた資本が大きな現金となって私の手元に還ってくるその日まで、新たな大規模投資は控える」
「承知いたしました。
では、長屋の建設費300ポンドの手配だけを進めさせていただきます」
ウィリアムは帳簿を恭しく胸に抱いた。
黄金に輝き始めた大麦の畑に歓喜した若き領主だが、化学肥料とノーフォーク農法を組み合わせた土壌改良事業の恐ろしさを改めて思い知らされていた。
■1818年9月。
ロンドンの空には、高く澄み切った秋の雲が広がり始めていた。
そして、大英帝国全土が、1年で最も活気づく収穫の季節を迎えていた。
ブルームズベリーに建つパーシバル・シャルトンの邸宅、その静寂に包まれた書斎の扉が、控えめなノックの音とともに開かれた。
「旦那様。ウォーキングの農場におられるジョージ・エバンスより、手紙が届いております」
家令のウィリアムが、銀の盆に載せた手紙を差し出した。
「ご苦労。待ちに待った秋の結果報告書だな」
パーシバルは羽ペンを置き、封を切った。
中は几帳面な字でびっしりと文字が書き込まれた便箋であった。
そして、エバンスの筆致が明らかな興奮と喜びで震えているのが見て取れた。
パーシバルは手紙に目を落とし、やがてその口元に深い、そして歓喜に満ちた笑みを浮かべた。
「ウィリアム。今日は最も上等な茶葉で紅茶を入れてくれ」
パーシバルが声を弾ませて言うと、ウィリアムは少し驚いたように眉を上げた。
「承知いたしました……素晴らしい吉報であったとお見受けいたします」
すぐさまウィリアムが最上級の茶葉を使った紅茶を綺麗に磨かれたティーカップに注ぐ。
淹れた紅茶の香りを楽しみながらパーシバルは勿体つけた様に再び話を始める。
「吉報などという生易しいものではない。我々の農場が、完全なる勝利を収めたのだ」
パーシバルは手紙の文面を指先で弾いた。
「エバンスからの報告によると、大麦と燕麦の刈り取りと脱穀がすべて完了したそうだ。
大麦を作付けした400エーカーの土地から、いったいどれほどの収穫があったと思う?」
ウィリアムは主人を喜ばすためにわざと控えめに答える。
「私には農業の専門的な知識はございませんが、あれはもともと不毛な砂地であった場所です。
1エーカーあたり20ブッシェルも収穫できれば御の字なのではございませんか?」
「私の新しい骨粉肥料を甘く見てもらっては困るな」
パーシバルはティーカップを受け取り、中の液体を軽く揺らした。
「400エーカーの土地から上がった大麦の収穫量は、なんと約14,000ブッシェルだ。
重量に換算すればおよそ317トン。
見渡す限りの荒れ地が、わずか1年足らずで317トンもの黄金の穀物を生み出したのだよ」
「14,000ブッシェル……! それは……」
ウィリアムもさすがに目を見張った。元は荒れ地とは思えない、まさに爆発的と呼ぶべき豊作である。
パーシバルは紅茶を1口味わい、さらに手紙を読み解いていった。
「ここからが、我々とって最も重要な計算だ。
エバンスは来年の春に撒くための種籾として1,400ブッシェルを手元に残し、残りの12,600ブッシェルをすべて売却する手はずを整えている。
穀物の取引単位であるクォーターに換算すれば、1クォーターは8ブッシェルであるから、正確には1,575クォーターの売却となる」
パーシバルは机の上に手紙を置きウィリアムに収益の前フリとなる話を続ける。
「合計500エーカーの畑での収穫作業には多くの日雇い労働者が必要だが、幸いにもサリー州はロンドンに近く、しかも日雇い労働者が求職する際の通り道となる運河沿いで安価な労働者には事欠かない。
エバンスの手紙によると収穫作業に掛かった費用は150ポンドだそうだ。
そして収穫された大麦は、農場からロンドンまでベイジングストーク運河を経由した水運を利用する。
馬車で285トンの荷物を陸路で運べば、何百頭もの馬と膨大な日数を消費し、輸送費だけで利益が吹き飛んでしまう。
しかし、平底船に積んで運河を下らせれば、馬1頭で何十トンもの麦を運ぶことができる。
エバンスの計算によれば、農場からロンドンの波止場までの水運コストは、1クォーターあたりわずか1シリング6ペンスだ。
ロンドンに近い運河に隣接した土地が、ここで劇的な経費削減となって活きている」
パーシバルはさらに話を続ける。
「そして、ロンドンでの売却は懇意にしている仲買人のハリス氏に依頼してある。
彼に支払う手数料が、1クォーターあたり1シリング。つまり、輸送費と手数料を合わせた経費は、1クォーターにつき2シリング6ペンスとなる」
1,575クォーターに2シリング6ペンスを掛け合わせる。
「収穫から販売に掛かる経費の総額は、約346ポンド。
分かりやすく350ポンドとしておこう。
そして、ハリス氏がロンドンのビール工場に取り付けた大麦の販売価格は、1クォーターあたり50シリングだ。総売り上げ約3,938ポンドから350ポンドの経費を差し引いた結果……」
パーシバルはペンの先で、紙に書き出した最後の算用数字を強く叩いた。
「私の手元には、およそ3,588ポンドの純利益が現金として転がり込んでくる」
書斎に、静かな、しかし確かな衝撃が走った。
3,588ポンド。
