第26話 村の夕餉、疲れた火
(鍋がことこと鳴る音)(外では牛の鈴がかすかに鳴る)
「……今日はここまでにしようかね」
年季の入った女の声と一緒に、パンをこねる手が止まった。
エメリクは、卓の隅に置かれた小さな箱を見つめる。
箱の中には、銅貨が少しと、銀貨が一枚。
「これで、市の一日の売り上げ、全部?」
炉の火に赤く照らされた顔で、パン屋の女主人が苦笑いする。
「“全部”って言われると、恥ずかしいねえ。
粉代と薪代を引いたら、残るのは……」
(指で硬貨をはじく音)
「これだけさ。あんたに見せるほどのもんでもないよ」
エメリクは、その銀貨と銅貨を指でそっと動かす。
「箱、もうひとつあったよな」
「……ああ、あっちは“いつもの分”」
女主人は、炉のそばにある古い木箱を顎で示した。
「村の客が、普段買ってくれるパン代さ。
市がある日は、こっちが減る。
市に出す分で手一杯で、普段の分を焼けなくなるからね」
エメリクは息を呑む。
「つまり、市の日は――」
「普段の暮らしのお金を食いつぶしてるってことさ」
女主人は肩をすくめて笑う。
「王都の人らは知らんのだろうけどね。
“賑わいがあって結構”で終わりだろうさ」
(ストーブの火がパチ、とはぜる)
エメリクは、膝の上の簡単な帳面に数字を書きつけた。
「粉代、薪代、市の売り上げ、普段の売り上げ……
全部合わせると、今日一日で“増えた”分はいくらだ?」
「増えた?」
女主人は、ひび割れた指で額をぽんと叩いた。
「増えたなんぞ考えたこともないよ。
減ってないなら、まあ良しってとこさ」
「減ってないか?」
問い返すと、女主人は少し黙ってから、首を傾げた。
「正直に言うとね。
こうやって夜までこねて、朝も早く起きて窯に火を入れて……
この箱ん中が、いつもの二日分もないとしたらさ」
「うん」
「“減ってる”って言ってもいいのかもしれないね」
エメリクは帳面に、静かに「-」を書き足した。
「教会に払った出店料は?」
「銀貨一枚と銅貨二枚」
「ギルドに払った“市の費用”は?」
「銀貨一枚。あれも“村のためだ”って言われたよ」
「じゃあ、今日一日で“村のため”に払った分が、
実はお前の家から抜けてるってことだな」
女主人は、炉の火を見つめた。
炎の揺れを追う目が、少しだけ寂しそうだった。
「エメリク。
あんたがこうして数字を拾いに来るのは、嬉しいよ。
でもね、あたしらが腹を立てるのは、
誰にっていうより、自分に対してなんだよ」
「自分に?」
「“村のためだ”って言葉を信じた自分さ。
信じなきゃ、やってられないからね」
(パン生地を叩く、ぺちんという音)
エメリクは帳面を閉じて立ち上がった。
「ありがとう。
もう少しだけ、他の家も回る」
「無理するんじゃないよ。
あんたまで倒れたら、村長の家が困るだろ」
女主人の笑い声に送られて、エメリクは戸口を出た。
(戸がきしんで閉まる音)(夜風がひゅうと頬をなでる)
外はすっかり暗く、家々の窓から漏れる灯りが、泥の道に淡く落ちている。
どの家からも、鍋の匂いと、人の疲れたため息が流れてくるようだった。
◆
次に訪ねたのは、燻製肉を出している家だった。
(扉を叩く音)
「おう、エメリクか。入れ」
煙でくすんだ声と一緒に、中年の男が迎え入れてくれる。
天井から吊るされた肉の列が、灯りに黒く浮かんでいる。
「市の売り上げは?」
「銀貨三枚。まあまあだ」
男は胸を張って見せた。
「じゃあ、仕入れは?」
「塩に銀貨一枚、香草に銅貨五枚。
火にくべる薪は、山ぁ自分で行ったから金は出ちゃいない」
「山に行った日は、畑は?」
「……まあ、見ちゃいないな」
男は耳の後ろをかいた。
「市があるから、肉の仕込みも早めにやらにゃならん。
畑は、あとでまとめてやる」
