バーテンダーの心配事
谷岡さんにプロポーズして以来ぱたりと店に来なくなったたーくんが、久しぶりに店に来たのは、クリスマス仕様に店を模様替えしてすぐのことだった。
カウンターに腰かけたたーくんは、しばらく一人で飲んだ後、藤岡さんに、「明日予約がしたい」と言い、予約をして去って行った。
予約がしたかっただけなら、予約専用電話にかけたらよかったのに、と、何となく思いながら、私は自分の仕事をしていた。
仕事を終えると、出口のところで、雅之君が立っていた。
「水口様、明日プロポーズの返事を聞く予定でしょうか?」
「そう……なんだと思う」
「簡単にあなた方の思い通りになるなんて、思わないでくださいね」
そう言って、雅之君は去って行った。
一括りにされるほど、たーくんには加担していない、と、心の中で呟いて、私も帰路についた。
翌日私は父の検査結果を聞きに病院に来ていた。
帰り道、私は駅に向かいながら考えていた。
雅之君は、確か、今日、休みのはずだ。
それでも、簡単にあなた方の思い通りになると思うな、といったようなことを言っていたから、何か策を講じているのかもしれない。
考えながら歩いていた私は、うっかり、駅を通り過ぎてしまっていた。
そして、顔をあげると、目の前のカフェで、雅之君と谷岡さんが座っていた。
谷岡さんの肩には、雅之君のものらしいジャケットがかかっている。
二人の間には、何故だか物々しい空気が流れていた。
どんより重たい空気の中で、雅之君が口を開いた。
「ねえ、教えてください。何で、翠さんは、兄貴が好きなはずなのに、水口さんと結婚するんですか?」
なんかすっごく核心をつく質問をしている最中だった!
私は思わず踵を返した。
あれ?ちょっと待って?谷岡さんは、雅之君のお兄ちゃん、つまり、笹岡さんが好きってこと?
雅之君は、谷岡さんのことが好きだと思ってたのに、私の勘違いか、フラれたってことなのだろうか?
私がいろいろなことを考えているうちに、谷岡さんが沈黙を破った。
「お母さんがね、もうすでに水口先輩と結婚するものだと思い込んでてね、がっかりさせたくないなって思って……大切なお母さんなんだ。お父さんが早くに亡くなってから女手一人で私を育ててくれたから。楽させてあげたいし、安心させてあげたい」
少しだけ足を止めていた私は歩きだした。
たーくんの作戦は大成功のようだ。
それでもなぜか心にわだかまりが残った。
私は、笹岡さんといるときの谷岡さんの穏やかな笑顔を思い出していた。
本当に、心を許さなければあんなふうに笑うことはできない。
それでも、谷岡さんは、お母さんのために、たーくんのプロポーズを受けようとしている。
それは、本当に谷岡さんにとって幸せな判断なのだろうか?
開店の少し前に、カウンターに立つと、たーくんはすでに、入り口の前で待っていた。
今日は雅之君は休みだと知れ渡っているのか、女性客はさほど並んでいなかった。
たーくんは、店に入ると、プロポーズした時と同じカップルシートに腰かけた。
そして、思わせぶりに、指輪のケースを取り出して傍らに置いた。
ちょうどその時、私の前に一人の女性客が腰かけた。
女性らしいこぎれいな格好をしたその女性は、きょろきょろと周りを見渡してから、私のほうに向きなおって、言い放った。
「オレンジジュースください」
ここへきて、バーテンダーの目の前に座って、オレンジジュースですか?
すきっ腹にお酒を飲むと、酔っぱらってしまうから、あえて最初の一杯をノンアルコールにしているのかもしれない、と、考えながら、私は、グラスにオレンジジュースを注ぐと目の前の女性客に差し出した。
女性は、両手でグラスを持つと、半分ほどを飲み、「ぷはぁ」と、言ってグラスを置き、再び店内を見渡した。
ちょうどその頃、谷岡さんが、店に現れた。
「お待たせしました」
「いや、全然、そのコート、寒くなかった?」
「寒かったです」
そのやり取りの間に、目の前の女性客は、オレンジジュースを飲み干し、「おかわり」と言って、グラスをカウンターに置いた。
お、おかわり?
次こそはお酒じゃなくて?
そうは思ったものの、私は注文通りオレンジジュースを用意して差し出した。
私はちらりと目の前の女性客の様子をうかがった。
目の前の女性客は、何か言いしれないアンバランスさを感じさせられた。
どことなく、見た目と印象が違う。
見た目は普通の大人の女性なのだが、どうも言動が幼いのだ。
それにしても、この女性は、何故この店に来たのだろう?
悪いおじさんとかにつかまったら、大変なことになってしまいそうだ。
雅之君がいれば、何かとスマートに対応して上手に帰らせてくれそうだが、今日に限って雅之君はいない。
それか、たーくんだったら上手に悪いおじさんが近づかないようにしてくれるかもしれない。
って、たーくんはプロポーズの最中だった!
ふと思い立ってたーくんの方を見たとき、ちょうどたーくんは、谷岡さんの手に指輪をはめているところだった。
ということは、雅之君も、たーくんも頼れない。
だからと言って、私がこのお客さんにばかりかかりきりになってしまうわけにもいかない。
だ、誰か、私の目の前の女性客の保護者が来てくれないだろうか?
その時、バーの扉がけたたましく開く音がした。




