いつもより早い閉店
店の時計は、午後十一時を少し回っていた。
最後の客が帰ってから、もう一時間になる。
洗い終えたグラスが、棚に伏せて並んでいた。厨房の火も落ちている。
それでも、店主はまだ帰れそうになかった。
「まだ終わらんの?」
カウンターの端に座っていた金目が声をかけた。
「終わらん。毎日こんなもんや」
店主は伝票をめくりながら答えた。
手元には電卓とノート。それから、書き込みの多い予約表が広がっている。
「売上合わせて、明日の予約見て、仕入れ考えて。店閉めてからも、やることあるねん」
「ふうん」
金目は、店主の手元を眺めた。
伝票の数字を足す。
ノートに書く。
別の欄にも、同じ数字を書く。
店主が眉を寄せ、電卓を叩き直した。
「合わへん?」
「どっか打ち間違えたんやろな」
また、一枚目の伝票に戻る。
金目はしばらく見ていたが、やがてノートの端を指した。
「これとこれ、同じこと二回書いてへん?」
「書いてるな」
「なんで?」
「こっち見ながら、こっちつけるからや」
「一つにしたらあかんの?」
店主の手が止まった。
「……昔からこれでやってるしなあ」
「なるほど」
金目は空いた椅子を引き寄せた。
「ちょっと見せて」
「何を?」
「それ全部」
*
店主の説明を聞いてみると、まとめられそうなところと、そうでもないところがあった。
予約が変われば、用意するものも変わる。数字だけ写せば済む仕事ばかりではない。
「これは、最後に自分で見たいねん」
「ほな、それは残そか」
金目はノートを店主の方へ向け直した。
「ここは?」
「それは、合計がわかったらええ」
「ほな、毎回書かんでもええな」
しばらくして、金目は鞄からノートパソコンを出した。
店主は片付けに戻り、ときどきカウンター越しに画面を覗いた。
「難しいんか?」
「難しいのは、今のやり方を理解する方やな」
「俺、そんなややこしいことしてる?」
「自分で考えんでもできるくらい、慣れてるんやろ」
「ああ、そういうことか」
店主が頷いた。
金目は画面とノートを見比べ、また一つ聞いた。
結局、その日は日付が変わった。
店主に実際の伝票を使ってもらい、入力した数字を一緒に確かめた。
予約表には手書きの部分が残った。売上が合っているかどうかも、最後は店主が見る。
ただ、同じ数字を何度も書き写す必要はなくなった。
「とりあえず、これで何日か使ってみて」
「壊れへんやろな?」
「壊れるかもしれん」
「おい」
「そんときは直すわ」
店主は呆れた顔で笑った。
「今日も遅なったやんけ」
「ほんまやな」
金目も時計を見て笑った。
*
一週間後。
金目が店に顔を出すと、店主は布巾を置いた。
「おう、ちょうどええとこ来た」
「壊れた?」
「壊れてへんわ」
「ほな、何?」
「昨日な、十一時前に帰れたわ」
金目はカウンターに腰を下ろした。
「へえ。ほな、よかったやん」
「よかったで。久しぶりに、家でゆっくり飯食えたわ」
「……そうなんや」
「いつも、帰ったら食うて寝るだけやからな。昨日は飯食うてから、しばらくぼうっとしとった」
店主は笑って、水の入ったグラスを置いた。
金目はそれを受け取り、少し遅れて頷いた。
「それは、ええな」
「せやろ」
店主は棚から皿を取り出し、いつもの手つきで並べ始めた。
金目は水を一口飲んだ。
あの晩、気になったのは、同じ数字を二度も三度も書いていることだった。
それを減らしたら、この人は家でゆっくり飯を食えたらしい。
「なあ、金目」
「ん?」
「こういうの、仕事にしたらええんちゃう?」
「何を?」
「この前みたいなんや。困ってる店、ほかにもあると思うで」
金目は首を傾げた。
「いや、別に大したことしてへんし」
「助かったんは、こっちやからな」
店主はそう言って、皿をもう一枚重ねた。
「金も取ったらええねん」
「今回は別にええよ」
「今回は、な」
店主が笑う。
金目も笑ったが、返す言葉は浮かばなかった。
*
帰り道、金目は店主の言葉を思い出していた。
仕事にする。
そんなことは考えてもいなかった。
会社を作りたいわけでも、社長になりたいわけでもない。
あの晩は、ただ、見ていて面倒そうだった。
だから、少し変えてみた。
昨日、店主は十一時前に帰った。
飯を食って、それから、しばらくぼうっとしていた。
金目は歩きながら、少し笑った。
それは、案外ええことをしたのかもしれない。
数日後、一冊のノートを買った。
家に帰って最初のページを開き、ペンを持つ。
『カナメ事務所』
書いてから、眺めた。
少し立派すぎる気もした。
事務所と呼べる場所も、頼まれた仕事もない。
その下に何を書こうか考えたが、まだ何も浮かばなかった。
「……まあ、こんなもんか」
金目はペンを置いた。
お読みいただきありがとうございます。旭月です。
同じ数字を何度も書く手間が減って、家でゆっくり飯を食べられた。
金目がしたことと、店主が喜んだこと。その少しの違いから、この物語は始まります。
まだ仕事もなく、あるのはノートに書いた名前だけ。
カナメ事務所と、そこに集まる人たちの物語に、お付き合いいただければ幸いです。




