静寂の向こうの牙
夜の森は、重い。
月は雲に隠れ、視界は暗い。
湿った土の匂い。踏み締める足音すら吸い込まれていく。
「エドワルド様。そろそろ国境です」
前方を進む斥候が、低く告げた。
「その様だな」
木々の隙間から、遠くに灯りが見える。
規則的に並ぶ小さな火。
「敵は……」
レオンが目を細める。
「兄上が大分、とっちめましたからな」
「そうだな」
エドワルドは小さく笑う。
「兄上のやり方だったら、かなりイラついているだろう」
落とし穴。遅滞戦術。擬装村。
兵を弄ばれた側は、間違いなく怒っている。
「……あれが本隊か?」
森の向こうに、テント群が見える。
規模は中隊規模以上。
いや、それ以上かもしれない。
「さて」
エドワルドは静かに言う。
「目の前にテントが見えるが、如何する?」
レオンは即答した。
「火矢でやりますか」
一瞬の沈黙。
「……そうだな」
敵の規模を測る。警戒度を見る。
反応速度を見る。
「一撃のみで?」
「そうだ。一撃放って様子を見る」
「了解」
クロスボウに布を巻いた矢を装填する。
油を染み込ませ、火を点ける。
赤い火が、闇に揺れた。
「距離、問題なし」
「風、左から」
「いける」
レオンが構える。
「……撃て」
ヒュン——
火矢が闇を裂いた。
次の瞬間。
ドォン!
テントの一つが炎を上げる。
一瞬の静寂。
そして——
「敵襲!!」
怒号が夜を裂いた。
松明が一斉に灯る。
鎧の音。
馬の嘶き。
だが。
「……早いな」
エドワルドの目が細まる。
敵の動きが、早すぎる。
散開。弓兵展開。中央集結。
混乱ではない。
即応だ。
「精鋭ですな」
レオンが低く言う。
次の瞬間。
シュッ!
森の枝に矢が突き刺さった。
「っ!?」
こちらの位置を、読んでいる。
「散開!」
エドワルドが叫ぶ。
二十名が一斉に左右へ跳ぶ。
直後。
矢の雨。
「……完全に待ち構えていたな」
レオンが歯を食いしばる。
炎の向こう。
鎧の一団が整然と並ぶ。
中央から一騎、前へ出た。
重装。黒鉄の鎧。赤い羽根飾り。
声が響く。
「ネズミが迷い込んだかと思えば——」
低く、落ち着いた声。
「グレイスの小僧か」
エドワルドの背筋が冷える。
「……俺を知っている?」
男が笑う。
「罠を張る兄と前へ出る弟!報告は受けている」
つまり——
完全な精鋭部隊。しかも情報も握っている。
「撤退ですな」
レオンが囁く。
「いや」
エドワルドは目を逸らさない。
「少しだけ、測る」
「正気ですか」
「一瞬だ」
黒鎧の騎士が剣を抜いた。
「捕らえろ」
その瞬間。
敵の弓兵が動く。
「撃て!」
エドワルドも叫ぶ。
クロスボウが唸る。
ドスッ!
一人の騎士が馬から落ちる。
敵が一瞬、止まる。
「……クロスボウか」
黒鎧が低く呟く。
「面白い」
次の瞬間。
敵の騎兵が突撃してきた。
森の中を、恐ろしい速度で。
「撤退!」
エドワルドが叫ぶ。
二十名が一斉に後退する。
矢が飛ぶ。枝が折れる。足音が迫る。
「左へ!」
レオンが誘導する。
森の奥へ。
事前に確認していた退路へ。
だが。
背後から声。
「逃がすな!」
精鋭で無駄がない。
追撃も整然としている。
「……くそ」
エドワルドが歯を食いしばる。
これは、ただの侵攻軍ではない。
王都崩壊後に再編された“選抜部隊”。
「……兄上の罠にかかった連中とは格が違うな」
レオンが笑う。
「やっと本物ですな」
矢がかすめる。
一人が倒れる。
「起きろ!」
引きずり上げる。
森を抜けるまで、あと少し。
背後で黒鎧の声が響いた。
「次は逃がさんぞ、グレイスの若造!」
その声が、耳に残る。
二十名は、辛うじて森の深部へ滑り込んだ。
追撃は止まった。
国境手前、敵は深追いしない。
「……はぁ……」
荒い息。
一人負傷。
一人軽傷。
「撤退成功……ですな」
レオンが息を整える。
エドワルドは振り返る。
遠くで炎がまだ揺れている。
「……精鋭部隊。間違いない。本隊とは別に動いている」
これは、西の国は、本気だ。
そして。
「俺を、見ている」
名指しされた。
つまり。
次は——狙われる。
森の闇の中、エドワルドは静かに言った。
「戻るぞ」
この偵察は、成功だ。敵は想像以上だった。
戦は、もう一段階上へ進んだ。




