昔話
――21
もう三十年も経つのか、月日が流れるのは早い。特に二十歳を過ぎてからはあっという間に時間が経ってゆく。
私は北関東科学大学に第三期生として入学した。今現在ではギリギリ中堅大学といったところだが、大学設立当時は「科学技術立国日本を担う若い技術者及び研究者を輩出する」といった目標を掲げ、高い偏差値を誇っていた。
しかし、入学したばかりの私は別の大学に転学するか否か迷っていた。私は滑り止めとしてこの大学を受けたが、本命を落としてしまい、その事をいつまでも引きずっていたのだ。今考えればどうでもいいくだらない事で悩んでいたと思うよ。
そんな事を考え何気なく大学の掲示板を見ていた時の事だった。
「ねえ、君が藤堂君かい?」
突然、声をかけられた。後ろを振り向くと一人の青年が立っていた。
「はい、そうですが」
「やっぱりそうか。いやーこの大学に満点で合格した天才がいるって聞いたからさ、どんな人なんだろうと思って声をかけてみたんだけど」
「は、はあ」
見知らぬ青年だった。突然声をかけられ、べらべらと話をし始められた時は正直戸惑った。
「すみません。あの、どちら様でしょうか?」
「え? あ、ゴメン。僕は黒野英嗣っていうんだ。この大学の一期生で今は三年生。君の二つ上かな。よろしく」
これが、私と黒野英嗣の出会いだった。
「この大学すごいでしょ? 結構いろんな施設が在ったりさ、図書館も大きいし、何より名前がすごいよね。北関東科学大学って、すごいネーミングセンスだよこの大学の名前を付けた人。あ! そうだ、藤堂君はもうどこのサークルに入るとか決めた?」
明るく、よく喋る人だった。新入生だった私に気を遣っていてくれたのかもしれないが、正直なところ私の苦手とするタイプの人間だった。
「いえ特には。それといろいろ気を使っていただいてありがたいのですが、実は俺この大学を辞めようか迷っていて……」
「え? どうして? せっかく入ったのにもったいないよ。金銭的な事とか? それとも何か嫌な事でもあった? 良ければ相談に乗るよ」
「いや、そうではなく、他に行きたい大学があって、転学を考えているんです」
「うーんそうかぁ……」
その時の私の悩みを打ち明けると彼は何やら考え出した。
私はあまり他人に自分の考えを話したりはしない。まして、初対面の人間に悩み事を相談するなどありえない。しかし、彼には不思議と悩みを打ち明けてしまった。人柄とでもいうのだろうか。彼にはどこか親しみやすさがあった。
「藤堂君、今時間ある?」
「あ、はい。この後は特に講義も無いので」
「よし! それじゃあ、ちょっとついて来て」
何か思いついたのか、彼はそう言うとどこかに向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。どこに行くんですか?」
「イイトコ」
彼はそれしか言わなかった。私はどうしようか一瞬迷ったが、仕方なく彼の後について行く事にした。その時は変な先輩に目を付けられてしまったと後悔したよ。
彼の後をついて行くととある建物の前に着いた。今となっては何もかもが懐かしい旧生物科学科棟だ。
「最近出来たばかりの建物だからね。外装だけでなく内装も綺麗だよ」
彼はそう言って建物の中に入って行く。私も遅れぬよう彼の後に続く。
「すごいだろ? この建物、エレベーターまであるんだ。さあ、乗って」
彼に促され、私がエレベーターに乗り込むと、彼は四階のボタンを押した。エレベーターはすぐに四階に到着し、ドアが開く。
「ここだよ。君に見せたかった場所だ」
彼が案内したのは旧生物科学科棟四階の一番端にある研究室だった。そこには当時最新の実験機器や実験器具があり、他にもその時の私が見た事の無い物ばかりが並べられていた。キョロキョロと回りを見ていた私に彼は声をかけた。
「どう? 気に入った?」
「え? あ、はい」
「僕、今この研究室で研究の手伝いをしているんだ。……それで、その……何て言うか、藤堂君にこの大学のすごいところっていうか、良いところとかをさ、見せたくて……はは、ごめんうまく言えなくて、駄目だな僕は」