それは地方の裕福な地主が、広大な領地から1年がかりでかき集める地代収入の総額を優に超える金額である。
それが、たった400エーカーのつい1年前まで誰にも見向きされなかった不毛の荒れ地から生み出されたのだ。
「3,588ポンドでございますか……」
ウィリアムは深い感嘆の息を漏らした。
「今年の6月、労働者用の長屋を建設するために帳簿を確認した際、自由に使える現金が1,400ポンドにまで落ち込み、旦那様が冷や汗を流しておられたのがまるで嘘のようです」
「全くだ。
農業という怪物は現金を凄まじい速度で食いつぶすが、一度歯車が噛み合えば、これほど強大な見返りをもたらすものなのか」
パーシバルはソファに深く背中を預け、天井を仰ぎ見た。
彼の脳裏には、バーモンジーの工場でギルバート・バレットが製造した化学肥料、消石灰を焼くエバンスの姿、そして運河をゆっくりと進む荷船の光景が次々と浮かんでいた。
資本を投じて土地の性質を変え、科学の力で植物の成長を強制的に引き上げ、完成した生産物を最も安価な物流網で巨大な消費地ロンドンへと送り込む。
この一連のサイクルは、農業というよりも、極めて高度に組織化された現金製造機と呼ぶべき代物であった。
「ロンドンという世界最大の消費地がすぐ隣にあることも、我々の最大の武器だ」
パーシバルはティーカップの紅茶を飲み干した。
「何十万という人間が、毎晩酒場でビールを喉に流し込んでいる。
ビール工場は常に良質な大麦を渇望しているのだ。
我々がどれほど大量の麦を生産しようとも、ロンドンの巨大な胃袋はそれを残さず飲み込み、代わりに金貨を吐き出してくれる」
パーシバルは立ち上がり、書斎の窓から活気に満ちたロンドンの街並みを見下ろした。
不安は完全に払拭された。これで再び、彼の金庫は潤沢な資金で満たされる。
「ウィリアム」
パーシバルは振り返り、家令に向かって力強く命じた。
「6月に帳簿の数字を見て、私が凍結を宣言した計画があったな」
「はい。ウォーキングの領地に、旦那様の本宅となるマナーハウスを建設する計画でございましたね」
「その凍結を、今この瞬間をもって解除する」
パーシバルの目には、大英帝国の真の支配階級として君臨するための、野心に満ちた光が宿っていた。
「農場は私の期待を遥かに超える利益を生み出した。もはや手元の資金の安全を心配する必要はない。
領主としての威厳を示すための邸宅を構える時が来たのだ」
「承知いたしました」
「だがその前に、まずは邸宅を建てるための土地を用意しなければならない。
私の所有する3,000エーカーは、利益を生み出すための農地として使い倒すつもりだからな。
住居や庭園を造るために潰すわけにはいかない」
パーシバルは机に戻り、再び羽ペンを手に取った。
「すぐさま、顧問のハンストン弁護士宛てに手紙を書いてくれ。明日にでもこの邸宅へ来るようにと。
彼に新しい依頼を出す。
ウォーキングの農場に隣接する、見晴らしの良い高台の土地を買い上げるのだ」
不毛な荒れ地を富の源泉へと変えた男の次なる野望が、秋の深まりとともに力強く動き始めたのである。
■1818年10月。
書斎の重厚な机に向かって書き物をしていたパーシバルのもとへ、家令のウィリアムに案内されて1人の紳士が入室してきた。
フロックコートを隙なく着こなし、顎の髭を青白くなるまで完璧に剃り上げた男。
事務弁護士のラルフ・ハンストン氏である。
「ご機嫌麗しゅう、サー・パーシバル。秋晴れの心地よい午後ですね」
ハンストン氏は恭しく一礼し、持参した革鞄から報告のための書類を取り出し始めた。
「よく来てくれた、ハンストン氏。さあ、こちらへ」
パーシバルはペンを置き、机の向かいの椅子を勧めた。
「今日持ってきたのは、私を喜ばせる素晴らしい報告かな?」
「ご期待に副えず申し訳ございませんが、本日はあなたからいただく顧問料に見合うだけの平穏な状況報告を持参したに過ぎません」
ハンストン氏は書類を机の隅に置き、ふと実務家の堅い表情を緩めた。
「……とはいえ、本日はまずお祝いの言葉を申し上げなければなりません。
ウォーキングの農場が見事な豊作に恵まれたと伺いました。
初年度からこれほどの規模で黒字化の目処が立ったこと、心よりお喜び申し上げます」
「耳が早いな。どこでその話を聞きつけたのだ?」
パーシバルが紅茶のカップを手に取りながら尋ねると、ハンストン氏は微かに笑みを浮かべた。
「マーク・レーンの穀物取引所周辺では、サー・パーシバルがサリー州の荒れ地から何百トンもの大麦をロンドンへ送り込んできたという噂で持ちきりです。
正直に申し上げますと、昨年あなたがオンスロー伯爵に支払った莫大な土地代や、囲い込み法の法務費用、さらにはインフラ整備の経費を帳簿で確認した際、私はあなたの金庫が干上がってしまうのではないかと、密かに胃の痛む思いをしておりました。
しかし、これほど早く巨額の現金を回収されるとは……あなたの事業計画の恐るべき正確さに、改めて感服いたしました」
「弁護士の胃薬代まで請求されては堪らないからな。初期投資分の回収はまだ先だが、無事に運営費分を超える利益が出て私もほっとしているところだよ」
