第53話 血の仕事、泥の仕事
(回廊の奥で、金属が触れ合う乾いた音)
(布を裂く音)
(湯が沸く音が、途切れず続く)
癒院の裏手は、祈りの匂いが薄い。
代わりに、鉄と汗と、濡れた布の匂いがする。
エメリクが扉を押すと、熱が顔に当たった。
火鉢の火ではない。人の熱だ。
誰かの痛みが、空気を温めている。
「そっち、机を寄せて。あと、水——沸かしたやつ! 冷たいのじゃない!」
声が飛ぶ。
切れ味があるのに、怒鳴っていない。
ただ、間に合うように言っている声。
奥で、男が呻いた。
呻きは長く続かず、歯を噛む音に変わった。
耐えている。耐えなければ、ここでは損をする、と知っている。
「縫える者がいない、って聞いたが」
エメリクが言うと、声の主が振り向いた。
背は高くない。だが、姿勢が揺れない。
袖を肘まで捲っていて、指先が赤い。血の赤ではない。湯と擦れで赤い。
「縫える者はいるよ。足りないだけ」
言い方が淡々としている。
“足りない”を嘆く声ではなく、“足りないなら手を増やす”声だ。
「あなたが縫うのか」
「縫うのは外科の係。私は渡す係」
女は布を畳み直しながら言った。
「針」
「糸」
「消えた布」
「足りない指」
言葉が短い。説明がない。
だが、目の前の動きが全部説明になっている。
エメリクは、処置台を見た。
若い男が横たわり、太腿に深い裂傷がある。
裂けた布の奥に、肉が覗く。
血は止まりかけているが、油断するとまた出る。
処置台の脇に、細い刃物と針が並んでいる。
刃物の柄が擦れている。手に馴染ませてきた道具だ。
「外科の者は、どこだ」
「そこ」
女が顎で指した先に、髭の濃い男がいた。
額に汗を浮かべ、刃物を握っているのに、手が少し遅い。
「ここは王立の癒院だろ。どうして外科がこんなに少ない」
エメリクの問いに、髭の男が答える前に、女が答えた。
「血は穢れる、って言われるから」
言い切る声だった。
怒りの熱はない。事実として受け取っている声だ。
「穢れが嫌なら、傷は勝手に閉じるのか」
エメリクが言うと、女は一瞬だけ口角を上げた。
「閉じない。だから閉じる人が必要」
その言い方が、妙に胸に残った。
理想の言葉じゃない。
ただ、閉じないから閉じる。
それだけで動いている。
「あなたは誰だ」
女は、布を渡しながら言った。
「カペラ。ここではそう呼ばれてる」
名乗り方が軽い。
だが軽いからこそ、ここで長く生き残る人の名乗り方だった。
「癒術師か」
「癒術師じゃない。癒術師は上の階。祈りの部屋」
カペラは顎を上に向けた。
上の階の空気は、ここより少し澄んでいる。
澄んでいるのは、血がないからだ。
「私は下。床の階」
床の階。
その言い方で、全部わかった。
(床を拭く、濡れ布の音)
(誰かが吐き気を堪える音)
若い薬師が、壁際で顔を青くしている。
配る手だ。
血を見て、息が浅くなる。
「そこ、瓶の匂い袋。嗅がせて。倒れるなら外に出て倒れて」
カペラが言う。冷たくない。優しくもない。
倒れる場所の指定だけが正確だ。
薬師は頷き、匂い袋を鼻に当てた。
少しだけ呼吸が戻る。
「これが現場か」
エメリクが呟くと、カペラは針を受け取りながら言った。
「現場は、いつも遅れてくる。偉い人の話より先に」
髭の外科係が言った。
「糸を。……細いの、あるか」
カペラが布袋を探り、首を振る。
「細いのは昨日で尽きた。太いので我慢して」
「太いと跡が——」
「跡は残っていい。死ぬよりいい」
髭の男は黙り、針を通した。
“跡が残る”を嫌うのは、上の階の感覚だ。
下の階は、まず止めて、まず閉じる。
エメリクは、処置台の横に立った。
「列を二つに分けた」
カペラの目が動く。耳は動かない。
聞いているのに、手は止まらない。
「聞いた。朝から混んでた」
「加護の札を後回しにした」
「それも聞いた」
「どう思う」
カペラは、糸を切りながら言った。
「遅いと思う」
「遅い?」
「今まで、ずっと遅かった」
言い方が淡々としている。
責めているわけじゃない。
“遅い”は、“もっと早くやれた”という事実だ。
「札の順が変わると、騒ぐのは上だ」
カペラは顎を上げた。祈りの部屋の方向。
さらにその上、大聖堂の方向。
「騒ぐのは上。困るのは下。死ぬのはここ」
そして、軽く息を吐いた。
「でも、今日、死ななかった。ひとり」
その言葉が、帳簿より重かった。
(扉が叩かれる音)
(息を切らした足音)
若い書記が顔を出した。
顔が白い。紙の白さだ。
「村長……いえ、エメリク様。王都から——」
書記は言い直した。
村長と言うと、公の責任が前に出る。
エメリクと言うと、個の責任が前に出る。
呼び名ひとつで、首が締まる。
「何が来た」
「監査の予告です。癒院の運用について、来月、視察が——」
