一日目
―――1
今朝は何か妙に懐かしい夢を見た気がする。だけど、その夢がどんな内容だったかは思い出せなかった。
俺は今、人気の無い前の席に座り、藤堂先生の講義をボーっとしながら聴講していた。
広い教室に藤堂先生声が響き渡り、プロジェクターによって前のスクリーンに映し出された画面が次々にスライドしていく。
「……というわけで、これら遺伝子工学は様々な分野で利用され、応用されている。これからもどんどん進歩していく分野だろうね……っともう時間か、それじゃ出席カードを提出してから退出していってね。それと、前期の私の講義はこれで終わりだ。みんなお疲れ様」
ボーっとしている間に講義が終わってしまった。スクリーンに映し出されていた事は一通りノートに写したが、講義の内容はさっぱり頭に入らなかった。
今、二時限目の講義が終わり、時計は十二時を指していた。今日、俺が受講する講義はこれで終わりだ。研究室に戻り、自分の研究を再開したいところだが、腹が減ったので、メシを食いに食堂へ向かう事にした。
俺は北関東科学大学という大学に在籍している。正確には大学院修士課程一年生。文字通り理系の大学である。場所は地方都市である神ノ宮市に在り、市街地から離れた丘の上に建てられている。辺りには民家くらいしかなく、近くに娯楽施設は無い。そのため、学生達は遊びに行くために大学から車で二十分近くかけて遊び場のある市街地まで行かなくてはならない。
この北関東科学大学にはいくつかの学部がある。俺が在籍しているのは理学部生物科学科。この学科を選んだ理由は単純に生物が好きだったからだ……と思う。他にも理由が無い訳じゃないが、まあ、とりあえずそれが一番の理由。
講義が終わった後も今朝見た夢の事を思い出そうとしていたが、そうこうしているうちに学食に着いてしまった。
十二時の学食は学生で入り乱れている。ほかの学生達は何人かのグループを作りダベりながらランチを楽しむ。俺はというと、学食の定食を食堂の端にある席で食っている。ボッチ飯である。別に友達がいない訳ではない。ただ独りで飯を食うのがいいのだ。もう一度言う。別に友達がいない訳ではない。
「隣の席いいかな?」
声をかけられた。俺が顔を上げると目の前には、定食が乗ったトレイを持つ中年の男性が立っていた。オッサンではなく、オジサマという言葉が似合う。そんな人だった。俺のよく知る人。北関東科学大学生物科学科教授藤堂一裕先生である。先程受けていた講義を担当している先生だ。
「どうぞ、俺の隣でよければ」
独りでメシを食うのが好きとはいえ、先生に向かって「ダメです」とは言えない。
藤堂先生は一言「失礼」と言って向かいの席に座った。
「ははは、さすがにお昼になると座る席が無くてね、助かったよ。どうも学生達は隣に教員がいたら嫌がるみたいだからね」
「俺はそうでもないですよ。隣に誰が座ってもあまり気にしないので」
「そうかい? ならいいのだけれど」
藤堂先生は「いただきます」と言うと定食を食べ始めた。
「そういえば、君は独り暮らしだったね。どうだい? 何か困った事や慣れない事はないかい?」
「いや、もう一人暮らし始めて四年ですよ? 大概の事は一人で出来ますよ」
「最近は新しい環境になかなか馴染めない学生が増えているからね。少し心配していたが、要らぬ世話だったね」
心配してもらえるのは正直ありがたいが、俺ってどう思われてるんだ?