彼は頭を掻きながら恥ずかしそうに言った。確かに、突然何か言い出したと思えば、後半はしどろもどろになり全然喋れていなかったが、彼が言わんとしている事は何となくわかった。
「でもまあ、辞めるかどうかの判断材料にでもなればいいなって思ってこの研究室を紹介してみたんだけど……大きなお世話だったよね?」
「そんな事ありません。お気遣い感謝します。確かにこの大学の良いところも悪いところも知らずに辞めるかどうかを考えるのは早計でした」
「そうか、良かった」
彼はそう言って笑っていた。
「黒野さんはこの大学の事気に入っているようですが、どうしてここに入ろうと?」
「あー……うん、笑わないでほしいんだけど、僕、将来は科学者になりたいんだ。それでさ、高校生の時、どこか良い大学がないか調べてたら地元に新しい理系の大学が出来るって聞いて、その時見学しに来たら一発で気に入ったんだ。設備も充実してるし、けっこう自由だし、それに面白い人とも出会えた」
「面白い人……ですか?」
「ああ、お! 噂をすれば何とやらだ」
私達が話をしていると廊下からコツコツと歩く音が聞こえてきた。すると大きな段ボール箱を抱えた一人の男性が開けっ放しになっている研究室の入り口から入ってきた。
「こんにちは明神さん」
「あれ? ドアが開いてるから誰か来ているのかと思えば、黒野君だったのか。ん? そちらさんは?」
「彼はこの前言ってた例の」
「ああ、君がそうか。おっと……初めまして、私はこの研究室で助手をしてます明神一心といいます」
「こちらこそ初めまして、藤堂一裕です」
明神と名乗る男性は抱えていた大きな段ボールを床に置くと、右手を差し出し握手を求めた。私もそれに応じ、握手を交わす。柔和な笑顔、優しい物腰、落ち着いた雰囲気の男性。後の明神教授だ。この頃からずっと明神先生はあまり変わらない。変わったところを一つ挙げるとすれば、黒かった髪が白髪になったという事くらいだろう。
「確か藤堂君は一年生だったね。どうだい? 何か困った事や慣れない事はないかい?」
「ええ、大丈夫です。大学生活にも大分慣れてきました」
私の答えを聴いた明神先生は「そうか」と言ってにっこりと笑った。
「そう言えば、黒野君、どうしてこんな時間に研究室に居るんだ? いつもより来るのが早いじゃないか」
「ああ、えっと、それはですね……」
彼は私をこの研究室に連れて来た理由を言うか言うまいか迷っている様だった。
「黒野さんは俺にこの大学の事を紹介してくれていたんです。お陰でこの大学に興味が湧きました」
「ああ、そうだったのか。黒野君も先輩らしい事をするじゃないか」
「はは、いや~そんな事は」
彼は嬉しそうに頭を掻いていた。
「うん、この大学に興味を持ってくれた事は嬉しいね。どうだい、自分のやりたい事は出来そうかい?」
「やりたい事……ですか?」
この時の明神先生の言葉でようやく気付かされた。何故この時まで気が付かなかったのだろう。私には特に決まった将来の夢や目標といったものが無かったのだ。全く滑稽だった。将来やりたい事も無いくせにあれが良いこれが良いなどとわがままをぬかしていたのだから。
「ああ、藤堂君は将来何をしたい?」
「その……まだ決めていません」
「ふむ、そうか。……よし、それなら何かやりたい事が決まるまでここに居ると良い。この研究室に」
「しかし、邪魔ではないでしょうか?」
「そんな事は無いよ。好きなだけ居ると良い」
明神先生は優しくそう言ってくれた。
結局、私はこの時から自分の研究室を持つまでの間ずっとこの研究室に居る事になる。それから私は毎日研究室に通い、黒野英嗣と共に明神先生の元で研究、実験の日々を送った。
それから十数年の月日が経ち、私は北関東科学大学で講師を務めていた。同じく、黒野英嗣も同大学の助教授、今でいう准教授に就任したばかりであった。この時の彼は多くの論文を発表し、その名を広く知らしめていた。
そんな時だ。あの話が舞い込んできたのは。
「共同研究ですか?」
