番外編 修理代の行方
停戦が発効してから、十日が経っていた。
北方戦線後方司令部の民間ドック区画は、混んでいた。撤退で南へ流れた船が、折り返しの荷を待って並んでいる。北の航路が静かになった分、ドックだけが騒がしくなった。
戦争は終わっていない。北の戦線が一年、止まるだけだ。それでも、ドックに並ぶ船の積み荷は、避難の荷から帰還の荷に変わりつつあった。荷の名前が変わっただけで、働く者の声は少し違って聞こえた。
その一画に、民間船は係留されていた。船齢は帳簿の上で三十年。実際の数字を、ノア・カザンは誰にも教えていない。
ノアは、船体の右舷に沿って歩いていた。
継ぎ板が並んでいる。
一番古い継ぎは、氷晶回廊のものだ。機雷の撒かれた細い航路で、遅い船を曳いた。船体の骨格まで歪んで、ドックの工員に「廃船にした方が安い」と言われた。直した。安いかどうかは、船主が決めることだ。
その少し先の丸い塞ぎ痕は、青の縁の向こうの艦隊戦で空いた穴だ。あの時は補給母艦の影に入れてもらって、沈まずに済んだ。穴の縁の溶接は急ごしらえのままで、いまも指でなぞると段差が分かる。
細かい傷は、数えるのをやめた。シュテルン環礁の分だけでも、両手の指では足りない。
主機には、雪線の凍結の癖がいまも残っている。低温で一度固着した機関は、完全には元に戻らない。古い船は、古い船なりの治り方をする。
操舵席の脇には、古い星図入れがある。紙の星図なんぞ、もう何年も広げていない。捨てる理由もなかった。中に入っているのは、使い道のなくなった航路図が数枚。閉鎖された鉱山航路。封鎖の解けないままの旧商業航路。先に通った者しか知らない道は、軍の地図には載らない。載らない道の記録を、ノアはそこに溜めてきた。
船首の側から、ドックの主任が降りてきた。年配の男で、首に掛けた布で手を拭きながら歩いてくる。
「船長。見積もりが出た」
「聞こう」
「全部直すと、中古の船がもう一隻買える」
「半分でいい」
「どの半分だ」
「走る方の半分だ」
主任は笑いもせずに頷いて、板に挟んだ見積書をノアに渡した。
「どこから手を入れる」
「機関からだ。外見は後でいい」
「外殻の溶接も、そろそろ寿命だぞ」
「走っている間は剥がれん」
「お前さんの船は、いつもそれだ」
付き合いの長い男だった。氷晶の継ぎ板を当てたのも、青の縁の穴を塞いだのも、この男の班だ。船の傷を、船主の次によく知っている。
主任は布を首に掛け直して、足場の方へ戻っていった。数字の欄を見て、ノアは口の端を曲げた。払えない額ではない。払われていない額がなければ、の話だが。
懐の通信端末が鳴った。
軍からの文書だった。
「戦時徴用解除に伴う最終精算の件。下記日時に、北方戦線後方司令部経理担当室まで出頭されたい」
ノアは、文面を二度読んだ。
「最終、と来たか」
最初の請求を出したのは、氷晶回廊の後だ。査問の議場でも言った。氷晶の北へ行く時も言った。その後は、言うのが癖になった。返ってくる言葉は毎回変わった。確認中、精査中、調整中、枠組みの協議中。
変わらなかったのは、金の方だ。一度も来なかった。
一度だけ、惜しいところまで行った。外務省と監察局が枠組みとやらを作り、支払いの道筋が付いたはずだった。道筋は付いた。金は来なかった。道と金は別々に動く。商売を始めた年に覚えたことだが、帝国相手でも変わらなかった。
ノアは古い船長服の襟を直し、請求書の控えの束を上着の内側に押し込んだ。
束は、指が回らないほど厚くなっていた。
-
経理担当室は、司令部の奥の狭い一室だった。
机を挟んで、若い経理士官が座っていた。襟元の階級章は中尉。机の上には、ノアが出し続けた請求書の写しが、几帳面に年代順で並べてあった。
壁際にはミリア・エーレンベルク中尉が立ち、小型端末を開いていた。記録係だという。
「ノア・カザン船長。民間船の戦時徴用解除に伴う、最終精算を行います」
「ようやくだな」
「請求は、十二件。受理しています」
「長かったな」
「補足します。請求書の書式が、七件目から軍の正規書式に変わっています。受理の処理は、そのため途中から早くなっています」
「途中で、書き方を教わった」
ノアは壁際へ目をやった。ミリアは、端末から顔を上げなかった。
「で、いくら払う」
経理士官は、手元の一枚をめくった。