その後もムシャムシャと自分のペースで昼食を食べ続ける。すると、また藤堂先生は質問をしてきた。
「前から君に訊きたい事があったんだ。唐突な質問なのだけど、黒野君は将来何をしたい?」
本当に唐突な質問だ。そして、少しだけドキッとした。どこかで訊かれた質問だった気がする。
「どうされたんですか急にそんな事」
「いやなに、学生の意識調査だと思ってくれればいいよ」
「はぁ、そういう事でしたら……。そうですねぇ、取り敢えず無事卒業しないと」
「ははは、それは心配無いだろう。この前も単位の事を君に訊いたけど全然余裕じゃないか。大学院に進学して、研究に真面目だって明神先生も仰っていたよ。さっきの私の講義も余裕を持って受けていたようだしね」
そう言ってゴハンを口に運ぶ藤堂先生。どうやら、ボーっとしてたのバレていたようだ。
「あ、いや、あれはそのー、少し考え事をしていたものでして……、その、ごめんなさい」
「ハハハ、別に謝らなくてもいいよ。」
先生は笑って許してくれた様だ。
「おっと、話がそれてしまったね。まだ、君の答えを訊いていなかった」
「あー、まあ、なれるなれないは別として、第一目標はやっぱり研究者ですかね」
少し気恥ずかしかった。自分の持っている夢や目標を他人に打ち明けるのは、何て言うか、どうも照れくさい。
俺は顔を伏せて喋っていたため、先生の反応はわからない。恐る恐る顔を上げて先生の表情を伺ってみた。するとそこには、さっきまで穏やかなだった表情はなく、真剣な眼差しを向ける藤堂先生の顔があった。
「黒野君も私の講義を受けていれば何度か耳にした事はあるだろう。私が研究者への道を奨めていない事を」
「……はい」
藤堂先生はたまに講義の途中で研究の難しさ、研究者の厳しさを話してくれる。
「私は、なるなとは言わない。ただ、思っているより厳しい道である事をわかってもらいたいんだ。特に今の世代の君達学生にはね」
藤堂先生の話は何度か聴いた事がある。先生の言う通り、厳しく険しい道だ。生半可な覚悟で行けば当然痛い目を見るだろう。だけど……。
「すまないね。君の夢を壊してしまったかな」
「いえ、そんな事はないです。むしろ勉強になりました。それに……」
「それに?」
「多分、どんな道に進んでも厳しいのは変わらないと思いますし」
先生は俺の話を聴くとキョトンとし、そして、フフッと笑みを浮かべた。
「ああ、君の言う通りだ黒野君。楽な道など存在しない。余計なお節介だったかもしれないね。君の人生だ、悔いの残らない道を選びなさい。そして、今君がそのまま研究者になるというのなら私は出来る限り応援しよう」
藤堂先生はそう言うと定食を食べ始めた。
今の先生の言葉は嬉しかった。自分がしようとしている事を応援してくれる人がいる。これ程喜ばしい事はないと思う。
「……しかし、もう十五年になるのか」
突然、藤堂先生がポツリと呟いた。その言葉に、俺の動きがピタリと止まった。
『十五年』、この年月が意味するものは、俺にとって一つしかない。そして、それは藤堂先生にとっても同じ事だった。
「早いな。あっという間に時間が過ぎていく。まるで昨日の事の様だよ」
「ええ」
俺は下を向き、気の抜けた相槌を打った。大変失礼な事だけど、どうしても気分が落ち込んでしまう。
「君のお父さんは本当にすごい人だった。努力を怠らず、いつも最後まで研究室に残って研究をし、どうすれば人の役に立つことが出来るかを常に考えていた。彼こそ本当の天才だ。私の目標だった」
「……その話、もう何度も聴きましたよ」
「ああ、何度だって話したいのさ」
二ッと笑い藤堂先生は答えた。
「今年は仕事の予定が入っていてね、申し訳ないが墓参りには行けないかもしれない」
「……そうですか、残念です」
「だけど、仕事がひと段落ついたら、また君のご実家によらせてもらうよ」
「はい。多分俺はいないと思いますけど、祖父が居ますので、いつでもお越しください」
先生は「ああ」と微笑みながら答えてくれた。
「さて、ごちそうさまでした。この後用事があるので私はこれで失礼するよ」
え? あれ? さっき食べ始めたばっかりじゃなかったっけ? しかし、そんな俺の疑問もどこ吹く風、先生は空になった食器を乗せたトレイを持ち立ち上がった。
「それじゃまた今度。何か困った事があったら、いつでも私のところに来なさい。相談にのるよ。……ああ、そうだ君は……」
