バーテンダーとイケメン様
起きてまず最初に思ったこと。
昨日、谷岡さんを見かけたことは、忘れよう。
覚えていても、たーくんに話しても、過ぎ去ってしまったことではどうしようもないのだ。
今さら谷岡さんが襲われる前に時を戻すことなんてできない。
たーくんに話したところで凹ませるだけだ。
私は昨日何も見ていない、何も聞いていない。
そう自分に言い聞かせて、家を出た。
その決意が、脆くも崩れ去りそうになったのは、店に着いた時だった。
店に入った途端、店長が今までにないくらいの満面の笑みで、誰かと話していた。
そして、私に気付くと、これまた満面の笑みで私に手招きをした。
「今日からホールで働いてくれる笹岡雅之君だ」
その名前を聞いて、その顔を見て、私は一瞬ぎょっとした。
彼はまさしく、谷岡さんをピンチから救ったイケメンヒーロー様だった。
店長の話では、今日面接にやってきた雅之君を一目で気に入って、即採用したらしい。
「こっちは、バーテンダーのミタちゃん」
店長が、相変わらず私の苗字を間違えて呼んだが、私は気にしないでおいた。
雅之君はキョトンとした顔で私を見ている。
「サンダさん、じゃないんですか?昨日そう呼ばれてましたよね?」
「サンダです」
何とかそう答えた私の隣で、店長が「今まで間違えて呼んでたのか!」と、一人うろたえていたが、すぐに気を取り直して、「二人って知り合いなの?」と聞いてきた。
「昨日、カフェでたまたま見かけただけです」
そう答えた雅之君は、僕、人の顔と名前ってすぐ覚えちゃうんですよ、と、付け足した。
爽やかにほほ笑むイケメンを見ながら、それは、すぐ覚えちゃうとかいうレベルではないと私は感じていた。
私が名前を呼ばれたのは、店内に入るときだけだったし、最初に座ろうとして谷岡さんにぶつかりそうになった時以外は、ほとんど雅之君に背を向けて座っていたというのに覚えているとは……。
雅之君のほうを見ると不意に目が合い、意味深な微笑みを浮かべられた。
この様子だと、私に雅之君たちの会話が筒抜けだったことはバレてるんだろうな。
大丈夫、誰にも言わないから。
「あ、店長、時間!」
不意に視線を外して時計を見た私は慌てて言った。
開店時間が迫っていた。
雅之君が採用されてから一週間近く経った。
初日から即戦力として働いてくれた雅之君は、瞬く間にイケメンウェイターがいると評判になったらしく、数日の間に女性客がどっと増えた。
今日にいたっては、開店時間前から列をなしているほどだった。
その列に紛れて、見たことのある人物が少し気まずそうに並んでいた。
たーくんだ。
「ここって、こんなに人気だったか?」
カウンターに座るなり、たーくんが驚いたように言った。
「イケメンが……人気」
私は、他のお客さんに聞こえないように小さな声で言った。
「まあ、俺には関係ないけどな」
ちらりと雅之君を振り返ったたーくんは、ぼそっと呟くと渋い顔をしてこちらに向き直った。
今日は何故だかいっそうキラキラしている雅之君と、渋い顔をして考え込んでいるたーくんはとても対照的に見えた。
たーくんは、考え込んだまましばらく一人で飲んでいた。
いつもだったら、独り言のように私に話しかけてばかりいるというのに、何だか様子がおかしい。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
開店と同時に入ってきた女性客たちが帰り始めた。
雅之君が、入り口の扉のところで見送っている。
ちょうどそのころ、夜景がきれいなカップルシートに座っていた男女が席を立った。
通り過ぎた二人の嬉しそうな横顔を、たーくんは振り返って見た後、私に向き直った。
が、すぐに、たーくんは、藤岡さんに向き直って、「あちらの席に移ってもいいですか?」と聞き、移動していった。
やはり、たーくんの様子が可笑しいとは思っていたが、入り口に現れた谷岡さんを見て、私は確信した。
たーくんは、今日、プロポーズしようとしている。
少し店内を見渡した谷岡さんは、たーくんの姿を確認すると、カップルシートのほうへと向かって行った。
その後ろ姿を、雅之君が驚いた表情で見ていた。
そうか、雅之君も、谷岡さんのことが……。
「お待たせしました」
カップルシートは、カウンターからさほど離れておらず、谷岡さんのよく通る声は、しっかり聞こえた。
「いや、そんなに待ってないよ」
開店時間から待ち続けていたたーくんは、涼しい顔をして言った。
たーくんは、なぜか、押し黙っていたが、飲み物が来ると同時にまた話し始めた。
「谷岡、この前、病院の近くで襲われただろう?」
なんで、たーくんが、それを?