「順に確認します。まず、請求第十二号。艦内消耗品および医療資材の補充費。これは承認します」
「そこは通るのか」
「消耗品は、消耗の記録があります」
「穴より先に、包帯が通るとはな」
経理士官は、表情を変えずに次の一枚をめくった。
「請求第五号。南端の補給拠点群からの撤収時における、曳航装置の損傷修理費。戦闘損傷として請求されています」
「敵前で二隻曳いた。装置が歪んだ」
「当該作戦の公式記録に、戦闘の記載がありません」
ノアは、相手の顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。
「記録上、当該行動は補給支援作戦です。戦闘損傷の項目は、戦闘の記録がある作戦にのみ適用されます」
「砲撃の下で曳いたんだがな」
「砲撃そのものは、観測記録にはあります。ですが、観測記録は経理の根拠書類に含まれません」
声に悪意はなかった。規則を読み上げる声だった。悪意のない規則ほど、手強いものはない。
「請求第七号、第八号、第九号。いずれも同様です。当該作戦は、いずれも補給支援作戦または撤収作戦として記録されています」
「全部、砲の下で働いた分だ」
「記録上は、小競り合いです」
「小競り合いで、船の装置は歪まんよ」
「歪んだ事実は、確認しています。歪ませた戦闘が、記録にありません」
戦場に名前がなければ、傷にも名前がつかない。塞いだ穴は船体に残っているのに、空けた砲撃はどこにも残っていなかった。
「請求第三号。青の縁の外の艦隊戦における、外殻の損傷」
「あれは記録に残っているだろう。双方の艦隊がぶつかった」
「残っています。当該作戦の記録には、艦隊接触の記載があります」
「なら通るな」
「《リベルテ》は、当該作戦の編成記録上、民間連携です。非戦闘配置です。戦闘損傷の項目は、戦闘参加艦にのみ適用されます」
「参加していない船に、穴が空くか」
「記録上は、原因不詳の損耗です」
ノアは、天井を仰いだ。戦闘がなければ払われず、戦闘があれば参加していないことになる。どちらに転んでも、金の出口だけが塞がっている。
「請求第四号。青の縁の外の救難応答における、外殻の擦過および通信装置の修理費」
「公開された救難信号のやつだ。罠と分かっていて行った」
「当該作戦の記録は、民間救難応答です。戦闘の記載が——」
「分かった。先へ進めてくれ」
途中から、ノアは先回りして頷くようになった。型が読めてしまえば、腹も立たない。立たないことに、少しだけ腹が立った。
「請求第二号。氷晶の北側の救出行における、曳航索および係留装置の交換費」
「あれは軍指揮下に入った後だ。文句はないだろう」
「徴用期間中である点は、確認しています。ただし、請求額の算定根拠が民間ドックの見積もりです。軍の単価表と一致しません」
「軍の単価で、民間の船は直らんよ」
「単価表に、民間船の項目がありません」
「ないなら、どうなる」
「該当項目なし、として保留に……」
「おい」
「……算定根拠の再確認、とさせてください」
経理士官の語尾が、初めて少し揺れた。
「請求第十号。同盟軍宙域における航行分の、燃料割増および危険手当相当」
「《セレナ》の時だな。敵さんの庭まで行った」
「当該行動は、外務省主導の人道救援です。軍の徴用任務に該当するかどうか、所管の確認が必要です」
「行けと言ったのは軍で、書類を書いたのは外務省か」
「整理としては、そうなります」
「どこまでも棚が細かいな」
「棚が細かいので、帝国は回っています」
皮肉でも開き直りでもなく、本気でそう信じている声だった。ノアは反論を呑み込んだ。棚の細かさで回っている国が、棚のない金だけ払えないでいる。
「過去に、修理代の枠組みは三度、協議されています」
経理士官が、綴りの後ろの方を開いた。
「知ってる。俺が三度、催促したからだ」
「外務省と監察局の間で、支払いの枠組み自体は合意されています。ただし、支出の根拠となる項目が、最後まで確定しませんでした」
「つまり、払う気はあったが、払う棚がなかった」
「概ね、その通りです」
「棚がないなら、作ればいいだろう」
「棚を作る権限は、経理にはありません」
経理士官は、そこで一度手を止めた。それから、別の綴りを引き寄せた。
「それから、もう一点。確認事項があります」
「まだあるのか」