「いつ、あとで?」
問いかけると、男は口をつぐんだ。
奥の方から、妻と思しき女が「ねぇ」と声をあげる。
「エメリク、あんたのその帳面さ。
うちの“畑が空いた日”も書いといてくれないかい」
「畑が空いた日?」
「山に行った日、市の準備の日、市の片付けの日。
今年はもう、数えるのもいやになってる。
誰かに“これだけ空いた”って突きつけてほしいよ」
男が苦笑する。
「おいおい、そんなこと言うな」
「言うさね。
畑が空いた分、来年の収穫が減るんだよ。
それを“村のためだ”って笑ってろってのかい?」
エメリクは、女の方を見て深くうなずいた。
「全部、書いておく。
“銀貨”だけじゃなく、“空いた畑の日”も」
女はほっと息をついたようだった。
「なら、少しは救われるよ。
あたしらが馬鹿にされっぱなしじゃないって思えるからね」
◆
(ページをめくる音)
その夜、エメリクは家に戻る前に、集会小屋の片隅に一人で腰を下ろした。
卓の上には、パン屋、肉屋、香草の女たち、鍛冶屋、織り手――
あらゆる家の数字が並んでいる。
「売り上げ……仕入れ……“村のため”の名目で払った分……」
指でたどるたびに、数字の列が、じわじわと胸に染みてくる。
どの家も、かろうじて赤になっていないか、
何なら、うっすらと赤く染まっている。
一番下の行に、エメリクは新しく項目を書き足した。
「畑が空いた日、山に行った日、寝不足の日」
数字ではないが、これも立派な“支払い”だ。
(ごそ、ごそ、と布の擦れる音)
膝の横で、古い革の帳面が転がり出る。
父のものだ。
エメリクは、灯りを少し近づけて、それを開いた。
「……『市は年に三度までとする』」
かすれた文字が、黄ばんだ紙に残っていた。
『春の市は種と道具のため。
秋の市は収穫のため。
冬の市は備えのため。
それ以上は、村の骨を削る』
声に出して読むと、父の声が耳の奥で重なった気がした。
さらにページをめくる。
『助け金は、いつか止まるものと心得よ。
“上”が気を変えれば、それまでだ。
止まったときに残るのは、
畑と、人と、心ばかり』
エメリクは、しばらく黙って紙を見つめた。
「……兄上は、これを読んでいるのか」
独り言が漏れる。
ヨハンはきっと、この帳面の存在を知っている。
司祭として、村長の家の出だとして、知らないはずがない。
知った上で、なお王都に顔を向けているのなら――
(教会の方角から、かすかに鐘が一つ鳴る)
エメリクは顔を上げた。
「そろそろだな」
帳面を閉じ、腰に差した。
教会の箱。
兄の目。
助け金の重さ。
それら全部を、今夜は真正面から見に行かなければならない。
◆
(石畳を踏む足音)(犬が一声だけ吠える)
夜の村は静かだった。
窓から漏れる灯りは少なく、
疲れ切った家々の火が、小さく揺れている。
ある家の前を通りかかると、
中から子どもの泣き声が聞こえた。
「どうしたの、そんなに泣いて……」
「母ちゃんが起きない……」
その声に、エメリクの足が一瞬止まる。
戸口から覗くと、母親が椅子に座ったまま、
パンをこねる手を止めて眠りこけていた。
「……大丈夫だ。
ただ、疲れてるだけだよ」
エメリクは中に入り、子どもの頭を軽くなでた。
「少し寝かせておけ。
明日の朝になれば、またこね始めるさ。
それが、この村の“母ちゃん”だ」
自分で言いながら、胸が痛くなる。
(そっと戸を閉める音)
教会の鐘が、二つ目を告げた。
エメリクは歩みを速める。
「村のための市、ね」
暗い道の向こうに、教会の尖った屋根がぼんやり浮かぶ。
その中で、兄が箱の前に立っているのだろう。
「村の誰のためか、今夜こそはっきりさせよう」
そうつぶやいて、
彼は冷たい石段を一段ずつ登っていった。




