レベル70 サシミアンドアイズ
ベルスローン帝国。
それは、この世界で最大級の国家の一つである。
聖砂半島、十字路地方、鈴の地の三地方にまたがり、十二の藩王国を属国化している。
公式には五百年前のベルへイム国にまで歴史を遡れる。
皇帝はベルゼール。
智謀に優れ、また先年はトラアキアで起きた反乱を征伐に親征するなど武の方面でも優れている。
大瑠璃海貿易での交易税による収益で国力にも余裕がある。
現時点で世界最強の国家とも言われている。
「そんな国の公爵位ってかなりのものだよな?」
「当たり前じゃ。広大なベルスローン帝国、その数多くいる諸侯の中でも公爵というのは二十家しかおらぬのじゃ。ベリティス様はその一つなのじゃ」
「二十家……」
それが多いのか、少ないのかはキースにはわからない。
けれど、この帝国の支配層の上から二十番目くらいと考えると自分の立場に改めて、不思議なものを覚える。
「普通は、緊張するとか、恐れるとかするのじゃがのう」
「そんなの、あの集中講義で無くなりましたよ」
寝ても覚めても勉強勉強勉強の毎日だった。
あれで覚えたことはそうそう忘れないだろう。
キースとジェナンテラ、そしてベリティスから付けられた護衛の兵が八人。
それが一行の数である。
ベリティス公領から、帝都ベルスローンに向かうには南西にあるスバルツポートの港から”黒の海”を渡る方法がとられる。
帝都は海に面した都市なので、海上から行く方が近いのだ。
スバルツポートまでの道は整備されているし、行程のほとんどがベリティス公領のため危険はほとんどない。
「そうなんですが、ここ最近領地境に大規模な盗賊団が生まれたらしくて、ちょっと被害があるんですよね」
護衛の兵士の一人が心配そうに言った。
門番の元山賊からの情報だそうだ。
「襲われたら嫌ですね」
「まあ、こっちはベリティス公爵の紋章旗を掲げてますから、よっぽどじゃなきゃ大丈夫でしょう」
「どっちかといえば、公爵兵の方が盗賊っぽいですしね」
「そりゃ確かに」
とまあ、こんな話をしながら一行はスバルツポートに無事に到着する。
すでに手配の済んでいた船に乗り、海路をベルスローンへ進む。
あまりにスムーズ過ぎて怖いくらいだ。
スバルツポートやベルスローンが接する“黒の海”。
その名の通り海水がやや黒ずんでいる。
それが光を反射せずに海上を薄暗くしているのだ。
海水にはどうやら黒鉄が含まれているらしく、その色が出ているようだ。
また帝国の調査では、黒色は海中の深い場所に沈んでおり、表層部はそれほど黒くない。
漁獲高も多く、かなり豊かな海として知られている。
「ここらは魚を生で食べます」
「生で!?」
この世界の一般常識として魚は火を通すもの、ということになっている。
ほぼ確実に寄生虫がおり、食べてしまうと激しい腹痛に襲われるためだ。
だから、船の乗組員の言葉にキースは常識がひっくりかえる思いをしている。
「もちろん、新鮮なとれたてをその日のうちに、という条件ですけどね」
「なんというか、最初に食べた人は勇気がありますね」
「まあ、最初に生魚食べたいと言ったのは勇者様らしくて……」
一瞬で、納得した。
異世界からきたらしき勇者は、この世界の常識に縛られない。
それにしても、例の勇者、料理関係の逸話が多すぎないか?