「?」
「あ、いや、すまない。何でもない」
先生は何か言いかけたようだったが、特に何も言わず、トレイを食器返却口に返し、食堂を出ていった。
俺も藤堂先生に遅れる事十分、昼飯を完食。食堂を出て俺が所属している生物化学研究室へと向かった。
生物化学研究室があるのは理学部生物科学棟四階。北関東科学大学には他にもいくつかの学科棟が建てられているが、生物科学棟だけは他の学科棟よりも新しい。理由は十五年前に生物科学棟で火災があり、ほぼ全焼したらしい。その後、新しく建てかえられ今に至る。高価な機材や大切な研究データが焼失してしまい先生方は相当落ち込んだようだ。
昼飯を平らげ、気分良く生物科学科棟の前まで来た。そのまま、中に入ろうとした時だった。制服を着た女の子が生物科学科棟の前をウロウロしていた。
「君ここで何してんの? もしかしてキャンパス見学とか?」
いきなり話しかけられてビックリしたのか、制服姿の女の子は素早く振り返り俺を見た。
栗色の髪。片くらいまでの長さに切り揃えられたショートカットに、前髪は髪留めによって留められ、おでこが半分見えている様な髪型だった。この辺では見た事の無い制服を着ている。恐らく高校生だろうか。
「あ、貴方ここの人ですか?」
女の子は俺を見るなり、一歩ズイっと近付いてくると質問を質問で返してきた。
「ああ、そうだけど」
「明神先生って知ってます?」
「知ってるよ。なんたって俺の所属してる研究室のボスだから」
俺がそう答えると、女の子の表情がパーっと明るくなり、さっきよりも一段とテンションを高くして詰め寄ってきた。
「じゃあ、会わせてくれませんか? 私会って訊きたい事があるんです」
女の子は両手を合わせ頭を下げお願いをしてきた。
「いいよ。でも、今日居るかどうかは知らないよ?」
「大丈夫です。ありがとうございまーす」
女の子は生物科学科棟に入る俺について来て一緒に中に入った。
俺はだらだらと階段を上る。エレベーターはあるのだが、今日は点検中との事で使えなかった。
このまま無言で研究室に行くのもなんだし、一応自己紹介をすることにした。
「そうそう、自己紹介がまだだった。俺、黒野恭輔っていうんだ。よろしく」
「黒野?」
「ん? どうかした?」
「え? ああ、何でもないです。えっと、私、不動真菜。マナって呼んで下さい」
マナという少女は、物珍しいのか、生物科学科棟をキョロキョロと色々な所を見ていた。それにしても「不動」か、どっかで聞いた事があるような……。まぁいっか。
「君は……」
「マナって呼んで下さい」
マナは口を尖らせ言った。
「ああ、わかったよ。え~、マナは何でウチの先生に会いに来たの?さっきも訊いたけどキャンパス見学?」
「え~と……、まあ、そんなとこかな」
眼を逸らしながら答えるマナ。
そんな何気ない会話をしながら階段を上っていった。四階に着き、一番端にある研究室のドアを開けた。
「おはようございまーす」
「おっ、黒野か? いいとこに来た。培地大量に作らなくちゃいけないんだ、手伝って」
研究室に入ると奥から女性の声が聞こえてきた。
「いいですけど、その前に先生居ますか? お客さんです」
研究室の奥に行くと薬品棚の前で薬品を計量している背の高い女性がいた。
「え? 先生にお客さん?」
女性は作業を止めると振り返り、こちらに来る。
「先生なら今日もいないよ。全く、ここ一週間以上連絡も無しにどこほっつき歩いてんだか」
奥から現れた女性は桃山素子さん。いつも髪を結いてポニーテールにし化粧っ気がほとんど無い。結構キツイ吊眼で、右目の下に泣き黒子がある。この研究室の博士一年で俺の先輩。
「ん? そのコがお客さん?」
マナに気が付いた素子さんが俺に訊いてきた。
「明神先生に会いに来たんだそうです」
「ごめんねー、たまにあのジイさん黙ってどっか行っちゃうからさ。ああ、自己紹介まだだったね、アタシは桃山素子よろしくね」
「私、桜咲真菜です」
マナも自己紹介をした。なぜだか俺と出会った時と態度が違う気がする。何か堅苦しい感じがする。
「それじゃあ先生は今お留守なんですね?」
「そーゆーことになるねぇ、もしかしたら帰って来るかもしれないから待っててみる?」
「よろしいんですか?」
ウンっと素子さんは頷く。とりあえずマナには休憩室で待ってもらう事にした。