「雪線宙域における、軍用曳航船の救難活動費用について。受益者は《リベルテ》です。規則上、徴用契約外の救難については、受益者への費用請求が可能とされています」
ノアは、しばらく黙った。
「……俺に、請求書を出すのか」
「相殺項目として、計上が可能です」
「あの時、借りができたとは言った。請求書が来るとは聞いてない」
「規則上は、可能です」
「規則上はな」
ミリアが、端末を閉じた。
「監察局に、確認します」
-
廊下の長椅子で、ノアは待たされた。
ミリアが通信を終えて、隣に立った。端末の画面には、古い日付の並んだ一覧が出ている。
「中尉。あんた、いつから経理の応援までやってる」
「記録係です」
「記録ねえ」
「請求が届くたびに、該当する観測記録と作業記録を照合して、保管していました」
「……いつからだ」
「最初の請求からです」
ノアは、何か言いかけて、やめた。
「上のお人らは、知っているのか。あんたがそんな照合をしていたのを」
「報告はしていません。記録の保管は、通信参謀の業務の範囲です」
「広い範囲だな」
「広く読めば、です」
この中尉は、あの少佐の隣で何年も帳尻を合わせてきた。業務の範囲を広く読む癖が先か、あの少佐の隣に立ったのが先か。どちらでも同じことだ、とノアは詮索をやめた。
「役に立つのか、そんなもの」
「今日、立ちます」
言い切って、ミリアは端末に目を戻した。廊下の先で、扉の開く音がした。
-
経理担当室に戻ると、すでに先客がいた。
グライフ大佐が、片手に冷めたコーヒーの容器、もう片方に分厚い綴りを抱えて、経理士官の向かいに座っていた。
「久しいな、カザン船長」
「軍の建物の中であんたに会うと、ろくなことがない」
「今日は例外だ」
グライフは、綴りを机に置いた。表紙の文字は掠れていた。
「戦時徴用補助船舶規則。旧い規則だが、廃止の記録がない。書庫で半日掘った」
経理士官が、綴りを引き寄せて読み上げた。
「旧第九条。徴用期間中の補助船舶の損耗は、損耗の事実と徴用任務との関連が記録により確認できる場合、戦闘記録の有無にかかわらず、損耗補填の対象とする」
「戦闘損傷では払えん。なら、損耗で払えばいい。棚は、昔の人間がもう作っていた」
「……この条文は、現行の経理規程に載っていません」
「載っていない。だが、廃止されてもいない。生きている条文だ」
「確認します」
「確認しろ。それから、《アイゼン》の件は取り下げることだ」
グライフは、コーヒーを一口飲んだ。
「救難の費用を助けられた側に請求した前例を作ってみろ。北方の民間船は、次から救難信号を出す前に財布の中身を数えるようになる。規則の目的に反する。むしろ感謝状を検討した方がいい。あの船がその後、何隻曳いたか数えたか」
経理士官は、綴りと請求書の束を交互に見た。それから、わずかに肩の力を抜いた。
「相殺項目は、取り下げます。……私も、計上したい項目ではありませんでした」
「だろうな。お前さんの顔には、まだ職務と良心の境目が残っている。経理に向いている顔だ」
それから、グライフはノアの方へ向き直った。
「ところで船長。お前さんの請求書は、監察局では、ちょっとした名物だった」
「読んでいたのか」
「読むだけはな。ここでは砲弾の代わりに稟議書が飛ぶ。飛んでくる弾の中では、筋のいい方だった」
「筋がよくて、何年も払われんのか」
「筋のよさと、払われる早さは、別の話だ」
査定は、組み直された。
戦闘損傷ではなく、損耗補填。名前を変えれば、同じ穴に金が出る。あとは、損耗の事実と任務との関連を、一件ずつ記録で立証する作業だった。
ミリアの端末から、記録が呼び出されていく。
報告書の応答欄の写し。修理艦の作業記録。観測網の航跡記録。第七支援隊の作戦記録の末尾に並ぶ数字。
「請求第三号。外殻の損傷。日付、座標、当該時刻の《リベルテ》の配置記録、補給母艦の陰への退避記録。揃っています」
「請求第五号。曳航装置の損傷。機関調整中の民間船二隻を曳航した記録、曳航指示の通信記録。揃っています」
「請求第七号。機関過負荷の整備費。雪線群以北の境界宙域で、曳航しながら予定の七割の速度で枝航路を抜けた記録。揃っています」
「請求第二号。曳航索の交換。軍指揮下編入の日付、当該任務の曳航記録。算定根拠には、《フォルク》の同等作業の工数を併記します」
経理士官が、端末の画面と単価表を見比べた。
