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「あら、アダルヘルム様」
「これはいったい何事だ?」
目の前の惨状を見て、怪訝な顔をするアダルヘルム。割れた陶器の破片が散らばり、地面にへたり込む使用人たちは涙ぐみ、一人は水を被ってずぶ濡れ……彼は確実に私を疑っている、そう思った。
「見ての通り、無礼を働いた使用人を教育しているんです」
アダルヘルムの表情が強ばる。騒ぎを聞きつけ、遅れてやってきたサミエルも、この惨状に冷静な顔を崩した。
「ナサリー様……まさか、彼女たちが何か粗相をいたしましたか……?」
「そこの彼女が私のドレスに淹れたての紅茶をこぼしたの。だから厳しく咎めていたのよ」
「紅茶を……?」
サミエルに答えたはずなのに、私の言葉を小さく繰り返したアダルヘルムは、唐突に駆け出すと私の腕を掴んだ。
「どこにかかった!?」
「なっ、なにを突然――」
「火傷は……怪我は負っていないか!?」
彼は必死な様相で私のドレスを確認すると、裾にかかった紅茶のシミに気がついた。
「ここか!!」
「ちょっと――!!」
すぐさま膝をついた彼は、ドレスを捲り私の足を隅々まで見る。酷く取り乱した様子に、私だけでなくサミエルや使用人たちも驚いていた。
「怪我は……ないようだな」
よかった……と消え入りそうな声で呟いた彼は、唖然とする私と目が合って、我に返ったようだ。
「すまない……君が怪我をしたのではと思ったら、いてもたってもいられず……」
赤くなった顔を隠そうとして、大きな手で顔を覆うアダルヘルム。私は、想像もしていなかった彼の反応に思わず動揺してしまう。
何を今更、心配するような態度なんてとるのか。何度も私を苦しめておいて、怪我や火傷のひとつに慌てふためく理由はないはずだろう。怪訝な思いは苛立ちとなり、彼への怒りを増幅させた。
「そんなことより、何か言うことはないのですか」
スカートにかかったアダルヘルムの手を払い、冷淡に告げる。彼は思い出したように使用人の惨状を再確認すると、立ち上がり私と目を合わせた。
「……使用人に水をかけたのは君か?」
「ええ、そうです」
やっと肝心なことに触れてくれた、と微笑みを浮かべる。彼はいつもの様子に戻ったかと思うと、眉間に皺を寄せた。
「……そうか」
少し残念そうに零したアダルヘルムは、水のかかった使用人に歩み寄る。怯えた彼女が体を震わせると、彼は静かに告げた。
「……次期公爵夫人である彼女が、危うく怪我を負うところだった。今後は気を付けろ」
「は、はいっ……」
「今日は休め」
端的に告げた彼は、サミエルに拭くものを頼むと、私に向き直す。
「……ナサリー、君もあまり感情的にならないように。ストレス発散がしたいなら、サミエルに言えば用意させる」
「……はい?」
それだけ言って、彼は屋敷に戻っていった。呆然とする私をそのままに。
ひとり座った私は、使用人たちが後片付けをするのを見つめながら考えた。なぜ彼は私を責めないのか、と。
使用人に辛く当たることは、咎められて当然だと思っていた。愚かな女だと呆れ、こんな私との結婚を考え直してくれるのでは、と期待していたのだ。けれど、アダルヘルムは少し苦言を呈するだけだった。
「……あの人、いったい何を考えているの?」
冷たい人かと思えば慌てて心配したり、私の行き過ぎた行動を何一つ責めなかったり……皇女でもなくなった私に求めているものが一体なんなのか、想像もできず苛立った。けれど不機嫌になる心を、息を深く吐いて落ち着かせる。
とはいえ、苦言を呈されただけ進歩だ。懲りずに続けていれば、彼だってきっと悩むときがくる。側仕えの使用人たちには申し訳ないけれど、暫くは私の演技に付き合ってもらおう。
改めて決意を固めた私は、再び側仕えの変更を促してきたサミエルに、微笑みながら拒否の言葉を告げた。
*
あの日から、側仕えの使用人たちは私への態度をあからさまに改めた。公爵家の使用人らしく真面目に振る舞い、嫌悪の視線を向けてくることもなくなった。しかし代わりに、子猫のように怯えた目で私の機嫌を窺うようになった。
特に水をかけられた使用人はそれが酷く、私に恐怖しているのが見てとれた。可哀想にも感じたが、アダルヘルムに呆れられるため、彼女の恐怖すら利用するしかなかった。
少しのミスで物を投げたり、食事が不味いとぶちまけたり、我儘な性悪女を演じて使用人たちを困らせ、怯えさせた。
それなのに、アダルヘルムは数日間なにも言わなかった。サミエルから報告されているはずなのに、文句ひとつ言ってこない。それどころか、すれ違ったときに「体調は平気か」や「不便はないか」と聞いてくるのだ。意味が分からなくて、いつも不機嫌に無視するくらいしかできないのが悔しかった。
そんな日々も続いた秋の入口、私はアダルヘルムと共に教会の神殿を訪れた。貴族が正式に婚約を結ぶには、互いの身元を神父に証明しなければならない、というヴァンガイム特有の習わしとのこと。結婚となれば、また複雑な儀式が必要らしい。
誓うつもりのない愛を神父の前で誓わされ、結びたくなかった婚約が正式に結ばれてしまったことで、私の気分はいつもより悪かった。その帰り道、揺れの激しい馬車の中で、アダルヘルムは話を切り出してきた。
「七日後の王家主催パーティーは、君にも参列してほしいと思っている」
「……王家主催パーティー、ですか?」
聞き返すと、彼は堅い表情のまま頷く。
「随分前に招待があったんだが、君の心のことを考えて返事を先延ばしにしていたんだ」
「…………」
まさかの言葉に唖然とする。唯一の恋しい人、カイザックをその手で無惨に殺めておきながら、私の心を気にしているだなんて、馬鹿げている。
「妙なことを言わないでください……私から全てを奪ったくせに」
「君の悲しみは理解している。俺を愛してほしいと言うつもりもない。だが、婚約者としての務めはできる限り果たしてほしいと思っている」
「務め、ですか」
随分と勝手な人ですね、と嫌味を呟くと、彼はまた寂しげな表情を見せた。しかし、すぐにいつもの無表情へと切り替える。
「無理にとは言わないが……俺たちの婚約祝いも含まれているから、できるようなら参列してほしい」
気持ちを理解するフリをして、都合よく婚約者として利用しようとする彼に、私の胸はムカムカとしていた。けれど、様々な貴族の集う格式高い王家主催のパーティーは、私が悪女であることを見せつける絶好の舞台であった。
「もちろん、貴方の婚約者として参列しますわ」
断る理由など、微塵もない。




