第50話 追放しなくても、別れられます
公開評議におけるルーファス副ギルド長の失脚から、数か月の時が流れた。
中央冒険者ギルドは、嵐の後のような慌ただしさを経て、ようやく新しい秩序を取り戻しつつあった。
「おはようございます、ノエル室長!」
朝の光が差し込む第三審査室の扉を開け、ミラが元気な声で入ってきた。
彼女の胸元には、以前の「見習い」を示す銅色のバッジではなく、銀色に輝く『正式審査補佐官』のバッジが誇らしげに光っている。
「おはようございます、ミラ補佐官。……今日も朝から声が大きいですね」
奥のデスクで書類の山と格闘していたノエルが、顔を上げずに淡々と応じた。
彼の胸には、第三審査室の『責任者』を示すバッジがある。情報開示違反については、規律委員会が弁明と自主報告を確認し、暫定停止期間を算入した一か月の停職と再研修を決めた。ノエルはそれを終えて復職した。
復職後、最初に任されたのは、旅費の二重請求を疑われた小さな案件だった。原票を照合し、閲覧用の写しから不要な個人情報を伏せ、開示の決裁を待った。その後も通常案件を担当し、再発防止の実施状況と勤務実績の確認を含む後任審査を経て、この席に就いた。クララが異動して以来、ノエルはこの部署のトップとして、持ち込まれる膨大な案件の処理に追われていた。
「もう、室長ってば相変わらずですね。少しは新しくなった審査室の空気を楽しんでくださいよ」
ミラがふくれっ面で自分のデスクに向かうと、ちょうどそこへ、来客のノックの音が響いた。
「やあやあ、新しい第三審査室の主たちは、相変わらず忙しそうね」
優雅な足取りで入ってきたのは、現在はギルドの法務・制度設計の責任者となったクララだった。その後ろからは、しかめっ面で羊皮紙の束を抱えた現場監査課のバルトが続いている。
「クララ責任者。それにバルトさんも」
ノエルはペンを置き、立ち上がって二人を迎えた。
「クララさん、新しい部署の調子はどうですか?」
ミラが嬉しそうに尋ねると、クララは肩をすくめてみせた。
「ええ、上々よ。あの評議会の後、私たちが急ピッチで策定した三つの新制度……『証拠原本の完全保全義務』『調達局から独立した事故監査機関の設立』、そして『証言聴取時における不利益誘導の禁止』。これらがようやく現場に浸透し始めたわ」
七年前のノエルの事故から始まり、ルーファスが隠蔽を重ねてきた負の連鎖は、その制度の隙間を突いたものだった。
だからこそ、彼らは単に悪人を一人引きずり下ろすだけでなく、二度と同じ悲劇が繰り返されないよう、ギルドの仕組みそのものを変えたのだ。
「そっちは順調で結構だがな、こっちは地獄だぜ」
バルトがドサリと、抱えていた羊皮紙の束を机に投げ出した。
「俺たち現場監査課にも、『独立した試験手順を誰がやっても同じ結果が出るように書面化しろ』なんて無茶ぶりが来やがったからな。書類仕事なんて俺の柄じゃねえってのに、毎日ペンと睨めっこだ」
「文句を言わないの、バルト。あなたが第三者工房でやったような『物理的証拠』も、正しい記録として残す手順がなければ、また誰かに握り潰されてしまうわ」
クララがたしなめると、バルトは「へいへい、分かってますよ」と頭を掻いた。
「まあ、苦労した甲斐はあったさ。七年前の『銀環』の事故も、正式に『装備事故』として確定して、当時の遺族や、生き残ったあのエリアンって男にも、満額基準での給付金が遡及して支払われる手続きが終わったからな」
「……そうですか」
ノエルは小さく目を伏せ、頷いた。
あの日の対面以来、ノエルはエリアンと会っていない。だが、ギルドが奪った彼らの正当な権利を取り戻すことはできた。失われた時間は戻らなくても、それは確かな償いの一歩だった。
「個別の事案も、少しずつ決着しているわ」
クララが手元のメモを確認しながら言った。
「『白鷲』のレオの件は、組織内通不成立で決着。反復する無許可接触については個別処理の軽い罰則で済んだわ。『鉄の盾』のケイル副隊長や、彼に圧力をかけた保険担当者は、偽造と強要の罪で相応の処分を受けた。そして『蒼冠』のスポンサー損失は、調達局の欠陥装備によるものとして、契約上の免責が確定した」
これまでの事件に関わった者たちの運命も、それぞれが負うべき『正しい責任』の形へと収束していた。
「エリアン氏の虚偽陳述も、圧力の事情を含めて別に審査している。給付を受ける権利とは切り離してね」
ノエルは頷いた。自分の警告記録と同じように、それも消さずに残る。
「それにしても、ノエル」
クララは少しだけ呆れたような目で、ノエルのデスクに積まれた書類の山を見た。