パーシバルは本心で安心している様子で返し、紅茶を一口飲んだ。
「だが、農場が順調に滑り出したことで、手元の資金の安全は完全に確保された。
そこでだ、ハンストン氏。今日はあなたに、新たな仕事の依頼を用意している」
「ほう。新たな契約書を作る機会をいただけるのは、事務弁護士にとって何よりの喜びです。
どのような案件でございましょうか」
ハンストン氏は姿勢を正した。
パーシバルは立ち上がり、書斎の壁に掛けられたサリー州ウォーキング周辺の広域地図の前に立った。
「私はこの地に、自分の本宅となるマナーハウスを建設したいと考えているのだ」
「なるほど、素晴らしいお考えです。領主として、威厳を示す壮麗な邸宅は不可欠でございますね」
ハンストン氏は深く頷いた。
「そこで、あなたに土地を買い上げてほしい。
ウォーキングの農場に隣接する場所か、あるいは少し離れた見晴らしの良い高台におよそ100エーカー程度の土地を探し出し、私のために購入してくれ。
予算は500ポンドを用意する」
ハンストン氏は目を瞬かせた。
「お待ちください、サー・パーシバル。
あなたはすでに3,000エーカーもの広大な土地をお持ちです。
その広大な敷地の中にご自身の邸宅を建てるスペースが確保できないはずがないでしょう。
なぜ、わざわざ追加で100エーカーもの別の土地を購入する必要があるのですか?」
弁護士の疑問に対し、パーシバルは静かに首を横に振った。
「たしかに現在、3,000エーカーの土地を所有しているが、あそこは労働者の家屋と納屋などを除いて大部分は大麦とカブを栽培し、羊を放牧するための農地として使い倒す計画だ。
そして邸宅というものは、ただ農場の真ん中にレンガの家をポツンと建てれば良いというものではないのだよ」
パーシバルは地図を指でなぞりながら説明を始めた。
「真のジェントルマンの生活空間には、周囲の農作業の現実から切り離された、専用のパーク(庭園用領地)が絶対に必要になる。
来客を圧倒するような長い並木道の馬車道、美しく刈り込まれた広大な芝生、狩猟の真似事を楽しむための人工的な森、そして立派な馬を繋いでおくための厩舎。
これらを配置するには、100エーカー程度の面積が必要なのだ」
当時のイギリスの上流階級において、ランスロット・ブラウンなどが提唱した風景式庭園を邸宅の周囲に造営することは、富と教養の象徴であった。
広大なパークは、農民たちの過酷な労働の風景や、家畜の糞尿の匂いから、紳士たちの優雅な生活空間を完全に隔離するための巨大な緩衝地帯として機能していたのである。
「それに、農場のど真ん中に邸宅を構えては、窓を開けるたびに羊の鳴き声と肥料の匂いを嗅ぐ羽目になる」
パーシバルは肩をすくめた。
「私は自分の農場を誇りに思っているが、ディナーの最中にティーカップの中にまで労働者の汗の匂いを漂わせるつもりはない。
生産の場である農場とは明確に区切りをつけた、小高い丘の上の見晴らしの良い場所に、独立した邸宅を構えたいのだ」
「なるほど、そういうことでございましたか」
ハンストン氏はパーシバルの合理的な説明に深く納得し、膝を打った。
「生活と生産を物理的に分離し、なおかつ周囲の者たちに領主としての威厳を視覚的に誇示する。
まさに、大英帝国の特権階級に相応しい土地の利用法ですね。理解いたしました。
では、その100エーカーの土地をどこから調達してくるかが問題となります」
ハンストン氏も立ち上がり、パーシバルの隣で地図を覗き込んだ。
「サー・パーシバルが購入されたオンスロー伯爵の土地の周囲は、土地所有者がモザイク模様となっております。
つまり、この辺りの土地を所有しているのは、大貴族ばかりではないということです」
「自営農民や、小さな地主たちが散在しているということだな」
「その通りです」
ハンストン氏は地図の空白部分を指差した。
「ヨーマンと呼ばれる彼らは、貴族のような称号こそ持ちませんが、先祖代々その土地を私有地として受け継ぎ、自らの手で耕してきた誇り高い独立農民たちです。
また、そのさらに上には、数百エーカーの土地を所有してジェントルマンの末席に座る小規模地主たちもおります。
ご希望の100エーカーを確保するためには、こうした細かく切り刻まれた土地を彼らからパッチワークのように買い集める必要があります」
ハンストン氏は弁護士としての懸念を口にした。
「彼らはオンスロー伯爵のようにロンドンの社交界で莫大な借金を作っているわけではありません。
先祖から受け継いだ土地に対する執着は異常なほど強く、容易には手放そうとしないでしょう。
交渉は難航するかもしれません」
「だからこそ、あなたに頼んでいるのだよ、ハンストン氏」
パーシバルは自信に満ちた笑みを浮かべ、再び椅子に腰を下ろした。
「確かに彼らは土地に誇りを持っているだろう。
だが、誇りだけで腹は膨れない。一昨年の夏のない年がもたらした大凶作のダメージは、地方の小さな農民や地主の懐に深く残っているはずだ。
手元に現金を持たない彼らにとって、私が提示する現金は、強烈な誘惑となるはずだ」
パーシバルは机の引き出しから小切手帳を取り出した。
「予算は500ポンドだ。