俺は素子さんの手伝いをする事になり、持っていたバッグを自分の机に置いて白衣を羽織る。
「黒野は砂糖と塩を計ってちょうだい。細かい量の薬品はアタシが計るから」
「グルコースと塩化ナトリウムって言えよ」
もう一台ある電子天秤を使ってグルコースと塩化ナトリウムを計量し、ビーカーに入れた。
その後、出来た培養液を三角フラスコに分注し、滅菌する。
「よーし、後はオートクレーブで焼き上げれば完成っと。んじゃ、休憩室で待ってようか」
俺はお茶を淹れるため、電気ケトルに水を入れ、湯呑みと茶葉の用意をした。
「マナちゃんはどこから来たの?」
素子さんがマナに質問する声が聞こえた。
「へ? な、何でですか」
「いや、マナちゃんの着てる制服ってこの辺じゃ見かけないからさ、どっから来たのかなって」
「えと、東京です」
「へぇ~東京かぁ、いいなぁアタシも住みたいなぁ」
「でも、私はここの方がいいです。すごく落ち着くし、良い所だと思います」
「何言っちゃってんの。こんな何も無いトコのどこが良いの?」
「確かに色々と不便ですしね」
俺は淹れたお茶を二人の前に置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
実際、本当に何も無いんだよな。遊びに行くにも駅の在る市街地まで行かなくちゃならないし、市街地からちょっと離れると田んぼしかないし。
「話変わるけどさ、マナちゃんはこの大学来るの初めて?」
「はい。この辺りに来るのも初めてです」
「ふーん。じゃあ、ウチのジ……じゃなかった、先生とは知り合いなの」
「あっ、えーとですね、父のお知り合いなんです。昔、お仕事でお世話になったとかで」
「へー、大学の先生と仕事するなんて、マナちゃんのお父さんは珍しいご職業なのね」
「ええ、まあ、父は会社を経営してるので様々な方と関わりがあるんです」
「おー、マナちゃんのお父さんは社長さんかぁ、すげー」
マナは「そんなこと無いですよ」と謙遜しているが、大学教授と仕事をするくらいだ、小さな会社では無いだろう。もしかしたら会社の名前くらい聞いた事があるかも。
この後も世間話が続いた。大分時間も経ち、オートクレーブに入れていた培地の滅菌も終わっていた。
まだ話し足りなそうな素子さんだったが、自分の研究があるため白衣を纏いしぶしぶ実験に戻る。
俺もこのまま話し込んでいる訳にはいかないので、実験に戻る事をマナに伝えた。
「悪いね、俺も素子さんも自分の実験に戻るから。先生来るまでくつろいでて。お茶も好きなだけ飲んでいいから」
そう言って席を立とうとした時だった。
「あ、あの、これ以上ここに居ても何か迷惑かけそうだから私帰るよ」
そう言ってマナは席を立つ。
「そんな事ないって、もう少しくらい居ても問題無いから」
「ううん。また来るから」
「じゃあ門のトコまでおくるよ」
「大丈夫ーそれじゃ失礼しました」
マナはそのまま研究室を出ていった。
「あれ? マナちゃん帰っちゃった?」
「帰りましたよ」
無菌室から出てきた素子さんの質問に答える。
「そーかー、帰っちゃったかー」
「どうかしたんですか」
「いや、ちょっと心配だなぁと思って」
人の心配をするなんて珍しい。なんて、口に出したらブッ飛ばされそうだ。
だけど、素子さんもマナの言動に違和感を感じていたようだ。
「ま、考え過ぎかな」
そう言って素子さんは机の上に実験器具を並べ始めた。
「しかし、女子高生かぁ~いいなぁ~なつかしいなぁ~」
昔を思い出しているのか、しみじみと言う素子さん。
「十年位前の話ですか?」
「高校卒業してから十年も経ってねえよ。殴るぞ」
本当に殴られそうだったのでこれ以上からかうのは止めにした。
「あ、そうそう。黒野、アンタこの後暇?」
「暇ですけど、何ですか?」
「久しぶりに飲みに行こう」
久しぶりって……二日前にも飲み行ったんだけどなぁ。
「みっちゃんも誘ってさ」
「わかりました。後でみっちゃんにも連絡してみます」
「お願いね」
この後、飲みに行く事が決まり、素子さんはウキウキ気分で研究を再開した。そして、俺も自分の研究にとりかかった。
時計は午後六時を回っていた。俺と素子さんは実験器具の後片付けをし、研究室の鍵をかけて外へ出た。
「みっちゃんはどうだって?」
「今日は無理みたいです。観たいアニメがあるらしいので」