「ああ、君の研究に大変興味を持ったらしく、是非との事だ」
「すごいじゃないですか、あの大企業から共同研究の話なんて」
私は自分の事の様に喜んだ。苦楽を共にし、研究をしてきた仲間だ、嬉しくない訳がない。
「僕は大した人間なんかじゃないよ」
「何を言ってるんですか、貴方の研究が認められたんだ、誇っていいんですよ。それにお子さんの為にも養育費を稼がないと、頑張ってくださいよお父さん」
「よしてくれよ。でもまあ、恭輔は親父とおふくろと家内にまかせっきりだし、確かに何か父親らしい事もしてあげないとな」
この後、彼はA&Jファーマとの共同研究の話を受け、次世代の遺伝子治療薬の研究を開始した。当時、バブルの影響もあってか、莫大な資金援助を受ける事が出来、研究を行うのにあたって十分な環境があった。
「とりあえず、プロトタイプと言ったところかな。形にすることはできた」
「これが、黒野さんの作った新薬ですか」
彼の手には淡く青い色をした液体の入った試験官があった。こう言ってはアレだが、私が初めて見た時の感想は「薬なのに毒々しい色をしている」だった。
「名前もちゃんと考えてあるんだ。『ブルードルフィン』っていうんだけど、どうかな?」
「ええと……正直、この大学の名前を付けた人とネーミングセンスが同じです」
「そ、そうか? 良い名前だと思ったんだけどなぁ」
ここまで彼の研究は順調であり、何の問題も無いように見えた。だが、ここにきて大きな壁が立ち塞がった。
動物実験だ。
「また駄目だ」
彼は実験用マウスの檻の前でそう呟いた。どうしてもブルードルフィンを投与したマウスは攻撃的になり他のマウスを噛み殺してしまう。仮にブルードルフィンを投与したマウスを一匹だけ檻の中に入れておいても自傷行為により結局死んでしまっていた。
しかし、薬の効果については全く問題無い。人工的に癌細胞を植え付けたマウスにブルードルフィンを投与したところ、たちどころに癌細胞を跡形も無く消し去ってしまった。だが、これだけの効果があったとしても、マウスの異常行動の原因が掴めなければ、次のステップ、つまりヒトでの実験など夢のまた夢だ。
「次は別の方法を試してみよう。他にも何か見落としがあるかもしれない」
この日から、彼は来る日も来る日も失敗した原因の追究に追われていった。そして、あの日がやって来た。
「え? 打ち切り?」
「ああ、経済状況の悪化でこれ以上この研究への資金援助が困難になったそうだ。まあ、結果の出ない研究にいつまでもかまってはいられないよな」
「そんな、向こうから持ちかけてきた話なのに……そんなのあんまりじゃないですか」
「だから、あちらさんがやめますって言ったらやめるしかないんじゃないのかな」
彼はどこか呆けた様子で言う。
「で、でもまだ改良の余地は有るはずです。結果は出せます。そうすれば向こうもあるいは……」
「いや、もう止めだ。終わりにしよう。これ以上は無駄だよ」
彼はそう言った。平然と抑揚の無い声で、何も感じていないかのような無表情で、遠い目をしながら、そう言った。
「な、何を言ってるんですか。黒野さんは毎日、夜遅くまで研究室に残って、ほとんど休みも取らないで、ここまで頑張ってきたんじゃないですか? それなのにここで諦めるんですか?まだ……」
「あの薬は失敗だ。アレは誰も救わないし、救えない。もうこの事は忘れて次の研究に取り掛かった方が良い」
「……何なんだそれは」
この時、私の身体は怒りに震えていた。黒野英嗣に対して怒りを覚えた。
「貴方は、貴方はそんな事を言う人ではなかった。いつでも諦めず、どんな困難も乗り越えて来たじゃないか!」
「前にも言ったろ、僕は大した人間なんかじゃないって。それに人間、諦めが肝心だよ」
彼は一度もこちらを見ようとはせず、どこか遠くを見ながら私と話をしていた。
「……確かに、貴方の言う通りですね。これ以上は無駄の様だ。失礼します」
私はそう言うと、彼を一瞥し、研究室を出て行った。