100エーカーに対する価格としては、この地域の相場に設定にしてある。
これだけの現金を目の前に積まれれば、借金に苦しんでいる者や、農業に見切りをつけて町へ出ようと考えている若い当主などは、必ず心が動く」
「相場相応の現金。これほど交渉において強力な武器はございませんね」
ハンストン氏の顔に、交渉人としての鋭い光が戻った。
「承知いたしました。ウォーキングの農場に隣接するエリアで、周囲を見渡せる小高い丘陵地を中心に地籍を調査いたします。
複数のヨーマンや小規模地主の財政状況を洗い出し、最も交渉しやすい相手から順番に網を張っていくことにいたしましょう」
「頼んだぞ。多少予定の面積が前後しても構わないし、形がいびつになっても問題ない。とにかく、私の邸宅と庭園を収めるのに十分な、まとまった土地を早急に確保してくれ」
パーシバルは、ハンストン氏を真っ直ぐに見据えた。
「土地さえ手に入れば、すぐにでも優れた建築家を探し出し、設計に取り掛からせるつもりだ。春には基礎工事を始めたい」
「あなたの歩みは、止まることを知りませんね」
ハンストン氏は依頼内容をメモしていた手帳を鞄にしまい、深々と頭を下げた。
「ハンストン法律事務所の総力を挙げて、サー・パーシバルに相応しい完璧なパークの基盤をご用意してみせましょう。
近いうちに、良いご報告ができると確信しております」
自らの権力と富を具現化する壮麗なマナーハウスの建設。
その第一歩となる土地の確保という泥臭い交渉が事務弁護士の手によって動き始めたのである。
■1818年11月。
セント・ジェームズ地区。
大英帝国の政治と社交の中心地であるこのエリアには、特権階級の男たちが集う数々の高級クラブが軒を連ねている。
その中でも、陸軍と海軍の上級将校たちによって創設されたばかりのユナイテッド・サービス・クラブは、極めて厳格な規律と高い格式を誇る社交場であった。
重厚な扉の向こう側は、女性の立ち入りが一切禁じられた完全なる男たちの聖域である。
館内に足を踏み入れると、磨き上げられた家具、足音を完全に吸収する分厚いトルコ絨毯が出迎えてくれる。
壁にはトラファルガーの海戦やワーテルローの戦いを描いた巨大な油絵が飾られ、大英帝国の栄光を無言で主張していた。
この空間は、軍の階級と貴族の称号が複雑に絡み合うヒエラルキーの縮図である。
食堂では提督たちが静かに銀の食器を鳴らして食事を楽しみ、図書室では将軍たちが分厚い革張りの椅子に深く身を沈め、タイムズやモーニング・ポストといった新聞の紙面を真剣な眼差しで追っている。
そして喫煙室からは、最高級の葉巻の煙が紫色の靄となって漂い、ブランデーの芳醇な香りとともに、ジェントルマンたちの低い話し声が絶え間なく聞こえていた。
基本的に人付き合いを好まないパーシバル・シャルトンであったが、社会的地位の維持と有益な情報収集のため、時折このクラブに顔を出していた。
彼は退官済みとはいえ陸軍の名誉中佐であり、ロイヤル・グエルフ勲章のナイト・コマンダーという称号を持っているため、この格式高い空間に堂々と居場所を確保することができたのだ。
パーシバルはその日、カード・ルームの隅のテーブルに座っていた。
「私の負けのようだな、シャルトン。
君のカードの読みは、かなりの正確さで驚くよ」
向かいの席で苦笑いを浮かべながら手元のトランプをテーブルに置いたのは、パーシバルの陸軍総司令部時代の上司であり、彼を叙勲へと導いた恩人、サー・ジェームズ・ウィロビー・ゴードン少将であった。
二人はピケという2人用のカードゲームを楽しんでいた。
「お言葉ですが、サー・ジェームズ。
あなたの手札の癖は、前から全く変わっておられませんよ」
パーシバルは、集めたカードを鮮やかな手つきで切り直した。
「全くだ。癖でどうしても一撃を狙った勝負をして負けてしまう。
だから私は戦場ではなく、事務机の後ろで采配を振るう方が向いているのだよ」
ゴードン少将はブランデーのグラスを手に取り、機嫌良く笑った。
彼は最近、国王から準男爵の世襲爵位を授与されたばかりであり、その表情には充実した自信が満ち溢れていた。
一代限りのナイトとは異なり、準男爵の爵位は長男へと代々受け継がれていく。
それは家門の永遠の栄誉を意味していた。
「実は最近、新しい爵位にふさわしい箔をつけるためにも、色々と準備を進めているところでね」
「準備、とおっしゃいますと?」
ゴードン少将は葉巻に火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。
「ワイト島に別荘を建て始めているのだ。
ロンドンの煤けた空気から離れ、南の海風を浴びて健康を取り戻すためにな。
あそこの風光明媚な海岸線は、老兵が余生を過ごすには最高の場所だよ」
ワイト島はイングランド南岸に位置し、温暖な気候と美しい自然で知られ、富裕層の間で保養地として人気を集め始めていた場所である。
「それは素晴らしい。完成の暁には、ぜひ私めもその美しい海風を味わいにお招きいただきたいものです」
パーシバルが応じると、少将は目を細めてパーシバルを見た。
「もちろんだとも。だが、海風を味わう暇が君にあるのかな?