「あなたは本当に物好きね。七年前の冤罪を晴らして、あれだけの功績を立てたんだから、評議会直属の監査室長みたいな、制度の見直しに専念する道もあったはずなのに。どうしてわざわざ、一番泥臭くて面倒なこの『第三審査室』に残る道を選んだの?」
ノエルは少しだけ手を止め、自分が座っている椅子を見つめた。
「……私は、自分や誰かの過去を清算するためだけに、審査官になったわけではありません」
ノエルは静かに、しかし迷いのない声で答えた。
「毎日ギルドの窓口にやって来る、追放届や不当な責任の押し付け。その裏にある小さな嘘や悲鳴を拾い上げ、事実を事実として記録に残す。……それができるのは、現場の審査官だけです。私はこれからも、正しい記録を作る側に立ち続けたいのです」
クララが制度を作り、バルトが現物を確かめる。その仕組みを、窓口へ来た一人に届かせる仕事がある。
現場の泥の中で、数字と時系列を追いかけ、一つの真実を証明すること。それが、ノエル・ヴァイスという男の生き方だった。
「……ふふっ。先輩らしいですね」
ミラが嬉しそうに笑った。
「ええ、まったくね。それじゃあ、私たちは自分の仕事に戻るわ。せいぜい現場で頑張りなさい、ノエル室長」
「ええ。クララさんも、バルトさんも」
二人が審査室を出て行くと、再び部屋には静寂と、紙をめくる音だけが戻ってきた。
「さて、ミラ補佐官。次の案件の申請書をお願いします」
「はいっ! ええと、次はですね……」
ミラが書類を手に取ろうとしたその瞬間。
バンッ! と乱暴な音を立てて、第三審査室の扉が開かれた。
「おい、審査官! 追放の手続きをしてくれ!」
怒鳴り込んできたのは、重装備に身を包んだ大柄な剣士だった。その後ろには、険悪な顔をした魔法使いと、そっぽを向いている盗賊の姿がある。
「どうしました? 落ち着いて状況を説明してください」
ミラが慌てて対応に出るが、剣士は机をバンバンと叩いて息巻いた。
「状況もクソもあるか! 俺たちパーティ『赤き狼』は、今日をもってこいつを追放する!」
剣士が親指で後ろの盗賊を指差す。
「こいつは無能だ! 態度もデカいし、飯の食い方は汚いし、そもそも俺たちとは反りが合わねえ! 顔を見るのも嫌だ!」
「俺だって嫌だよ! お前らみたいな脳筋どもと、これ以上一秒だって一緒にいたくねえ!」
盗賊も負けじと怒鳴り返し、魔法使いも「もう限界です! 解散! 絶対に解散!」とヒステリックに叫んでいる。
要するに、ただのパーティ内の人間関係の崩壊だった。
ノエルは三人の前へ進み、空いている椅子を示した。
「確認します。三人とも、今のパーティを終えることには同意しているのですね」
「当たり前だ!」
「一秒でも早くね」
「そこだけは全員一致です」
魔法使いが言うと、残る二人も同時に頷いた。互いを見て、すぐにそっぽを向く。
ノエルの目元が、少しだけ和らいだ。
「……単に互いの性格が合わず、別れたいという理由でしたら」
ノエルはデスクの引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出し、剣士の前に差し出した。
「証拠は不要です。こちらをお使いください」
「あ? なんだこりゃ」
「『合意解散』の申請用紙です」
ノエルは淡々と、しかし確かな優しさを込めて説明した。
「冒険者は自由にパーティを離脱できます。互いに合意して別れるのであれば、責任の立証も、誰かを貶める嘘の証言も必要ありません。既得報酬を精算し、即座に契約を終了できます。……追放などしなくても、あなた方は別れられます」
剣士と盗賊はポカンと顔を見合わせた後、「なんだ、それでいいのか」「それなら俺も異議はねえ」と毒づきながら、用紙を引き寄せた。ミラは報酬と共有装備の精算欄を示し、それぞれの取り分を三人に確認してから署名を求めた。
いがみ合いながらも、彼らはギルドが定めた自由なルールの下で、互いに不要な傷を残すことなく、新たな道を歩き出すのだ。
「……一件落着、ですね」
ミラが微笑みながら言うと、ノエルは受理した書類に『第三審査室』の正式な承認印を押し、静かに頷いた。
「ええ。記録は正常に処理されました」
窓から吹き込む風が、机の上の書類を軽く揺らす。
明日もまた、この部屋には様々な嘘と真実が持ち込まれるだろう。
だが、ノエル・ヴァイスはもう迷わない。彼の横には信頼できる相棒がいて、手元には事実を刻み続けるペンがあるのだから。
「さあ、ミラ補佐官。次の案件を進めましょう」
「はい、室長!」
冒険者ギルド追放審査官。
その机には今日も、別れたい人たちがやって来る。
誰かを悪者にしなくても開ける扉を、一つずつ確かめるために。