「そうか、それじゃあ仕方ないな。んじゃ、アタシは車持ってくるから黒野は正門で待ってて」
「わかりました」
そう言い、俺は正門へ、素子さんは大学の学生用駐車場へと向かった。
生物科学科棟は正門の近くに建てられているが、駐車場からはすごく離れているため、少し待つことになる。
「黒野さん」
暇なので携帯電話をいじろうとした時だった。突然声をかけられた。
「あ、やっぱり黒野さんだ」
振り返ると一人の女性がいた。先端にだけ軽くウェーブのかかった長い髪、夏なのに長袖、ロングスカートという出で立ちの女性。
「ああ、竜崎さん。お久しぶりです」
竜崎神奈さん。知り合ったのは半年くらい前、大学内で道に迷っていた竜崎さんに声をかけ案内したのがきっかけだった。一言で言えば『清楚』。もう一言加えるなら『上品』。そんな感じの女性。
「毎日研究ご苦労様です」
「いや、これしかやることないので。ところで、竜崎さんはまたウチの大学で勉強ですか?」
「ええ、最近は研究の報告等でよく来ますよ。そうだ、黒野さんも……」
「プップー」
後方から車のクラクションが聞こえた。振り返ると素子さんの乗った高級セダンが走って来た。
「おーい、くーろの行くぞー」
「あら、お邪魔でしたね。ではごゆっくり、私はこれで失礼します」
そう言うと竜崎さんはそそくさと行ってしまった。多分、何か勘違いしてるだろうな。
お別れの挨拶を言う暇も無かったため少し呆気にとられていたが、素子さんを待たせると何かとうるさいので俺は素子さんの乗ってきた車の後部座席に乗り込んだ。
「何でお前いっつも後ろに乗るんだよ」
「いいでしょ落ち着くんだから」
素子さんはブツブツ言いながらも車を発進させた。
「すっげぇ美人だったな今の人。黒野の知り合い?」
「まあ顔見知り程度ですけどね。何でもウチの大学に勉強しに来てるみたいですよ」
「え?ウチの学生じゃないの?」
「この前お話した時、確か神ノ宮中央医科大学の学生だって聞きました」
「へぇ、でもなんで医学部生がウチの大学に来るんだ?」
「何でも共同研究してるらしいんですけど、詳しくは……」
その後、車内はしばしの沈黙に包まれる。
「黒野、アンタあの人に告ってみなよ」
が、素子さんがいきなり沈黙を破り変なことを言い出した。
「急に何言い出すんだよ」
「いやぁ、だってさ美人だし、良い人そうだし、おまけに医大生だよ。将来美人女医になんかになった日にゃあ……ねぇ?」
何が「ねぇ?」だ。本当に何を言い出しやがる。
「第一、俺が告ったってどうこうなるわけないでしょ。相手にされませんよ」
「そりゃそうか」
自分から言い出したくせに何だその反応は。本気でイラっときた。
車を走らせること二十分ようやく神ノ宮市街地に入った。帰宅時間帯ということもあり道が混んでいて余計に時間をくった。
「さて、それじゃ駐車場を探すか。黒野も空いてそうな駐車場探して」
素子さんに言われ、俺は適当な駐車場を探し始めた。走る車の中から外を見ていると見覚えのある人物が視界に入ってきた。
「素子さん止めて」
「え、見つけた?」
「いいから、ちょっと路肩に停めて」
無理を言い、車を路肩に停めてもらった。
「おいおい、こんなトコに車停めてたら駐禁くらうだろ……って、どこ行くんだよ」
俺は車が止まると同時にドアを開け後部座席を降りた。そして、小走りでさっき見かけた人物の所へ向かった。
「ねえねえ、いいじゃん、遊ぼうよ。金は俺達が出すからさ」
「ご、ごめんなさい。私急いでいるので」
見間違いではなかった。そこにあったのは他の誰でもないマナの姿だ。ただし、若い男二人にからまれている。
「あー、ちょっと失礼」
俺が男二人組に声をかけると二人は同時に振り返った。うあ~、めちゃくちゃガンつけられてる。
「何アンタ? 何か用?」
「いやー、その娘ね、俺の知り合いなんだわ。困ってるみたいだし勘弁してくんない?」
顔を伏せていたマナだったが、俺の声が聞こえたのかバッと顔をあげた。
「黒野さん!」
マナは俺を認識するなりからんでいた二人組の間をするりと抜けて、すぐさま俺の後ろに隠れた。
「ん? 今黒野って言ったか」
からんでいた一人が呟く様に言った。
「黒野は俺のことだけど何か?」
「おいこの人、白河さんの……」
「え、マジで……、じゃヤベェんじゃね?」
今度は人の名前を訊くなりヒソヒソと二人で話始めた。それと、今白河って言ったか?