「……工数の併記があれば、通せます」
穴の一つずつに、日付と座標がついていく。
ノアは、黙ってそれを見ていた。塞いだ時には名前のなかった傷が、書類の上で一つずつ名前をもらっていく。妙な気分だった。船体に板を当てた時より、いまの方が、修理が終わっていくように見えた。
「十二件中、十一件。記録との突合、完了です」
ミリアが、端末から顔を上げた。
「最後の一件は」
経理士官が、一番下の請求書を取り上げた。一番古い一枚で、紙の端が黄ばんでいた。
「請求第一号。氷晶回廊における船体骨格の損傷。……これは、徴用契約の開始前です」
「あの時は、頼まれて曳いたんだ」
「依頼の記録が、ありません。《リベルテ》の軍指揮下への一時編入は、この後の、氷晶の北側の救出からです」
グライフが、綴りをめくった。めくる手が、途中で止まった。
「……旧第九条は、徴用期間中の損耗に限る、か」
「契約関係が確認できないため、保留とします。却下ではありません。当時の依頼の記録が確認でき次第、再査定の対象になります」
「依頼の記録、ね」
ノアは、あの航路を思い出していた。機雷の間の細い道で交わした言葉は、通信記録に残るような形をしていなかった。曳いてくれ、と誰かが言ったかどうかさえ、もう確かではない。前に遅れた船がいて、後ろに《リベルテ》がいた。それだけのことだった。
怒るより先に、笑いが出た。
「一番古いのが、一番残るわけだ」
「保留は、消えません。記録として残り続けます」
ミリアが言った。慰めではなく、事実の確認の声だった。
「残るなら、上等だ」
-
精算書類には、徴用元の指揮官の確認署名が要るということだった。
レオン・クラウゼン少佐の執務室は、書類の箱で半分埋まっていた。停戦に伴う指揮系統の縮小で、部屋そのものが整理の途中らしい。机の上だけが、いつも通りに片付いていた。
「カザン船長」
「少佐。あんたの署名で、ようやく金が動くそうだ」
「署名します」
レオンは、ミリアがまとめた損耗一覧表を机に置いた。十一件の損耗が、日付と座標と作戦名の順に並んでいる。
署名の前に、レオンはその一覧を上から順に読んだ。飛ばしていないのが、紙をめくる速さで分かった。
「氷晶から、ですね」
「帳簿の上ではな。雪線の分は、こっちが借りている側だ」
「《アイゼン》の費用は、相殺されませんでした」
「監察局の大佐殿のおかげでな。危うく、助けられた金まで払うところだった」
レオンは、一覧の途中で手を止めた。
「雪線で初めてお会いした時から、ずいぶん曳いていただきました」
「軍はいつも、船に二つの仕事をさせたがる」
「三つの時も、ありました」
「自覚はあったか」
ノアは短く笑った。レオンは笑わずに、一覧の先へ目を戻した。
「青の縁の外。外殻の損傷」
「あの穴はもう塞いだ。段差は残ったがな」
「段差は、残ります」
事務的な相槌とも、別の何かとも取れる言い方だった。ノアは聞き流すことにした。
「シュテルン環礁。損耗、軽微」
「あの規模の艦隊戦で、軽微で済んだんだ。後尾に置いてもらったおかげだ」
「船団の後尾が、一番計算の合う位置でした」
短い間。
「傷の一覧なんぞ、書類になったのは初めて見た」
「航海日誌と、同じです」
レオンは、ペンを取った。
「どこを、いつ、誰と通ったか。請求書は、戻った船にしか出せません」
ノアは、すぐには返さなかった。
沈んだ船は、請求を出さない。氷晶で曳いた船の何隻かには、もう請求を出す者がいない。塞いだ穴の一覧は、塞ぐところまで帰り着いた側の記録だった。
「……署名してくれ。話が長くなる前に」
レオンはペンを走らせ、確認欄に短く書き加えた。
損耗の事実、確認済み。記録の通り。
「事実は、損耗です」
「砲で空いた穴でもか」
「経理上は」
ノアは、鼻を鳴らした。帝国の書類は、最後まで戦闘とは書かなかった。書かないまま、金だけは動くことになった。それで十分だと言えば嘘になるが、十分でないと言うほど、若くもなかった。
「第七支援隊は、どうなる」
「縮小です。コア艦は北方の警備線に残ります。《エルベ》と《ラザレット》には、帰還輸送を支える案が出ています」
「医療艦が帰り道の世話か。いい使い方だ」
「医療艦の仕事は、変わりません。行き先が変わるだけです」
「葬送艦隊も、店じまいか」
「公称は、第七支援隊です」