社交界の噂では、君はサリー州の使い物にならない荒れ地を黄金の麦畑に変えてみせたというではないか。
見事な手腕すぎて、錬金術を使ったのではないかと専らの評判だよ」
「錬金術ではありません、サー・ジェームズ。
ただ有名なノーフォーク農法の応用です」
パーシバルは謙遜しつつ、配られたカードを手元で扇状に広げた。
「ですが、あなたの仰る通り、休んでいる暇はありません。
実は私も同じように建築の計画を立てている最中なのです」
「ほう。ロンドンに新しいタウンハウスを建てるのかね?」
「いいえ。ウォーキングの領地に、本宅となるマナーハウスを建設するつもりです」
パーシバルはカードから視線を上げ、真剣な表情でゴードン少将を見つめた。
「近々、農場を見下ろす高台に、邸宅を建てるためのまとまった土地を購入する予定でして、資金の準備も整っています。
ただ一つ、肝心なピースが欠けているのです」
「優秀な建築家、というわけだな」
ゴードン少将はパーシバルの悩みを即座に察し、葉巻の灰を銀の灰皿に落とした。
「その通りです。私が求めているのは、過去の図面をそのまま引き写すような退屈な職人ではありません。
現地の地形や地質を理解し、なおかつ領主としての威厳を形にでき、私の要望に対応出来る柔軟で先進的な頭脳を持った男です。
どこかに良い人材の心当たりはございませんか?」
軍や政府の要職に就くゴードン少将は、ロンドンの文化や芸術の最新の動向にも極めて明るかった。
少将は少しの間、考え込むようにブランデーのグラスを揺らしていたが、やがて何かを思い出したように顔を上げた。
「……シャルトン。
もし君が、型に嵌らない真の才能を求めているのであれば、うってつけの若者が一人いる」
「どのような人物ですか?」
「チャールズ・ロバート・コッカレル。まだ26歳かそこらの恐ろしく情熱的な若手建築家だ」
ゴードン少将は身を乗り出し、その名を楽しげに口にした。
「彼はつい先日、7年間にも及ぶ長いグランドツアーからロンドンへ帰国したばかりなのだ。
ローマにとどまらず、ギリシャのアテネ、さらにはオスマン帝国の奥深くまで足を伸ばし、古代の神殿や遺跡を自らの足で発掘し、その手で正確な図面を引いてきたのだよ。
彼がクラブのサロンで広げてみせた古代建築のスケッチを見たが、あの圧倒的な美しさと細部へのこだわりには、私でさえ深い感銘を受けた」
大英帝国の上流階級において、古代ギリシャ・ローマの文化は絶対的な教養の源泉であった。
しかし、実際にギリシャや小アジアまで足を運び、何年にもわたって実地の調査を行ってきた建築家は、当時のロンドンでも極めて稀な存在である。
「7年間のグランドツアーですか。それは凄まじい熱量ですね」
パーシバルも強い興味を惹かれ、手元のカードを伏せた。
「ああ。大英博物館に展示されているエルギン・マーブル(パルテノン神殿の彫刻群)を見ただろう?
彼はあの彫刻が本来どのように建物に配置されていたのかを誰よりも正確に理解している男だ。
古い教科書を読むのではなく、古代の真の美しさを実地で呼吸してきたのだ。
彼の柔軟な発想と古代の威厳を融合させるセンスは、これからの大英帝国の建築界を間違いなく席巻することになるだろう」
ゴードン少将は葉巻をくわえ直し、パーシバルに向かって目配せをした。
「まだ帰国したばかりで、彼自身が単独で指揮を執るような大きな仕事は受けていないはずだ。
もし君が望むなら、彼に手紙を書き、君の邸宅へ差し向けるように手配してやろう」
パーシバルは内心でマナーハウス建設のスケジュールが組み上がっていくのを感じた。
才能に溢れ、最新の知識を持ちながら、まだ大きな実績のない若手建築家。
これはコストパフォーマンスが良く、かつ自身の意向を反映させやすい理想的な人材である。
それに、ゴードン少将からの紹介状を持ってくるとなれば、相手も決して手を抜くことはできない。
「素晴らしいご提案です、サー・ジェームズ。
そのチャールズ・ロバート・コッカレル氏に、ぜひとも私のマナーハウスの設計を依頼したいと思います」
パーシバルは喜びとともに深く頭を下げた。
「良し、決まりだな。
土地が確保できたら知らせ給え、彼を君のブルームズベリーの邸宅へ向かわせよう。
少なくとも彼のアテネ土産の話は、間違いなく君を退屈させないはずだ」
ゴードン少将は満足げに頷き、再びテーブルの上のトランプを手にした。
「さて、建築の話はここまでだ。次は私が勝たせてもらうぞ、パーシバル」
「お手柔らかにお願いいたします」
パーシバルも微笑みながらカードを拾い上げた。
■1818年12月初旬。
パーシバルが、ウィリアムの淹れた温かい紅茶を口に運んでいるところへ、小気味よいノックの音が響いた。
「旦那様、ハンストン法律事務所のラルフ・ハンストン氏が到着いたしました」
家令の丁寧な先触れに続き、完璧に髭を剃り上げ、地味ながら仕立ての良い黒のフロックコートを纏った事務弁護士が入室してきた。
その手には、いつものように厚みのある革鞄が握られている。
「よく来てくれた、ハンストン氏。外はひどい寒さだろう。まずは暖炉のそばへ」
パーシバルが席を勧めると、ハンストン氏は恭しく一礼し、冷え切った手を暖炉の火にかざした。
「お気遣い痛み入ります、サー・パーシバル。
馬車の中は、まるで氷室のようでした。
ですが、私の胸の中には、その寒さを吹き飛ばすほどの吉報が詰まっております」
ハンストン氏は革鞄から、何枚もの署名が並ぶ羊皮紙の契約書と、手書きの精緻な地籍図を取り出して机の上に広げた。
「ウォーキングの農場に隣接する、マナーハウス用の土地の買収ですね。早くもすべての契約をまとめ上げました」
ハンストン氏の言葉に、パーシバルはわずかに目を見張った。
