プロローグ:目覚めと境界線の融合
1803年2月。
イングランド南部ハンプシャー州、
古都ウィンチェスターの北西に位置するシャルトン領。
その中心に鎮座するジョージアン様式のマナー・ハウス(領主の邸宅)の二階で、
一人の少年が深い混濁から意識を浮上させた。
「……あ、つ……」
喉が焼けるように熱い。視界は霞み、重厚なカーテンの隙間から漏れる朝陽が、
網膜を刺すように痛かった。
パーシバル・シーモア・シャルトン、十二歳。
彼は三日前から原因不明の高熱にうなされ、生死の境を彷徨っていた。
だが、今この瞬間に彼を苦しめているのは、肉体の苦痛だけではなかった。
(……ここは、どこだ? 僕は、誰だ?)
脳内に、濁流のような「記憶」が流れ込んでいた。
一つは、この時代、この場所で生きてきた十二歳の少年の記憶。
厳格な父、美しい母、優秀な兄、そして愛らしい妹たち。
週末には馬を駆ってウィンチェスターの学校から帰り、広大な領地を走り回る日々。
そしてもう一つ。
それは、全く異なる世界の記憶だった。
高層ビルが立ち並び、鉄の塊が空を飛び、手のひらサイズの機械で世界中と繋がることができる、
未来の島国——「日本」という国で生きていた青年の記憶だ。
商業高校を卒業し、大学では経済学を専攻した。
十九世紀イギリスの経済史をテーマに卒業論文を書くために、連日図書館に籠もっていた。
(僕は……死んだのか? それとも、これは長い夢なのか……?)
二つの記憶が激しく衝突し、やがてゆっくりとパズルのピースが噛み合うように統合されていく。
今の自分は、パーシバル・シーモア・シャルトンだ。
しかし、その魂の核には、経済学を学び、歴史の「行く末」を知る日本人の理性が宿っている。
「パーシー? ああ、パーシー! 気がついたのね!」
部屋の扉が勢いよく開いた。
絹のドレスの擦れる音が耳に届き、芳醇なラベンダーの香りが鼻腔をくすぐる。
駆け寄ってきたのは、母のシャーロット・シンクレア・シャルトンだった。
家族との再会
シャーロットは三十五歳。当時の基準でも、そして現代日本人の目から見ても、驚くほどの美人だった。
彼女は震える手でパーシバルの額に触れ、熱が引いていることを確かめると、
崩れ落ちるようにベッドの脇に膝を突いた。
「神様、感謝いたします……。もう、このまま帰ってこないのではないかと……」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ、パーシバルの手に落ちる。その熱さと湿り気が、
彼に「これは現実なのだ」と強く自覚させた。
「……母上、すみません。心配を、おかけしました」
パーシバルは、ひどくかすれた声で答えた。
口をついて出た言葉は、流暢な英語だった。
当たり前だ、彼はこの国のジェントリ(郷紳)の子息として教育を受けてきたのだから。
「いいのよ、いいの。今は何も話さなくていいわ。ハミルトン! 旦那様をお呼びして。
それから、すぐに温かいスープと新しいリネンを!」
母の鋭い指示が飛ぶ。
部屋の外で控えていた執事のハミルトンが、落ち着いた、
しかしどこか安堵を含んだ声で「承知いたしました、奥様」と応じる気配がした。
しばらくすると、重厚な足音が廊下に響いた。
部屋に入ってきたのは、父のヘンリー・エドワード・シャルトンだ。
四十歳。1000エーカーを超える土地を統治する家長としての威厳を纏い、
その表情は硬いが、瞳の奥には隠しきれない動揺と喜びが見えた。
「パーシバル。気分はどうだ」
父の声は低く、しかし力強い。
前世の記憶を持つ今のパーシバルには、この父が単なる「怖い父親」ではなく、
十九世紀初頭という激動の時代において、家族と領地を守り抜こうとする「エスクワイア(Esquire)」すなわち、貴族ではないが紋章を持ち、
地主として地域社会の頂点に立つ特権階級の男であることがよく理解できた。
「はい、父上。まだ少し体が重いですが、意識ははっきりとしています」
