赤い数字
こんなの書いてみたいを形にしてみました。
5/17追記
たくさんのリアクション、ブックマークありがとうございます。
皆さんに反応いただけると嬉しいものですね、とても励みになります。
毎話結構な分量になってしまうのですが、お付き合いいただければ幸いです。
5/28追記
サクサク読める程度の分量への調整や少し気になっていたところの修正をしていきます。
ストーリー自体の変更はありませんが、分割により話数が大幅に変更になります。
「敗北を想定した作戦案を提出します」
その一言で、艦隊司令部の空気が凍った。
作戦室の中央には、グリムワルト回廊の立体星図が浮かんでいる。
青い光点が帝国艦隊。赤い光点が自由星系同盟軍。
青は赤の三倍あった。
戦艦二百二十隻、巡洋艦六百四十隻、駆逐艦二千八百隻。補給船団、医療艦、修理艦、徴用輸送船を含めれば、第九遠征艦隊は一万を超える艦艇を連ねている。
数字だけを見れば、勝てる戦だった。
だからこそ、誰も負ける話を聞きたがらない。
「クラウゼン少佐」
艦隊司令官、ヴォルフラム・フォン・リーデン侯爵が、ゆっくりとこちらを見た。
銀髪を後ろに撫でつけ、胸元には帝国貴族院から贈られた勲章が並ぶ。帝都社交界では「星海の獅子」と呼ばれた男だ。もっとも、レオン・クラウゼンの知る限り、その獅子が勝った戦いは、敵より味方の数が多い時だけだった。
「君の所属はどこだったかな」
「帝国軍務省、第七後方参謀局です」
「敗戦処理の掃き溜めか」
室内に、忍び笑いが広がった。
誰も正面からは笑わない。ただ唇の端を歪め、視線を落とし、互いに目配せをする。
敗戦処理官という肩書は、勝利を誇る軍隊では侮蔑に近い。前線の将校は彼らを「死体勘定人」と呼び、貴族将官は宴席で「負け犬の帳簿係」と笑う。
レオンは表情を変えなかった。
「はい。負けた後に、何人を帰せるかを計算する部署です」
「縁起でもない」
リーデン侯爵は鼻で笑った。
「我々は勝つためにここへ来た。負ける準備をするためではない」
「勝つ準備と、負けた時の準備は矛盾しません」
レオンは星図に視線を移した。
「矛盾するのは、勝つ予定しかない作戦です」
今度は誰も笑わなかった。
作戦室の空気が、冷えた刃のように張りつめる。
「言葉には気をつけたまえ、少佐」
「失礼しました。では数字で申し上げます」
レオンは携帯端末から投影データを送った。
星図の端に、燃料残量、補給船団の現在位置、通信遅延、敵艦隊の推定移動速度、重力潮汐の安定域が表示される。
浮かんだ数字は華々しい勝利を語るものではなかった。
消費。
遅延。
損耗。
限界。
司令部の人間が見たがらない数字ばかりだった。
「主力は、現在の進軍速度を維持した場合、八時間後に補給船団の支援限界を超えます。十二時間後には、回廊内での反転機動が困難になります。十六時間後には、後方航路を遮断された場合の自力撤退率が三一パーセントまで低下します」
「敵は敗走中だ」
参謀長が苛立った声を出した。
「だからこそ危険です」
レオンは答えた。
「敵の撤退が綺麗すぎます。遅滞戦闘も、偽装残置機雷も、通信妨害もない。最短航路で奥へ進むことを望まれているように見えます」
「つまり、罠だと?」
「可能性は高いと判断します」
作戦室の隅で、通信参謀ミリア・エーレンベルク中尉がわずかに息を呑んだ。
二十代半ばの士官だった。軍服の襟元も結い上げた髪も、規律通りに整っている。士官学校を上位で卒業し、暗号通信と戦場中継網の専門課程を首席で修了した。第九遠征艦隊への抜擢は、貴族の縁故ではなく実力による。
ただ、その若さゆえに、彼女はまだ軍という組織の醜さを知らない。敗北が始まった時、誰から最初に見捨てられるかも知らない。
「可能性だと?」
リーデン侯爵が椅子から立ち上がった。
