兄の違和感
エドワルドは、隣国の村を焼いて戻って来た。
砦の門が軋みながら開く。
黒煙の匂いが、まだ鎧に染み付いている。
兵たちも疲労の色を隠せない。だが勝った側の顔をしている。
追撃に成功し、敵を国境の向こうへ押し返したのだ。
門前で待っていたクラウスは、弟の姿を見てまず――
ほっとした。無事だった。
それが何よりだった。
「戻ったか」
「ああ」
短い返事。
それだけで、二人の間には十分だった。
クラウスは、わずかな違和感を覚えた。
エドワルドの目。疲労しているのは分かる。
鎧も傷だらけだ。
だが――
何かが、薄い。感情の色が、ひどく薄い。
「敵は?」
「国境の向こうへ押し返した。しばらくは来ない」
淡々としている。
戦の直後にしては、妙に整い過ぎている声だった。
「……そうか」
クラウスは深くは問わなかった。
戦の後だ。人は、削れる。
憔悴しているのだろう。
きっとそうだ。
「兵を休ませろ」
振り返り、命じる。
「全員、温かい食事を取らせろ。交代で休息だ。怪我人はすぐ医療班へ」
兵たちが安堵の息を吐く。
エドワルドも馬から降りた。
その動きは静かで、無駄がない。
まるで作業を終えた職人のように。
「エドワルド」
「何だ、兄上」
「お前もだ。休め」
「……俺は」
「休めと言った」
少しだけ、声を強める。
エドワルドは一瞬、視線を逸らした。
「……分かった」
素直だった。
それもまた、クラウスには妙だった。
昔なら。
もっと言い返したはずだ。
もっと理屈を並べたはずだ。
今は――ただ、従う。
クラウスはその背を見送った。
夕陽が差し、砦の石壁が赤く染まる。
「……」
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
だが首を振る。
戦の直後だ。誰だって、変わる。
そうだ。きっと。そういうことだ。
クラウスは空を見上げた。
煙はもう、こちら側にはない。
弟の中に、何かが燃え続けているような。
そんな気がしてならなかった。
その夜。
砦の一室で、エドワルドは鎧を外し、壁にもたれかかっていた。
はぁ〜……。長く、息を吐く。
「流石に、疲れたな……」
身体ではない。神経が、だ。
一つの村を焼いた。それは報復ではない。
脅しでもない。
「……抑止だ」
自分に言い聞かせる。
一つ焼けば、相手は萎縮する筈だ。
次に踏み込む時、必ず思い出す。
――あの炎を。
「このまま引いてくれれば、それで良い」
それが本音だった。
こちらから攻め込むつもりは無い。
奪うつもりも無い。
守る。ただ、それだけだ。
ふと、視線が落ちる。握り締めた拳。
「……守る、か」
俺の知る未来。
いや――前世の記憶。
あの時は、防ぐだけだった。
後手に回り、削られ、奪われ、最後は――
処刑台。
「……かなりズレたな」
何度目だ、この感覚は。
王政の崩壊。隣領の消滅。侵攻の早まり。
全部、違う。
俺が動いたせいか。
それとも、元から違っていたのか。
「もう、未来は参考にならないな」
頼れるのは、自分の判断だけ。
そして。
「更に気を引き締めないと……」
首を、掻かれる。
その言葉が、やけに生々しく響いた。
油断した瞬間に終わる。
外からだけではない。内からも。
民も。兵も。味方も。
「……」
目を閉じる。
今日、燃え上がった村の炎が、脳裏に浮かぶ。
あれで、守れるのなら。何度でもやる。
それを何度も繰り返した時。
俺は、まだ“守る側”でいられるのか。
静かな夜だった。
砦の外では、兵の交代の足音だけが響いている。
エドワルドは、ゆっくりと目を開いた。
「……まだだ」
まだ、引き返せる。
まだ、守るためだと言える。
そう思い込むように。
彼は再び、深く息を吐いた。




