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第91話 値札の温度

朝の広場はまだ湿っていた。


夜の露が石畳に残り、踏みしめるたびに靴の裏が少し滑る。荷馬車が止まり、袋が降ろされる。麻袋の口をほどくと、麦が音を立ててこぼれた。


乾いた、やわらかな音。


豊作だった。


粒は揃っている。色も悪くない。手に取れば、重さもある。


ヴァルゴはその粒を指で転がした。


「悪くない」


向かいに立つハウルドは帳簿を開いている。


「悪くない、では足りない」


「足りないのは何」


「王都の在庫が多い」


ヴァルゴの眉がわずかに動く。


「ここは王都じゃない」


「市場は繋がっている」


ハウルドは静かに答えた。


エメリクは少し離れた位置から、そのやり取りを見ている。


机の上には秤が置かれている。錘を載せるたび、針が細かく揺れた。


「価格は」


エメリクが聞く。


ハウルドは数字を告げた。


昨年より一割低い。


周囲がざわつく。


ヴァルゴは袋を押さえた。


「種代は上がった。水は減った。肥も増やした。それで下げるの」


「量が多い」


「多ければ安くするのか」


「そういうものだ」


ハウルドの声は落ち着いている。


エメリクは麦を拾い、指で砕いた。白い粉が指先に残る。


「今年の子どもの身体だ」


誰も返さない。


広場の端で、子どもが落ちた麦を拾っている。母親がそれを袋に戻す。


一粒も無駄にできない。


ハウルドが言う。


「売らなければ腐る」


ヴァルゴが答える。


「売れば痩せる」


短い沈黙。


エメリクが机に近づいた。


「ここで決まるのは値段だけか」


ハウルドは目を上げる。


「何が言いたい」


「来年の作付けも決まる」


広場の空気が重くなる。


「価格が低ければ、麦は減る。減れば足りなくなる。足りなくなれば、別の作物に変える」


「市場の調整だ」


「調整で済むか」


ハウルドは帳簿を閉じる。


「あなたは価格に感情を混ぜる」


「混ぜない。数字の先を見る」


ヴァルゴが言う。


「価格は土を変える」


ハウルドは肩をすくめる。


「土は関係ない。ここは市場だ」


エメリクは机の傷をなぞる。


「市場は売る場所じゃない」


「では」


「分ける場所だ」


秤の針が止まる。


麦袋は引き渡された。


一割低い値で。


誰も机を叩かない。


怒鳴らない。


それが市場だ。


エアリスが横に立っていた。いつの間にか炭筆を走らせている。


「値札の温度って、冷たいですね」


「冷たい方が均一に見える」


エメリクは答える。


「でも冷たいと、痩せる」


広場に鐘が鳴る。


市場は動き続ける。


だが机の上で決まった一割は、土を削り、子どもの身体を削り、未来を削る。


エメリクは広場を見渡す。


「棚を見る」


エアリスが顔を上げる。


「棚?」


「値札の次は棚だ」


広場の奥、木造の店が並んでいる。


そこに立つ旗が風に揺れた。


市場は終わらない。


だが、値札の裏側が見え始めていた。

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