部屋の空気が、一段冷えた。
冷えたのは水ではない。
“来月”という言葉の刃だ。
カペラが、血のついた布をまとめながら言った。
「来月まで、誰が生きてるんだろうね」
皮肉ではなかった。
数字でもない。
ただの現場の計算だった。
エメリクは書記から紙を受け取った。
封蝋が押されている。
王都の印。
そして、その横に、見慣れない小さな印。
「……癒殿の印がある」
書記が震える声で言う。
「共同の視察、のようです」
カペラは鼻で笑った。笑いというより、息だ。
「共同。便利な言葉」
「何が便利だ」
エメリクが聞くと、カペラは布を絞り、床を拭きながら言った。
「責任が半分になる」
床に赤い筋が伸びる。
拭くと薄くなる。
薄くなるが、消えない。
消えないものを、消えたことにするのが“共同”だ。
「視察が来るなら、ここも見せるのか」
エメリクが周りを見回す。
破れた布、欠けた器、使い回しの針。
足りないものが、足りない顔で並んでいる。
「見せないよ」
カペラが言い切った。
「上は、上だけを見せる」
「なら、どうする」
カペラは拭く手を止めずに言った。
「見せたいなら、動かすしかない」
「何を」
「人」
カペラは、壁際の薬師を見た。
薬師はまだ匂い袋を握っている。
「配る手を、採る手へ。採る手を、縫う手へ。縫う手を、教える手へ」
エメリクが眉を動かす。
「教える?」
「縫える人を増やすには、縫い方を教えるしかない」
当たり前のことを、当たり前の速度で言う。
それが、現場の言葉だ。
「でも、縫い方を教えたら、外科の“取り分”が減るって言われる」
カペラは肩をすくめた。
取り分。
そこに利がある。
利があるから守る。
守るから人が死ぬ。
言葉にしなくても、筋が見えた。
エメリクは、処置台の男を見た。
男は意識が戻り、天井を見ている。
祈っていない。
祈る余裕がない。
ただ、息をしている。
「あなたは、外科の身分が低いのをどう思う」
エメリクが聞くと、カペラは少しだけ目を細めた。
「慣れてる」
「慣れで済ませるのか」
「慣れで済ませないと、手が止まる」
それは、負けの言葉じゃない。
現場で勝つための言葉だ。
「でもね」
カペラは布を絞り直した。水が落ちる音。
「慣れてるからって、好きなわけじゃない」
その一言だけ、熱があった。
「好きじゃないなら、変えたい」
「変えたい。でも、ここだけじゃ変わらない」
カペラは顔を上げた。
その目が、エメリクを測った。
測って、値踏みしている目ではない。
“信じていいのか”を測っている目だ。
「あなたは、上と喧嘩したんだろ」
「した」
「勝てる?」
エメリクは即答しなかった。
勝てる、と言えば軽い。
勝てない、と言えば終わる。
代わりに、こう言った。
「勝つための手順は作れる」
カペラが、少しだけ頷く。
「手順、ね。いい言葉」
そして、床の端に置かれた水瓶を見た。
厚い陶器。取っ手が大きい。
誰の器でもない器。
「その器、置く場所が悪い」
「なぜだ」
カペラは、素足のまま器に近づき、指で縁を軽く叩いた。
コツン、と低い音。
「ここは足が当たる。夜に誰かが蹴る。割れる」
「割れたら困る」
「困るなら、守る。守りたいなら、場所を変える」
カペラは器を持ち上げた。
見た目より重い。
だが、持ち上げ方が慣れている。腰が揺れない。
器を、壁際の棚の下に置く。
誰も蹴らない場所。
しかし誰でも手が届く場所。
「こう」
エメリクは、その動きを見て思った。
改革というのは、演説じゃない。
置く場所を変えることだ。
割れる道を外すことだ。
書記が、恐る恐る言った。
「……監査が来るなら、帳簿も」
エメリクは頷いた。
「帳簿は見せる。隠さない」
書記の喉が鳴る。
「それは……危険です」
カペラが、ふっと息を吐いた。
「危険なのは、いつも下だけどね」
エメリクはカペラを見た。
カペラは視線を返した。
逃げない目だった。
現場の目だ。
「カペラ。協力してほしい」
カペラはすぐには頷かない。
頷く代わりに、条件を言った。
「私の条件はひとつ」
「何だ」
「言葉だけで終わらせないこと」
エメリクは短く答えた。
「終わらせない」
カペラはそれを聞き、初めて口角を上げた。
今度は息じゃない。
小さな笑いだった。
(外で鐘が鳴る。祈りの鐘ではない。合図の鐘)
(担架が運ばれてくる音)
「来たよ」
カペラが言った。
「次。縫える人、増やすなら、今から」
エメリクは袖を捲った。
書記が目を見開く。
「エメリク様、帳面が——」
「帳面は後」
エメリクは言った。
「まず、生きる方」
下の階は、今日も熱い。
祈りの部屋は、今日も澄んでいる。
その差が、帳簿に映らないなら、
映るようにするしかない。
そしてその最初の一歩が、
“血の仕事”に手を伸ばすことだった。