「えーと、君たち白河クンの知り合い?」
「まあ、そんなトコっす」
何か急によそよそしくなったな。
「じゃあさ、ヤツに会ったらちゃんと働けって言っといて」
「……わかりました。おい行こうぜ」
「ああ」
二人組は足早にその場を去っていった。とにかく、一悶着あったが特に何事もなく済んでよかった。
「さて、大丈夫か」
俺は振り返り、マナの安否を確認した。
「う、うん、ありがとう。私平気だからもう行くね」
マナはその場を立ち去ろうとする。
「行くって、ドコにだ?」
「ドコって……か、帰るんだよ」
「折角家出してきたのにか?」
「えっ、どうしてそれ……あっ」
なんというわかりやすい奴。こんなのカマかけにもなってないぞ。
「やっぱり、心配してた通りか」
後ろから素子さんが歩いてきた。
「で、特に行くアテも無いんでしょ?だから絡まれてた訳だしね」
マナは何も言い返す言葉が無いのかまた顔を伏せてしまった。
「何ならウチに来る?」
「そんな、悪いですよ」
「じゃあ交番に行っちゃう~? 善良な市民としては、未成年が夜の街をぶらついてるのを見過ごす訳にはいかないな~」
どこが善良な市民なんだよ。もう脅しじゃねえか。とはいえ、素子さん言う通りこのままにする訳にもいかないしな。
「警察に行くのは困ります。まだ家に帰る訳にはいかないんです」
「警察は冗談だよ」
素子さんは軽く笑いマナにやさしく話しかけた。
「アタシ達はマナちゃんにどんな理由があるのかとか、そんな事は訊いたりしない。でもね見過ごせないのは本当。それとも、アタシって信用出来なそう?」
「そんなことないです」
「じゃあ決まり。黒野、悪いけど飲みに行くのはキャンセルだ。代わりの行先はアタシん家」
「わかりました」
半ば強引だがマナを素子さんの家に連れて行くこととなった。このまま夜の街で一人にしておくよりはいいだろう。
素子さんの車の後部座席にマナを乗せ、俺は助手席に乗り素子さんの住むマンションに向かった。と言っても素子さんのマンションは市街地に在り、五分程度で着いた。
素子さんの住むマンションは地上二十階建の高級マンションであり、そこで独り暮らしをしている。マンションの地下駐車場に車を停め、エレベーターで素子さんの住む最上階に向かった。
「上がって」
「お邪魔しまーす」
「……お邪魔します」
良いマンションに住んでいるだけあって部屋がいくつかある。中には『立ち入り禁止』と書いてある紙が貼られた部屋が在り、何度かこのマンションに来ている俺も入った事はない。
「こっちこっち。適当にくつろいでね」
素子さんは俺とマナをリビングに通した。リビングにはカーペットが敷かれ、ガラスでできたテーブル、革のソファーそしてテレビ、それしか置いてない。いつ来ても殺風景な部屋だ。
「適当にくつろいで」
そう素子さんに促され、マナはカーペットの上に座った。だが、正座だ。どうも緊張と申し訳ない感がとれないようだ。
「もーそんなガチガチにならなくていいから、脚崩してリラックスしてちょうだい」
そう言われてもマナは顔を伏せたまま黙っている。緊張しているのとは何か違うようだ。
「あの、私やっぱり話します。何故ここに来たのか、その理由を」
突然、口を開いたマナに俺と素子さんは少し呆気にとられていた。
「どうしたの、突然。それに無理に話さなくてもいいって」
「いいえ、ここまでしてもらっているのに黙ったままでは申し訳ないです」
「何か気遣わせちゃったかな」と素子さんが小声で訊いてきた。きっと根が良い娘なんだな。
「明神先生にお会いしたかったのは、このことについて調べたかったからです」
そう言うとマナは大事に持っていたバッグから一つのファイル取り出した。
「ブルードルフィン計画についての報告書?」
「はい、そのブルードルフィンについてどうしても調べたかったんです」