「我が軍は敵の三倍だ。陛下より賜った第九遠征艦隊だ。私がこの手で勝利を捧げるために、ここまで来たのだ」
「兵士は、閣下の戦果のために配置された数字ではありません」
「何?」
「死ねば、戻りません」
沈黙が落ちた。
リーデン侯爵の頬が赤く染まる。
「君は勇気と臆病を取り違えている。敗北を語る者は、勝利を掴めない」
「敗北を語れない者は、敗北に気づけません」
「もうよい」
侯爵が手を振った。
「その不快な敗戦案とやらを下げろ。第九艦隊は予定通りグリムワルト回廊を突破する。敵補給拠点を叩き、帝都に勝報を送る」
「撤退線の設定だけでも」
「下がれ」
短い命令だった。
それ以上の発言は、抗命と取られる。
レオンは一礼し、端末を閉じた。
誰もレオンを見なかった。
ただ一人、ミリア中尉だけが、星図に残された補給線の数字を見つめていた。
-
「少佐」
作戦室を出たところで、ミリアが追いついてきた。
通路の壁面には、帝国艦隊の航行データが流れている。白く輝く軍艦の列は、外から見れば壮観だった。星間航路を埋め尽くす装甲と砲塔。帝国の威光そのものだ。
その光景を前にすれば、多くの者は勝利を信じる。
あるいは、信じたがる。
「先ほどの試算ですが、本当に十二時間後に反転不能になるのですか」
「正確には、十二時間四十分後です」
「なぜ会議ではそう言わなかったのですか」
「四十分を聞いて安心する人間がいるからです」
レオンは歩みを止めなかった。
通路の窓外では、無数の艦影が星々を隠していた。
帝国第九遠征艦隊。壮麗な光景ではある。だがレオンには、それが棺桶の列に見えていた。
「司令部は聞きません」
ミリアが言った。
「でしょうね」
「では、どうするのですか」
「負ける準備をします」
「司令官命令に反します」
「まだ命令は出ていません」
レオンは端末を操作した。
「第七後方参謀局には、補給船団への安全勧告権限があります。戦闘命令ではありません。訓練名目で、医療艦の受け入れ区画を空けさせます。修理艦を退路側へ二光分移動させます。通信中継ブイを標準位置から三基ずらします。補給船団には通常航路から外れた待機点を指定します」
ミリアの顔色が変わった。
「それは撤退準備です」
「そうです」
「司令部に知られたら、軍法会議です」
「知られたら、ですね」
レオンは足を止め、窓の外の艦隊を見た。
「知られる頃には、必要になっています」
ミリアはしばらく黙っていた。
規律を重んじる目だった。命令系統を外れた行為への嫌悪。だが同時に、会議室で見た数字への疑念もある。
正しい命令と、正しい判断は、いつも同じとは限らない。
それを知るには、戦場で一度、人が死ぬところを見る必要がある。
「なぜ、そこまで負けることにこだわるのですか」
ミリアが聞いた。
レオンは答えなかった。
代わりに、窓外の星を見た。
そこには、八年前の戦場が重なっていた。
サリウス撤退戦。
帝国の公式記録では、勇敢な遅滞戦闘として処理されている。
実際には違う。
補給担当の参謀が撤退路の設定を求めた。だが前線司令部は士気を理由にそれを拒んだ。敵の包囲が始まった時、退避すべき医療艦は前線に近すぎ、補給船は逃げ遅れ、通信中継は敵の初撃で沈黙した。
救難信号は三千四百二十七。
救助できたのは百九十三。
レオンは当時、まだ中尉だった。
兄も、その戦場にいた。
最後に届いた通信は短かった。
『撤退命令はまだか』
命令は届かなかった。
誰も負ける準備をしていなかったからだ。
「勝利は上官が語ります」
レオンは言った。
「敗北は、死者数で残ります」
ミリアは、何も言えなかった。
続きが気になると思っていただけたら、☆☆☆☆☆で評価いただけますと幸いです。
ブックマークや感想などもいただけると励みになります。