10月に依頼してからまだ2ヶ月も経っていない。地方の頑固な地主たちを相手に、これほどの速度で交渉を成立させるとは、さすがにチェンサリー・レーンに事務所を構える男だけのことはある。
「素晴らしい手際だ、ハンストン氏。それで、どのような形で落ち着いたのだ?」
パーシバルが地図を覗き込むと、ハンストン氏は少し申し訳なさそうな顔をした。
「サー・パーシバル。
地図に綺麗な直線を引くようにはいかないのが、現実の土地買収というものでございます」
ペンを手に取り、地籍図の複雑に区切られた境界線を指し示した。
「あなたが当初ご希望されていたのは、100エーカー程度のまとまった高台の土地、予算500ポンドという条件でした。
しかし、あの一帯はオンスロー伯爵のような大貴族の領地ではなく、先祖代々の土地を頑なに守る自営農民や、数百エーカーの地所でジェントルマンの体面を保っている小規模地主たちがひしめき合っております。
当然ながら、都合よく100エーカーの綺麗な土地を、ちょうど売りたがっている地主が隣にいるはずもありません」
ハンストン氏は苦笑を漏らしながら、交渉の裏話を語った。
「あるヨーマンは、一昨年の凶作の借金を返すために土地の一部を売りたがっていたり。
地主の懐事情を洗い出し、パッチワークの絵を完成させるように、1人ずつ個別の条件を提示していきました。
あちらの通行権を認め、こちらの小作人の立ち退き料を上乗せし、複数の地主から細切れの土地を買い集めて繋ぎ合わせたのです」
ハンストン氏は地籍図の全体を丸で囲んだ。
「その結果、最終的に確保できた土地の総面積は160エーカー。
そして、彼らに支払う購入費用の総額は650ポンドとなりました。
面積も、金額も、当初の予定を大きく超過してしまいましたこと、まずは不徳の致すところとしてお詫び申し上げます」
ハンストン氏は実務家として、予算と条件の超過に対するパーシバルの反応を慎重に見極めようとした。
しかし、パーシバルは怒るどころか、その複雑に絡み合った地籍図を見つめながら、深く満足げに頷いた。
「ハンストン氏、頭を下げていただく必要などどこにもない。
むしろ、よくぞこれだけの面積を1つのまとまった土地としてまとめ上げてくれた」
パーシバルは椅子の背もたれに深く寄りかかり、ウィットに富んだ微笑を浮かべた。
「土地の買収とは、理屈ではなく泥臭い人間の欲望を裁く仕事だ。
100エーカーぴったりで売りに出されている地所など、このイングランドのどこを探しても存在しない。
160エーカーという広さは、私が計画している広大な庭園と長い馬車道を造営するのにむしろ丁度良い大きさだよ。
それに凶作で困窮している彼らにとって、相場以上の現金がどれほどの救いになったかは想像に難くない。
彼らの誇りを傷つけずに権利を買い取ったあなたの交渉力は、賞賛に値する」
「そう言っていただけると、不眠不休でサリー州の田舎道を往復した甲斐がございました」
ハンストン氏は目に見えて安堵の表情を浮かべた。
「約束通り、報酬は出し惜しみしないよ」
パーシバルは机の引き出しから小切手帳を取り出し、羽ペンをインク壺に浸した。
「土地の購入費が650ポンド。
そして、あなたの事務所への成功報酬や現地の測量士への支払い、各種の登記に伴う実費などの案件料として100ポンドを上乗せしよう。
合計で750ポンドだ」
パーシバルは流れるような筆致で数字を書き込み、署名を施した小切手をハンストン氏に差し出した。
先月の秋の収穫により、パーシバルの金庫には3,740ポンドの現金が転がり込んできたばかりである。
750ポンドという金額は決して小さくはないが、現在の彼の強固な資金力を考えれば、手元の現金を脅かすような額では全くなかった。
「確かに、750ポンドの小切手を頂戴いたしました」
ハンストン氏は証書を丁寧に折りたたみ、内ポケットにしまい込んだ。
「サー・パーシバルのような度量のあるご依頼人と仕事ができることは、我々法律家にとって最大の幸運でございます」
「仕事の話はここまでとしよう、ハンストン氏。
時計を見てみたまえ、ちょうどディナーの時間だ」
パーシバルは立ち上がり、書斎のドアを指し示した。
「今日はわざわざロンドンまで書類を届けてくれたのだ。
私の家で温かい食事を共にしていってくれ。最高の冬の味覚を用意させてある」
「それは素晴らしい。ジェントルマンの誘いを断るほど、私は無粋な男ではありませんよ」
ハンストン氏は笑みを浮かべ、パーシバルとともに食堂へと移動した。
シャルトン邸の食堂は、銀の燭台に灯された蝋燭の柔らかな光で満たされていた。
テーブルの上には、雪のように白いリネンのクロスが敷かれ、磨き上げられた銀の食器が整然と並んでいる。
家令のウィリアムが完璧な手際で給仕を始めると、室内に芳醇な料理の香りが広がった。
最初の皿は、冬の寒さに最適な、濃厚な玉ねぎと根菜のスープであった。
続いて、マイルズ・エンドの魚市場から今朝仕入れたばかりの、新鮮なターボット(ヒラメ)の冷製仕立てが、キリリと冷えた白ワインとともに振る舞われた。
「美味い。ロンドンの安酒場や、法曹院の単調な食堂の食事とは比べものになりませんな」
ハンストン氏は上品にナイフとフォークを使いながら、舌鼓を打った。
メインの皿として運ばれてきたのは、ハンプシャーの実家から届けられたばかりの、極上のベニソン(鹿肉)のローストであった。
肉の旨味を引き立てる濃厚な赤ワインのソースがかけられており、ウィリアムが年代物のクラレット(ボルドー産の赤ワイン)をグラスに注ぐと、食卓の雰囲気はより一層華やかなものとなった。
「ところで、サー・パーシバル」
ハンストン氏はグラスを揺らしながら、時事の世間話を切り出した。
「最近、シティの金融街では、ガス燈・コークス会社の話題でもちきりです。
ウェストエンドの主要な街路にはほぼガス管が行き渡り、夜のロンドンは本当に明るくなりました。