その後、私は無意識の内に下宿するアパートの部屋に帰っていた。どうやって帰って来たのか、研究室を出た辺りから記憶が無い。それほど私は混乱していたらしい。部屋に着き、ベッドの上に座り、一度呼吸を整えて、冷静になった。
「さすがに……言い過ぎたな」
彼も突然の事で動揺していたに違いない。それなのに、私は自分勝手な事ばかり言い、自分の勝手な理想像を押し付けて……一番辛いのは黒野英嗣本人なのに。
「謝ろう」
時計を見る。この時、すでに九時を回っていた。時間も遅いし、明日にするか迷ったが、今すぐ謝りたいという衝動に駆られ、私は部屋を後にする。
いやはや、先程はこの自分勝手さが今の事態を招いたというのに、今思い返すと呆れてしまう。
「黒野さん。夜分に申し訳ありません。先程の無礼を謝りたくて来ました」
私は彼の下宿する北関東科学大学教員宿舎の部屋の前に着ていた。ここは北関東科学大学の近くに建てられているマンションの様な所で、多くの大学職員や教員が住んでいる。一度ノックをし、声をかけてみたが何の反応も無い。口もききたくない程嫌われてしまったかと一瞬思ったが、どうやら違うようだ。
「留守なのか?」
まだ彼は部屋に戻ってはいないようだった。
「仕方ない、明日改めて謝ろう」
そうして私はその場を後にする……いや、後にしようとした時だった。
ウー! ウー!とサイレンが聞こえてきた。サイレンの音以外にもカン! カン!といった音まで聞こえる。
「消防車? どこかで火事でも……」
そう言いかけた時、ある方角に煙の上がっている所を見つけた。それは、そこは私の良く知る場所だった。
「あそこは……大学?」
私は考えるよりも先に走り出していた。嫌な予感がしたからだ。腹の底から湧き上がってくる気持ちの悪い感覚。それを必死に抑え付け全力で走った。
だが、嫌な予感というものはどうしても当たってしまうものらしい。
私が大学に着いた時にはすでに生物科学科棟は火の海に包まれていた。そこにようやく駆けつけた消防隊員達が消火活動を開始する。
「危ないですから下がってください! 危ないですよ! あっ! そこの貴方、もっと下がってください! 危険です!」
呆然としていた私に消防隊員の一人が注意を促す。
「な、中に誰か……残っている人はいませんよね?」
「現在のところはまだ不明です。とにかく、危ないですからもっと下がってください!」
まさかと思った。彼の事だ。呆然と立ち尽くす私の後ろから「どうした?」なんて言って現れるだろうと、そう思っていた。彼の事だ。私が帰った後すぐに大学を後にし、どうせその辺の居酒屋で「研究を打ち切られた」と愚痴を言いながら呑んだくれていると、そう思っていた。
しかし、だけど、どうして、嫌な予感というものは当たってしまうのだろうか。
鎮火後、私の元に最初に入ってきた情報は黒野英嗣の訃報であった。
あの火事から十余年。私は北関東科学大学の准教授となっていた。生物科学科は新しく建て直され、まるで、あの時の火事など無かったかのように綺麗な研究棟が建てられた。
当時の現場検証によると、あの火事の火元は黒野英嗣の研究室からだったらしい。しかし、原因は不明で、事件なのか事故なのかまではわからなかった。そして、運が良かったのか悪かったのか、その時の生物科学科棟には黒野英嗣以外の人間はいなかったらしい。わかった事はその程度だ。結局、何もわからぬまま、過去の出来事として忘れられつつあった。
そう、何もわからない。あの時、彼が何を考え、どんな苦しみを抱えていたのかも、もう訊く事は出来ない。そして、あの時の無礼を謝る事も出来ないのだ。
そんな後悔の日々が続く中、今度は私の人生を左右する出来事が起きた。
私は朝の日課である電子メールの確認を行っていた。すると受信メールの中におかしなメールが一通届いていた。そこにあったのはあの大企業A&Jファーマからのメールであった。
あの一件以来、私は特にA&Jファーマとのやりとりは一切行っていない。別に例の研究の事で恨んでいるからという訳ではない。ただ単にやりとりをする用件が無いのだ。なので、私の所へメールが来る事が意外だった。