「そうか。……よく戻った。お前が学校を休んで寝込んだ時はどうなることかと思ったが、
シャルトンの血はそう簡単に絶えはせんということだな」
父はパーシバルの肩を軽く叩いた。その手は大きく、農園の管理もこなす実務家らしく、
うっすらと硬いタコがあった。
「パーシー兄様!」
父の背後から、二人の少女が顔を覗かせた。
七歳のアリスと、四歳のマリアだ。二人は心配そうに兄を見つめていたが、
彼が微笑むのを見ると、パッと顔を輝かせた。
「兄様、死んじゃうかと思ったわ!」
「マリア、そんな不吉なことを言うものではありません」
姉のアリスがマリアをたしなめるが、二人とも兄の無事に安堵しているのが伝わってくる。
そして、その奥には十四歳の兄、アーサー・シーモア・シャルトンの姿もあった。
彼はウィンチェスターのパブリック・スクールに通う、シャルトン家の跡取り息子だ。
兄は少し照れくさそうに、しかし優しく頷いて見せた。
「災難だったな、パーシー。だがこれで、月曜日に一緒にウィンチェスターへ戻る楽しみが増えたというものだ」
家族に囲まれ、パーシバルは不思議な感覚に包まれていた。
かつての自分にとっては当たり前だった風景が、今は全く別の意味を持って迫ってくる。
(僕は……この人たちの息子であり、兄弟なんだ。そして、この生活を守らなければならない)
静養の中での自問自答
家族が去り、再び部屋に静寂が戻ると、パーシバルは深い溜息をついて横たわった。
窓の外には、春を待つイングランドの田園風景が広がっている。
910エーカーの貸付地と、110エーカーの直営農場。
それがシャルトン家の力の源泉だ。
(さて……整理しよう)
パーシバルは、天井の装飾を見つめながら、現代日本で学んだ知識を呼び起こした。
今は1803年。
世界史的に見れば、ナポレオン・ボナパルトがフランスの終身執政となり、
ヨーロッパ全土を戦火に包み込もうとしている時代だ。
イギリスはアミアンの和約による束の間の一服を終え、
再びフランスとの全面戦争に突入しようとしている。
そして、自分の立場。
シャルトン家の次男。
(これが、一番の問題だ)
十九世紀のイギリスにおいて、土地と屋敷は長男がすべてを継承する。
次男である自分には、基本的に一エーカーの土地も残されない。
母の持参金の一部を分与される程度で、あとは軍人になるか、
聖職者になるか、あるいは法律家として身を立てるしかない。
もし、前世の記憶がなければ、彼は兄への劣等感を抱えつつ、
適当な職業を選んで平凡な一生を終えていたかもしれない。
しかし、今の彼には武器がある。
(僕は、これからの百年で何が起こるかを知っている。
蒸気機関、鉄道、大英帝国の膨張、そして資本主義の完成……)
彼は、自分が決して天才ではないことを自覚していた。
現代日本でも、エリート街道を突き進むような超人ではなかった。
だが、歴史の「大きな流れ」を知っていることは、この時代において、いかなる財宝よりも価値がある。
(無理な野心は持たない。
ナポレオンと戦おうなんて大それたことは考えない。
ただ、このシャルトン家の一員として、そして一人のジェントリとして、
慎重に、かつ堅実に資産を築こう。兄に依存せず、自分の足で立てるだけの富を)
病上がりの体には、まだ少し思考が重すぎた。
しかし、彼の心には、これまでにない冷徹なまでの決意が宿っていた。
かつての自分が卒論のテーマに選んだ「十九世紀イギリスの経済」。
それはもはや紙の上の知識ではない。彼がこれから生き抜く、戦場そのものなのだ。
「……まずは、この家を、そして自分の置かれた状況を正確に把握することから始めよう」
パーシバルは、窓から見える広大な領地を見つめ、静かに、しかし力強く誓った。
十二歳の少年の瞳には、もはや子供の無邪気さは消え、時代を見据える鋭い光が宿っていた。
AIの手を借りて、できる限りリアリティを重視した過去転生物です。
それでも小説なのでご都合主義は多少あると思いますので、
その点はご容赦下さい。