谷岡さんも驚いている様子だった。
たまたま、二人の後ろを通りかかった雅之君が、驚いた様子でたーくんを振り返った。
「僕、警察に知り合いがいるから」
「え?でも、守秘義務が……」
「仕事でかかわっていて、たまたま名前を見つけたんだ」
私は話していないし、本当に、たまたま見つけたのだろう。
だが、それを助けたのが、今、たーくんの後ろにいる雅之君だというところまでは調べていなかったようだ。
「それでね、谷岡は、一人でほっといたらあまりに危なっかしいから、僕と結婚してはどうかと思うんだ」
一気に本題に行った!
たーくんの後ろでにこやかに注文を取っていた雅之君のこめかみが少しピクリと動いた。
「忙しく仕事をしなくたって、僕が養ってあげるし、家事ができなければお手伝いさんを雇えばいい」
当然のことながら、谷岡さんは、きょとんとしている。
「谷岡を助けてくれた青年では、あまりにも若すぎるし、経済力もないから、ここまではできないだろう?」
そう言ったたーくんの真後ろで、笑顔でお客さんに応対している雅之君のこめかみがまたピクリと動いた。
どうやら、雅之君のこめかみピクリは怒った時に発動するようだ。
谷岡さんが何か言いだす前に、たーくんは「考えておいてくれるだけでいい」と、あたかも余裕があるそぶりを見せた。
だが、私は知っている。
たーくんは、すでに、谷岡さんのお母さんに結婚の承諾をもらっていることを。
もはや、考えるだけでいいなんて思えないくらいに、谷岡さんを追い詰めていることを。
だから、谷岡さんに断る隙を与えずに、返事を先延ばしにしたんだ。
谷岡さんと一緒に、たーくんは帰って行った。
それからほどなくして閉店時間が訪れた。
片づけをして店内を見渡すと、スタッフはすでに私しか残っていないようだった。
控室に入った私は、何者かに手を掴まれて、壁際に追い詰められた。
顔をあげてみると、そこにいたのは雅之君だった。
「あの男に、事件の事話したんですか?」
努めて柔らかい口調で話そうとしているようだが、その視線は鋭い。
私は、首を横に振った。
事実だし、それ以上、どうしようもない。
しばらく私を見つめたままでいた雅之君は、私の手を放してくすりと笑った。
「まあ、事実がどうであれ、翠さんは、水口様のプロポーズは受けないと思いますよ」
「え?」
とっさに反応してしまい、しまったと思ったが、時すでに遅し、私は再び壁に押しやられた。
「何か、知ってるんですか?怪しいと思ったんですよね」
射抜くような視線で私を見ながら、断る隙を与えずに返事を先延ばしにしたあたり、特に怪しいんですよ、と、雅之君は付け足した。
「三田さん、何か、知ってるんでしょう?」
知っているけれど、ここで話してしまうと、私は、軽々しく人の秘密を話す人間だと思われてしまいそうで、押し黙っていると、雅之君は、ふう、とため息をついて、壁から手を放した。
「三田さんが、水口様側の人間であることは、よくわかりました」
翠さんに直接確認するから、もういいです、と、雅之君は冷たく言い放って、その場を後にした。
どうやら、私の言動は、別の意味での誤解を招いたようだった。