あの株の価格はさらに高騰を続けておりますよ。あなたの投資の目は、本当に恐ろしいほど正確だ」
「あれはただ、夜の闇を取り除くという人間の根源的な欲求に投資したに過ぎないよ、ハンストン氏」
パーシバルは笑みを浮かべながら、ベニソンを口に運んだ。
「人間は一度便利な光を知ってしまえば、二度と薄暗い鯨油のランプには戻れないものだ。
あの会社はこれから何十年と、私に安定した配当金を運んできてくれるだろう。
法律による保有上限さえなければ、資金を追加で投じていたのだがね」
「ははは、議会の独占禁止条項が、ロンドンの他の資本家たちをあなたの脅威から守ったというわけですね」
ハンストン氏は笑い声を上げた。
会話は、最近の議会におけるトーリー党とホイッグ党の小競り合いや、摂政皇太子の贅沢な宮廷生活の噂話へと移り変わっていった。
当時のジェントルマン階級にとって、食事の席でこうした政治や経済の最新動向を知的なジョークとともに語り合うことは、何よりの娯楽であった。
「さて、ハンストン氏が私のために最高のパークの基盤となる160エーカーを用意してくれた」
パーシバルはデザートの温かいプディングを楽しみながら、視線を弁護士に向けた。
「舞台は整った。次は、この土地にどのような美しい館を建てるかだ。
実は、サー・ジェームズ・ゴードン少将からの紹介で、ある若き建築家に依頼しようと考えていてね」
「ほう、少将の推薦ですか。それは一体どのようなお方で?」
「チャールズ・ロバート・コッカレルという、7年間のグランドツアーから帰国したばかりの若者だ。
ギリシャやオスマン帝国で古代建築の本質を学んできた男らしい」
パーシバルの言葉に、ハンストン氏は興味深そうに眉を上げた。
「若い建築家ですが、たしかに過去の古臭い様式に縛られた老建築家よりもあなたのような革新的な事業を行う方には、それほど尖った若い才能の方が相応しいかもしれません。
どのような図面が引かれるのか、今から楽しみですな」
「ああ、彼の柔軟な頭脳が、私のウォーキングの地にどのような威厳をもたらしてくれるか、大いに期待しているよ」
ディナーの終わりを告げるポートワインがグラスに注がれる頃、窓の外の気温は更に低くなっていたが、食堂の中は確固たる成功の余韻と、次なる創造への熱い期待で満たされていた。
■1818年12月中旬。
クリスマスを間近に控えたロンドンは、底冷えのする冷気に包まれていた。
道行く人々は分厚い外套の襟を立てて足早に歩を進めている。
家令のウィリアムが、銀のトレイに載せた一枚の紹介状を恭しく差し出した。
「旦那様。サー・ジェームズ・ゴードン少将からのご紹介状を持った紳士がお見えです。
チャールズ・ロバート・コッカレル氏と名乗っておられます」
「通してくれ。少将が推薦していた若き才能にようやくお目にかかれるというわけだ」
パーシバルが頷くと、ほどなくして一人の若者が応接間に入ってきた。
チャールズ・ロバート・コッカレル。年齢は26歳。
長身で均整の取れた体格を持つ彼は、典型的なロンドンの紳士とはどこか異なる雰囲気を漂わせていた。
その肌はイングランドの青白い空の下で過ごしてきた者とは違い、南欧や東方の強い日差しに焼かれた精悍な色をしている。
印象的なのは、その双眸に宿る燃えるような熱気であった。
何かを創造したくてうずうずしている芸術家特有の渇望が、彼の全身から発散されている。
「お初にお目にかかります、サー・パーシバル。
チャールズ・ロバート・コッカレルと申します。サー・ジェームズ・ゴードン少将から、あなた様が素晴らしい計画をお持ちだと伺い、居ても立ってもいられず馳せ参じました」
コッカレルは深々と頭を下げたが、その動作の中にも隠しきれない活力が満ちていた。
「よく来てくれた、コッカレル氏。少将からは、君が長きにわたるグランドツアーから戻ったばかりだと聞いているよ」
パーシバルは向かいのソファを勧めた。
コッカレルは着席するや否や、挨拶もそこそこに自らの旅の体験を口にし始めた。
「ありがとうございます。
ええ、実に7年間、私はイングランドを離れておりました。
イタリア半島はもちろんのこと、ギリシャの小島からアテネ、さらにはオスマン帝国の奥深くに残る古代遺跡まで、この足で歩き回ってきたのです」
彼は身を乗り出し、目を輝かせた。
「サー・パーシバル。
ロンドンの書斎で埃を被った図面集を眺めているだけでは、古代建築の真髄は決して理解できません。
ギリシア神殿の大理石が、地中海の強烈な太陽光を受けてどのように陰影を作るか。
神殿の柱がただ真っ直ぐに立っているのではなく、人間の目にどう美しく映るよう微細な膨らみを持たせているか。
私はそれを、自らの手で土を掘り起こし、実地で測量して学んでまいりました」
彼の言葉には、机上の学問ではない、現地の空気と光を吸い込んできた者だけが持つ圧倒的な説得力があった。
「大英博物館に展示されているエルギン・マーブルは確かに素晴らしい。
しかし、あれは本来、乾いた風と突き抜けるような青空の下に置かれてこそ、真の生命を宿すものなのです。
私は、古代の巨匠たちが持っていた空間の捉え方を、この大英帝国の新しい建築に吹き込みたいと熱望しております」
パーシバルは、若き建築家の溢れんばかりの情熱に静かな好感を抱いた。
過去の様式をただ模倣するだけの職人であれば、ロンドンにいくらでもいる。
しかし目の前にいる青年は、古代の美しさを自分の中で一度咀嚼し、それを新たな形として吐き出そうとするエネルギーに満ち溢れていた。
合理性を重んじるパーシバルにとって、自分にはない種類のこの熱量こそが、自身の野望を形にするための最後のピースとして必要だったのだ。
「素晴らしい経験をしてきたようだな。少将が君のスケッチを見て感銘を受けたというのも頷ける」