俺はその報告書に目を通した。素子さんも横からのぞいてきた。
遺伝子治療薬KH2296と書かれた報告書、通称『ブルードルフィン』というらしい。このブルードルフィンは生物の細部内に入り込み異常な遺伝子配列を見つけると修復するといった作用があるそうだ。
「いやー、すごいねこれ。癌の治療や生まれつきある遺伝子異常の治療にも応用できるみたい」
素子さんが感嘆するのも頷ける。こんなものが本当に有るのなら世界がひっくり返る。そう言ってもいいくらいだ。でも……。
「マナ、何でお前がこんなもの持ってんだ」
そう、どうして普通の女子高生がこんな画期的な治療薬の報告書を持ち歩いている。しかし、その疑問はマナの答えで消し飛んだ。
「私のお父さん……製薬会社の社長なの、A&Jファーマって会社なんだけど知ってる?」
……え?
「「A&Jファーマの社長!」」
俺と素子さんはハモりながら叫んだ。無理もない、A&J製薬とは日本で超大手製薬会社であり、世界でもかなり名の知れた製薬会社だ。
最初に自己紹介されたとき名前くらいは知ってるかななんて思ったけど、まさかそんな大企業の社長だったとは。
「経緯は……その……省かせてもらいますが、ひょんな事からこの報告書を見つけました。そして、この研究は北関東科学大学とA&Jファーマとの共同研究だったみたいでチームリーダーに明神先生のお名前があって」
「あ、本当だ。ジイさんの名前がある」
報告書には明神一心の名前があった。なるほど、先生に会いたがっていたのはこのためか。
「あの、少し訊きたいんだけど、これって人から人に感染していったりするの?」
マナは小声で俺に質問してきた。なんか、俺の時だけやけにフランクに接してくるな。
「これには導入部分しか書かれてないけど、ウイルスみたいに人から人に感染して広まっていくとかそんな事は無いよ。『薬』って考えでいい」
「大丈夫大丈夫、ゲームや映画みたいに街中ゾンビだらけになったりしないからヘーキだよ」
そう答えるとマナは安堵したようだった。やっぱり素子さんが言ったようにゾンビだらけになるようなモノだと思っていたのだろうか。
俺は引き続き報告書に目を通していった。ホントにさわりだけの内容だったのですぐに読み終わり、その後の名前もなんとなく見ていった。
「え?」
そして、その名前を見た途端、俺は思考が停止した。
「黒野……英嗣」
それは紛れもなく俺の父の名である。黒野英嗣の名が研究開発者名の中にあった。
「やっぱり、恭輔の親族の人なの? 恭輔の名前聞いた時に黒野って名前があったのを覚えてたから、もしかしたらって思ったんだけど」
「ああ、この黒野英嗣は多分……、俺の父親だ」
もしかしたら同姓同名の他人かもしれないが、親父は明神先生と共に研究をしていたことがある。おそらく、親父本人だろう。
「え! 恭輔のお父さんなの」
「ああ、そういえば黒野の親父さんウチの大学に居たって前に言ってたね。ん? 他にも藤堂先生の名前もある。この三人で研究してたみたいねぇ」
この時二人が何か話しているのはわかったが、話の内容までは頭に入ってこなかった。親父の名前から目が離せず、少し思考がトンでいた。
「ねえ、恭輔大丈夫? さっきから黙ってるけど」
「……ああ、大丈夫だ。それより、この報告書もう少し見ていていいか」
俺は報告書に書いてある父の名を見ながらマナに問うた。
「別にいいけど」
マナの答えを聞きながらも、俺は報告書に書かれた父の名から眼を離せなかった。
「まあともかく、また明日も研究室に行ってみよ。先生明日は来るかもよ。マナちゃんは隣の部屋のベッド使っていいから。今日は疲れたでしょ、もう寝ちゃいな」
そう言って素子さんはマナを隣の部屋に連れて行った。
俺は素子さんのパソコンの前で思案していた。時間はいつの間にか午後十時を回っている。