「ジェナンテラ?」
「わ、わらわのことは気にしなくてよいのじゃ……」
よくよく考えるとジェナンテラの父、ジャガーノーンは勇者に倒されている。
その勇者の話題で盛り上がるなど、配慮にかけていたようだ。
「悪い、謝るよ」
「べ、別に良いのじゃ」
「本当に悪いと思ってるって」
「だから、何も気にしておらぬ」
そこで、ジェナンテラは何かに閃いたようだった。
「……ど、どうした?」
「本当に悪いと思うておるのなら、生魚を食べてみよ!」
「!?」
ことわざとして“生魚でも食べてろ”という言葉はある。
しかし、それは腹でも壊してろバカヤロウ、的な意味の言葉だ。
悪口である。
ジェナンテラに言われてキースはちょっとショックだった。
ジェナンテラもキースの様子で自分が悪口を言ったことに気付いた。
「い、いや、違うのじゃキース。そういう意味ではなくてな」
「どういう意味だろうと、生魚くらい食ってやるさ!」
「い、意地をはるでない。嫌なら嫌と言ってよいのじゃぞ?」
「いや、俺は生魚を食べたい気がしてきた。むしろ食べたい」
「ほ、本気なのか?」
「本気だとも!」
というわけで、船上での本日のディナーはキースのみ“黒海産とれたて鯛の刺身、ゴマだれを添えて”になった。
ジェナンテラや他の兵士が見守るなか、キースはフォークで薄く切られた鯛の刺身を一枚かかげる。
たらり、とゴマだれが落ちた。
ゴクリ、と誰かが唾をのむ音を出す。
「いただきます」
キースはここでためらえば食らうことなどできない、とでも言うように一気に口に入れ、咀嚼した。
短いようで長い時間が流れる。
「ど、どうなのじゃ」
ジェナンテラの恐々とした声。
キースは無言で飲み込む。
そして、もう一枚口に入れる。
無言のまま時が過ぎた。
やがてキースの目の前の皿に鯛の刺身は無くなった。
キースは無言のまま、皿をとり給仕に渡す。
そして、口を開いた。
「おかわり」
「はい、少々お待ち下さい」
うやうやしく給仕が出ていくと、キースの顔がにやける。
「うまいじゃないか」
「うまいのか?」
「ああ、とんでもなく旨い。なんというか、魚の生命力がにじみ出てくるというか、とにかく旨かった」
料理に関しての勇者の逸話はとりあえず信用してみることにキースはした。
結局、ジェナンテラも鯛のゴマだれを食べた。
そのキースたちの乗る船を遥か遠くから見ている者達がいた。
スバルツポートの近くの高台だ。
「あれが今度の獲物。ベリティス公爵の後継者だ」
精悍な二十代後半の男が言った。
錆色の髪は長く伸ばされ、紐で結ばれている。
顔には手入れされた髭が生えている。
何かわからない動物の皮で作られた鎧は実践的なものを感じさせる。
その顔には獰猛な笑みが浮かぶ。
人の形をした肉食獣、あるいは獣人といわれても何も違和感がない。
その男の後ろにずらりと並ぶ、同じ革鎧の男達。
おおよそ、二十人はいるだろうか。
みな、不敵な笑みを浮かべている。
「いいんですか、親分」
親分と呼ばれた精悍な男は下に目をやる。
髪の無い小太りの男が船を見ている。
同じ革鎧を着ているから、彼らの仲間なのは間違いない。
「なにがだ? ゲイロン」
ゲイロンと呼ばれた小太りの男は、上を見る。
親分の男と目が合う。
その視線はまるで猛禽だった。
普通のものなら怯んでしまうほどの強い視線。
しかし、ゲイロンは特に怯えたそぶりもなく答えた。
「ベリティス公爵といったら帝国内でも有数の勢力じゃないですか? そんなのの後継者を殺しちゃったら……」
「後継者だからいいんだよ」
「はい?」
「後継者をたてるということはベリティスはもうくたばる寸前だということだ。ということは後継者をぶっ殺しちまえば、ベリティス公爵領は好きにできるということだろ?」
「なるほどさすが親分。でもなんで帰り道なんです?」
今ぶっ殺してもおんなじでしょ? とゲイロンは言った。
「いいや、帰り道はな油断しているんだ。行きは良かったから帰りも大丈夫だとな。その緩みを突けば難なく討ち取れるさ」
「さっすが親分」
「いいから、このゼールに任せとけ。お前らに暴力と暴飲暴食を楽しませてやるからよ」
精悍な男ゼールは獰猛な笑みのまま、海上の船を見ていた。
キースたちはまだ、その視線に気づいていない。
次回!ついに皇帝と謁見!そしてキースに驚愕の展開が!
明日更新予定です。