「知ってる。からかっただけだ」
部屋を出る前に、ノアは振り返った。
「停戦の条項に、民間人の帰還というのがあるそうだな」
「双方で、約三万名です」
「運ぶ船が要るだろう」
「外務省側で、民間船の募集が始まっています。案内を送らせます」
「考えとく。金払いは」
「外務省です。軍の経理よりは、早いと聞いています」
「比べる相手が悪い」
ノアは扉に手をかけ、思い出したように言った。
「あんた、次の任地は」
「まだ、通達が来ていません」
「来たら教えてくれ。金払いのいい客なら、また考える」
「経理の確かさは、保証できません」
「知ってる。長い付き合いだ」
ノアは、笑って付け加えた。
「氷晶の分は、残っているんだろう」
「保留のまま、記録に残ります」
「なら、修理代の話は、また後でな」
「経理に、伝えておきます」
-
ドックに戻ると、《リベルテ》の周りに工員が戻っていた。
それから数日、ノアは機関の整備に立ち会って過ごした。雪線の癖の残る主機は、開けてみれば思ったより素直だった。固着の痕を均して、配管を二本替えて、冷却系を組み直す。古い船は、直す者が決めた順番で治っていく。
隣の整備区画には、駆逐艦が入っていた。舷側の足場の上に、ユリウス・ハルトマン大尉の姿が見えた。向こうも気づいて、軽く手を上げた。
「船長。うちの整備が終わるまで、隣です」
「軍艦の隣は、気詰まりでいかん」
「うちの砲は、しばらく撃ちません」
「そいつは何よりだ」
「《ヴァイス》は、整備が明けたら北方の警備線に出ます」
「撃たない仕事か」
「性に合っています」
それだけ言って、互いに自分の船に戻った。それで足りる程度には、同じ航路を走ってきた。
支払通知が来たのは、その数日後だった。書面で届くものと思っていたら、経理士官が自分でドックまで降りてきた。
「直接お持ちしました」
「経理が出歩いていいのか」
「外出の届けは、出してあります」
通知は三枚。十一件分、支払時期は来月。冒頭に一行、根拠が書いてあった。戦時徴用補助船舶規則、旧第九条に基づく損耗補填として。
戦闘、の二文字は、最後までどこにもなかった。長い航海の割に、薄い紙だった。
経理士官は、もう一通の封筒を差し出した。
「それから、これを。感謝状の起案が、通りました。北方戦線における、民間船の救難および曳航協力に対して、です」
「……金は付くのか」
「付きません」
「なら、紙の重さだけだな」
「紙一枚です」
ノアは封筒を受け取り、中を確かめずに上着へ入れた。
「監察局の大佐殿の入れ知恵か」
「起案は、私です」
経理士官は、それだけ言って、受領の署名を求めた。署名を確かめると几帳面に綴りへ挟み、一礼して戻っていった。最後まで、規則を読み上げる声のままだった。
外務省からの案内は、その前日に届いていた。停戦条項に基づく民間人帰還輸送、参加民間船の募集。報酬の欄の数字は、軍の徴用費より一割よかった。
帰る者を運ぶ仕事だ。撤退で南へ走った航路を、今度は逆向きに走ることになる。悪くない。どうせ船は、北の航路を覚えている。
ドックの主任が、足場の上から声を投げてきた。
「船長。残りの半分は、どうする」
「金が来てから考える」
「来るのか、今度は」
「棚は、もうあるそうだ」
主任は意味が分からなかったらしく、布で手を拭いて作業に戻った。それでいい。棚の話は、長くなる。
ノアは、請求書の控えの束から、一番古い一枚だけを抜き出した。黄ばんだ紙を畳み、操舵席の脇の星図入れの奥に収める。軍の地図に載らない航路図の、その下だ。載らない道と、払われない金は、同じ場所にしまっておくのがいい。
修理代の行方は、十一件まで決まった。最後の一件の行方は、まだ決まっていない。
決まらないものを一つ積んでいるくらいが、船はよく走る。
お読みいただき、ありがとうございます。
支払いが滞っていた《リベルテ》の修理代に、停戦を機に決着をつける話でした。
ここで一つ、お知らせがあります。 新作を連載開始しました。
『万年最下位の証券マン、異世界で『ハズレ』だけを買い続ける 〜誰にも評価されない者に賭け続けたら、大陸経済の支配者になっていた〜』
略称、異世界VCです。
https://ncode.syosetu.com/n1681mi/
(リンクの貼り方わかりません・・・)
それでは、また。




