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第16話 沈黙の帳簿

 夜明け前の帳簿室は、風が一枚ずつ紙をめくっていた。

 窓の外では、まだ鳥も鳴かない。

 墨の匂いと、冷えた鉄の香り。

 エメリクは指先で、父の印の跡をなぞっていた。

 朱が褪せ、もうほとんど見えない。

 帳簿の文字が、まるで墓碑のように並んでいる。


「……お前の仕事は、沈黙を数えることか」


 低い声がした。

 背後の扉に寄りかかり、ヨハンが立っていた。

 朝の光に染まる祭服が、まるで灰の翼のように見える。


「数字は沈黙しない。声より正直だよ」


「だが魂は記されぬ。神は帳簿を持たない」


「神は風のほうにいる。あの壺が割れたのも、風の仕業かもしれない」


 ペン先が震えた。

 インクが滲み、ひとつの文字が黒く膨らんだ。


「父上が、壺の寄進金を別に回していた記録がある」

「……それを、罪だと言うのか」

「いや、祈りだ。けど王国はそうは見ない」


 ヨハンの靴音が近づく。

 木の床がきしむたび、重さが伝わる。


「風のせいにするのはやめろ。お前が書いたその数字が、村を売ることになる」


「数字じゃない。嘘を剥がした跡だよ」


 兄の手が机に落ちた。

 硬い音。

 蝋燭の火が揺れ、二人の影が一瞬重なる。


「父の名を汚すな」


「汚すんじゃない。沈黙を掃除してるだけだ」


 ヨハンは、短く息を吸い込んだ。

 その息の音が、蝋の火をかすかに震わせた。


「お前は、信仰を知らない」


「信仰はある。けど数字の上に隠されたままじゃ、誰も救えない」


 沈黙。

 蝋が落ち、机に丸い跡を作った。


「父上は、風を恐れてたんだよ」


 エメリクの声は、紙よりも薄く震えていた。


「何を言う」


「この村が王国の補助で生き延びたとき、風が止まった。

 そのときから、父上はずっと壺を磨いてた。

 ……あれは信仰じゃない、錆び落としだった」


 ヨハンの拳が、机を叩いた。

 音が木霊して、壺のかけらが微かに鳴った。


「黙れ!」


「もう黙るのはやめた。

 父上が残した風を、止めたくないんだ」


 ヨハンの目が、燃えるように赤くなった。

 その瞳に、蝋燭の火が映る。


「お前が父の風を語るな。

 お前はまだ、壺の重さを知らない」


「知ってるさ。抱えきれないほど重かった。

 だから、風で少しでも軽くしたいんだ」


 机の上の瓶が揺れた。

 中の水が光を跳ね返し、天井に小さな波紋を描く。


 ヨハンは瓶を掴み、蓋を開けた。

 風が一瞬で吹き出す。

 紙が舞い上がり、墨が散った。


「……父上の記録も、お前の風も、ここには残さない」


 ヨハンの声が、風の音に飲まれる。


「残さなくていい。流れるもんだろ、風も水も」


 兄の手が震えた。瓶を閉じることもできず、ただ握りしめる。

 風の中で、瓶が小さく鳴った。

 “ふっ”という音。


 エメリクはペンを置き、紙の束を抱えた。

 足元に散った墨が、まるで星のように広がっている。


「俺は三日で出すよ。王国がどう言おうと、この村の息を残す」


「それで父上が戻るのか」


「戻らなくていい。

 ただ――もう沈黙で誰かが死ぬのは、やめたい」


 ヨハンの手が、瓶の蓋を静かに閉じた。

 その音は、祈りに似ていた。


「……好きにしろ。

 だが三日後、風が止まれば、お前は罪人になる」


「風は止まらない。

 兄上が信じる神と同じで、見えないけど、確かにいる」


 ヨハンは答えなかった。

 ただ蝋の火を見つめていた。

 火が風に怯え、細くなり、最後には静かに消えた。


 その瞬間、帳簿室は真っ暗になった。

 風だけが、書きかけの数字の上を撫でていた。

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