パーシバルは上等の紅茶が注がれたカップを手に取った。
「さて、君がそれほどの情熱を持っているのなら、私の計画を打ち明けても退屈はしないだろう」
コッカレルは瞬き一つせず、パーシバルの次の言葉を待った。
「私は現在、サリー州のウォーキングに3,000エーカーの農場を所有し、大規模な開拓事業を行っている。
つい先日、その農場を見下ろす丘に、およそ160エーカーのまとまった土地を買い上げたところだ。
私はその丘の上に、自分自身が住まうための本宅、すなわちマナーハウスを建設しようと考えている」
パーシバルはカップを置き、声に力を込めた。
「私が求めているのは、古めかしいだけの重苦しい城でもなければ、ただ無駄に装飾を施した成金趣味の館でもない。
領主としての威厳と品格を保ちながら、周囲の自然環境や広大な庭園と完全に調和する、大英帝国の新しい時代に相応しい邸宅だ。
現地の風と光を取り入れ、住む者に快適さを提供し、訪れる者を圧倒するような空間を造り上げたい」
パーシバルの中にある、新興の地主として古い貴族たちに決して引けを取らない確固たる拠点、すなわち「自分の城」を手に入れたいという強い野望が、言葉の端々から滲み出ていた。
「私の邸宅を、君の手で設計してみる気はないか?」
その問いかけに、コッカレルの顔がパッと明るく輝いた。
「もちろんです! サー・パーシバル、喜んでお引き受けいたします。
なんという幸運でしょう、私にとってこれは、イングランドへ帰国して初めて手がける大仕事になります!」
若き建築家はソファから半分腰を浮かせんばかりの勢いで身を乗り出した。
「あなたの仰る通りです。真に優れた建築とは、周囲の風景と切り離されて存在するものではありません。
丘の起伏、木々の配置、太陽の軌道、すべてが建物と一体となって初めて、完璧な調和が生まれるのです。
私はギリシャの神殿が自然の岩山とどう融合していたかをこの目で見てまいりました。
その哲学をサリー州の丘陵地に必ず再現してみせます」
「頼もしい言葉だ。
君のその柔軟な発想に賭けてみよう。これで正式に君を私のマナーハウスの設計者に任命する」
パーシバルが宣言すると、コッカレルは満面の笑みで深く頷いた。
「ありがとうございます! では、早速図面を引き始めたいところですが……」
コッカレルはふと表情を引き締め、真剣な眼差しでパーシバルを見つめた。
「その前に、どうしてもやっておかなければならないことがございます」
「なんだ? 必要な資料や書籍があるなら、手配させよう」
パーシバルが尋ねると、コッカレルは首を横に振った。
「いいえ。
私がまずしなければならないのは、ウォーキングの建設予定地へ赴き、自らの足でその丘を歩き回ることです。
地質はどうなっているか、風はどちらから吹くか、朝日がどの角度から差し込み、夕陽がどの木立に沈むのか。
それを現場で確かめなければ、一本の線たりとも紙に引くことはできません。
過去の偉大な様式をそのまま当てはめるだけでは、生きた建築にはならないのです」
図面を描く前に、まずは土地そのものを深く知ろうとするその姿勢。
パーシバルは深く感心した。
「その意気や良し。君のやり方に口出しはしない。好きなだけ土地を調べ尽くしてくれ」
パーシバルは満足げに立ち上がり、机の引き出しから小切手帳を取り出した。
さらに便箋にサラサラと農場管理人のエバンスに宛てたコッカレルの紹介状も認めた。
「これは当面の調査費用と君の現地への旅費として用意した20ポンドだ。
必要であれば、現地にいる農場管理人のエバンスに案内させよう」
パーシバルが流れるような手つきで署名した小切手とエバンスに向けた紹介状を差し出すとコッカレルはそれを受け取り、大事そうに胸のポケットに収めた。
「感謝いたします、サー・パーシバル。すぐに荷物をまとめ、サリー州へ向かう馬車を手配します。
現地の空気を吸い、土の匂いを嗅げば、インスピレーションが湧き上がってくるはずです」
コッカレルは勢いよく立ち上がった。その動作には一秒たりとも無駄な時間を過ごしたくないという焦燥すら感じられた。
「規模やデザインの詳細な打ち合わせは、私が現地から戻ってからにいたしましょう。
どのような邸宅にするべきか、それは土地が私に語りかけてから決めることです!」
言い終わるや否や、コッカレルは「では、これにて失礼いたします!」と深々とお辞儀をし、応接間のドアに向かって歩き出した。
あまりにも唐突な別れの挨拶に、パーシバルが何か言葉を返す暇すら与えない。
若き建築家は、まるで嵐が過ぎ去るかのような猛烈な速さで応接間を後にし、玄関の扉がバタンと閉まる音が遠くから響いてきた。
「……なんという男だ」
静寂が戻った応接間でパーシバルは一人、ぽつんと立ち尽くしていた。
金融街で彼が相手にする、慎重に間合いを測るような紳士たちとは全く異なる人種である。
金を受け取るや否や、自身の芸術的衝動に従って文字通り風のように去っていった若者の背中を思い出し、パーシバルは思わず呆気にとられていた。
「旦那様、お客様はお帰りになられたのですか?
まだ紅茶のお代わりもお出ししておりませんでしたが」
廊下から戻ってきたウィリアムが、開け放たれたドアを見て目を丸くした。
「ああ、帰ったよ。いや、正確には戦場へ突撃していったと言うべきか」
パーシバルはやれやれと肩をすくめ、しかしその口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「だが、あれで良い。あの有り余る情熱が、私の土地にどのような命を吹き込んでくれるか。大いに期待できそうだ」
自らの威厳を具現化するマナーハウスの建設という、ジェントルマンとしての最終的な野望の実現に向け、パーシバル・シャルトンの物語は新たな局面へと高らかに歩みを進めたのである。
(第12章 完)