「何だ? 試薬か何かの売り込みか?」
とりあえず、私は内容を確認する為、メールを開いた。そこに書かれていたのはとても簡素な文章だった。その内容を要約すると『私と直接会って話がしたい』だ。要約とは言ったが、形式的な挨拶を抜かせば、後はその内容しか書かれていない様なものだ。
初めは新手の悪戯かと思ったが、日本の大企業が大学の一教員である私にそんな事をする意味がない。正直、無視してしまってもいいかと思ったが、何か妙な引っかかりを覚えた私はそれに応じ、都合の良い日時を指定し返信した。
それから数日後、指定した日時に私の研究室に現れたのは一人の青年だった。
「初めまして藤堂先生。わたくし、A&Jファーママーケティング戦略担当の進藤と申します。この度はお忙しい中、貴重なお時間を割いて頂き誠に感謝します」
歳は三十手前といったところか、その細身には高そうなスーツを纏い、笑顔を絶やさない爽やかな青年といったところだ。
「初めまして、藤堂です。さあ、どうぞお座りください」
私は彼に来客用のソファーに座るよう促す。彼は「失礼します」と一言言いソファーに座る。私はテーブルを挟んだ反対側のソファーに腰を下ろした。
「……それで、早速なんですが、用件というのは一体? メールでは駄目だったのですか?」
「ええ、メール等の記録の残るモノでのやりとりは避けたかったので、大変失礼でしたが、あのような内容のメールになってしまいました」
笑顔を絶やさず、彼はそう言った。そして、彼は続けて言う。私の人生を変える一言を。
「先生もお忙しい身ですから、単刀直入に言います。藤堂先生、是非貴方にブルードルフィンの研究を再開して頂きたい」
笑顔を絶やさず、彼はそう言った。思わず訊き返してしまいそうになる一言を。
「何を、言っているのか私にはわかりませんね。ブルードルフィン? 何ですかそれは」
内心、私は動揺していた。彼の口から突然出てきたアノ名前を聞いて、私は無理矢理誤魔化した。しかし、子供が吐くわかりきった嘘を聴いているかの様に、彼は笑い、話を続けた。
「とぼけないでください。藤堂先生。私は貴方がブルードルフィンの生みの親である黒野氏と共に研究を行っていた事を知っているんですよ」
「……よく調べましたね。A&J社の中でも、私が研究に携わっていた事を知っているのは一部の人間だけなんですが」
「ええ、私がその『一部』の人間ですから」
笑顔を絶やさず、彼はそう言った。自分は特別であるかのように。
「しかし、十年以上も前に一方的に研究を打ち切ったのはそちらでしょう。今更、どういう風の吹き回しですか?」
「はい、その点に関しましては先生の言う通りです。いくら財政難だったとはいえ一方的過ぎました。その事は素直に謝罪します。申し訳ありませんでした」
彼は言った通り、素直に頭を下げた。そして、顔を起こすと話を続けた。勿論、笑顔のままで。
「しかし、我々はこの薬の真の価値に気付かされました。ブルードルフィンはただの医薬品等ではない。世界を変える可能性を持つ薬なのだと」
「いくら大仰な事を並べられても、ブルードルフィンに関する研究資料やブルードルフィンそのものは例の火災で焼失してしまいました。研究に携わっていたとはいえ、ゼロからモノを創るのは不可能です」
「そうですか……でも、『モノ』それ自体があればいいわけですよね」
彼は突然無表情になり、含みのある言い方をする。
「何が言いたいんですか」
「先生、実は持ってますよね? ブルードルフィンの試作型を」
今度は不気味な笑顔を浮かべ、彼はそう言った。
「……何故それを知っている」
私は、目の前で不気味に笑みを浮かべる進藤に低くドスの効いた声で問うた。
正直に彼の質問に答えるならば、答えはイエスだ。私はブルードルフィンの試作型を持っている。
あの火災の後、私は黒焦げになった元研究室に足を運んだ。まだ、崩落等の危険性もあり、立ち入り禁止になっていたが、私は構わず中へと入って行った。
私は何がしたかったのか、未だにわからない。気が付いたら私は研究室があったであろう場所に呆然と立ち尽くしていた。