「あーもう、勝手にパソコン使うなっていつも言ってんじゃん」
隣の部屋から素子さんが出てきた。
「マナはどうしました?」
素子さんの注意を無視して質問する。素子さんは少しムスっとしながらも質問に答えてくれた。
「寝ちゃったよ。緊張が解けたんだろうね、ぐっすり寝てる。で、アンタはヒトのパソコンで何してるわけ?」
「少し調べてたんですよ、ブルードルフィンについて」
素子さんは「ふーん」と言うと台所に向かい、グラスとウィスキーを取り出した。
「論文なんかを検索してみたんですけど、『遺伝子治療薬KM2296』なんてものは一切引っかかりませんね」
「なぁるほどねぇ」
素子さんはグラス、ウィスキー、氷と炭酸水をテーブルに持ってくるとウィスキーを炭酸水で割って飲み始めた。
「どうもあの娘、まだ何か隠してるみたいなんだよねぇ。あ、アンタも飲む?」
そう言ってもう一つのグラスにウィスキー、炭酸水、氷を入れて、指でかき混ぜやがったモノを俺に渡した。
「薬の事を先生に訊きたいならアポでもとってゆっくり来れば良いのに。だけど、先生がいない事を知らないって事はアポとる余裕すら無かったみたいだね。家出するほど急いでるときたもんだ」
素子さんはテーブルの上に置いてあった報告書を手に取り、じーっと眺めていた。
「そんで、この薬だ。癌の治療やその他遺伝子疾患の治療にも応用できるってのはすごい事だけど……アタシはどーしてもこの薬のサイドエフェクトに目がいっちまう」
副作用か。素子さんは報告書をペラペラと捲り始めた。
「まだ、動物実験の段階までしか書かれていないけど、この薬を投与したマウスの筋肉量増加、運動性能の大幅な向上ってところがどうしても気になっちゃうな」
「? どうしてですか?」
「いやなに、こーゆーの見るとさ、アタシみたいな奴は『悪い事』に使えないかなーって考えちゃうんだよねぇ」
素子さんはニヤニヤと笑みを浮かべ報告書を流し読みしていた。
「っとまぁそれは置いといて、さっきアンタは調べても出てこなかったって言ったけど、そりゃ十中八九打ち切りになったんだろうこの研究はさ。こんなすげぇモノが発表されてたらいちいち調べなくったってアタシらの耳に入って来るだろ」
「じゃあ何で打ち切りに?」
「知らんよ。ジイサンに訊けばいいだろ。ってゆうか、ジイサン明日は居るんだろうな」
先生って言えよ。
「……まあ、気になる事は他にもいくつかある。先生が何日か研究室を空ける事はたまにありますけど、俺達に何も言わずに行く事は無かったですよね?」
「本当にどうしたのかねぇ、急ぎの用事でもあったのかなぁ」
素子さんは適当な調子で答えるとウィスキーを口に含み目を細めた。
「……でも、黒野クンには一番気になる事があるんじゃないのかなぁ? 例えば、お父さんの事とか」
この人は全部お見通しだ。でもまあ、さっき親父の名前を見つけた時あれだけ動揺してたらバレて当然か。
「ええ、気になってますよ。親父の事は……」
「詮索はしないよ。アタシはマナちゃんの力になれればそれで良い。アンタも親父さんの事は気になるかもしんないけど、力になってあげなよ」
「わかってますよ。それが最優先なのは」
素子さんは「ウン」と頷くとウィスキーの入ったグラスを持ち立ち上がった。
「そいじゃもう寝ようかね。アンタも、調べんのはいいけどちゃんと寝なよ」
お気遣いどーも。ウィスキー片手に寝室に向かう素子さんだったが、ドアを開けたところでくるりと振り返り、
「それとも一緒に寝るか?」
「遠慮します」
ふざけた事をぬかすと「つまんね」と一言残し部屋に戻って行った。リビングに残った俺は報告書を見つめ、ウィスキーを呷る。
今あれこれ考えたところでどうしようもない。素子さんの言う通り寝た方が良さそうだ。