そんな時だった。偶然、本当に偶々、私は見つけた。淡く青い色をした液体の入った試験官を。耐熱性の容器の中にでも入っていたのだろう。それは焼ける事なく、毒々しい色を放ち続けていた。
私は衝動的にそれを拾い上げるとズボンのポケットにしまい、持ち帰っていた。特に何をする訳でもないのに私はその拾ったブルードルフィンを保管する事にした。当時、どうしてそんな事をしたのか、今となっては思い出せない。黒野英嗣の形見として、思い出として、取っておきたかったのだろうか。全く、女々しい男だな私は。
さて、話を戻そう。彼は確信を持って質問をした。目の前の笑顔を見れば自信の程が窺える。
「調べる事が私の仕事ですから」
笑みを一切崩さず進藤は答える。
「勿論、使えますよね? ブルードルフィンの特性は把握していますから、燃えずに残っているなら問題は無いはずです」
その進藤の問いの答もイエスだった。
ブルードルフィン最大の特徴はその異常なまでの『安定性』にある。熱や酸、アルカリに強く、滅多な事では変性したりしない。極論を言ってしまえばブルードルフィンは常温で保管しておいても問題無く使用出来る。事実、火災後の研究室で拾ったブルードルフィンも変性しておらず、活性を保ったままだった。
「……ええ、持っていますよ」
確信を持った相手に嘘を吐く理由も無かったので、私はブルードルフィンを所持している事を正直に話した。しかし、だからと言って私の心は変わらない。
「ですが、研究を再開するつもりはありません。他人の研究をかすめ取る様なマネは私には出来ない。申し訳ありませんが、今日はお引き取り下さい」
そう言って、私は立ち上がろうとした。
「いいんですか?」
しかし、彼の一言で私は動きを止める。
「『いいのか』、とは一体どういう意味ですか?」
「彼の、黒野氏の無念を晴らそうとは思いませんか? 志半ばで散っていった彼の思いを汲んであげたいと思いませんか?」
今度は真剣な表情になり、進藤は話始めた。だが、進藤のそんな知った様な口振りに私は少し頭に来た。
「君は死んだ人間の考えている事がわかるのかね?」
「いいえ、わかりません」
即答だった。
「私はイタコではない。そんな事はわかりません。しかし、自分のやりたい事を成し遂げられずに終わってしまうというのは悔しいはずです。私にも経験があるからわかります。確かに我々が言える事ではないでしょう。でも、それでも、先生にはこの研究を受け継ぐ権利が、義務があると思います。どうかお願いできないでしょうか」
そうして、彼は深々と頭を下げた。
御託を並べて私に研究をさせようとしているのがみえみえだった。だが、彼の言う黒野の無念というものもわからなくはなかった。
「……二つ、質問をさせてください。まず、君はブルードルフィンをどうしたい?」
「平和利用の為に使います。あの薬は世界に平和をもたらす事の出来る薬だ」
進藤は顔を上げると笑顔で質問にそう答えた。しかし、平和利用とは大きく出たものだ。
「そうですか。ではもう一つ質問です。……君は何者だ?」
私がそう質問すると、進藤は少し間を置き、そして、答えた。
「それは、先生がこの話をお受けになったら教えます」
進藤はまた不気味な笑顔を浮かべ、そう言った。
「……わかりました。ですが、今日のところはお引き取り下さい。少し考えたい」
「ええ、もちろんです」
今度はあっさりと素直に彼は了承した。
「名刺を置いていきます。何かありましたらここの連絡先にお願いします。二十四時間いつでも結構です。では色よい返事をお待ちしております」
そうして進藤は「失礼しました」と言って部屋を出て行った。
一人になった私は考えた。あの進藤という男、信頼に足る人間でない事は確かだ。平和利用と体の良い事を言ってはいるが、ろくでもない事にブルードルフィンを使おうとしているのは明らかだ。だがしかし、進藤の言う通り、黒野英嗣が無念であった事も確かだろう。薬を完成させ、研究を成就させて無念を晴らしてやりたいとも思う。




