第六話
トクバ氏はすぐに戻ってきた。その手には六枚の万札が握られていた。
スーツの男性は、ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、と札を勘定し、
「六万円ですか・・・。まぁ、ええ、必要最低限ってところですかね」と言った。
そのような態度に対しても、トクバ氏は惨めに頭を何度も下げていた。その時、Pタートルは確かに見た。男性が通りの向かい側に立っている若者にニヤつきながらウィンクをしたのを。そして、気づいた。向かいの歩道に立っている若者が、先日200円をケチった節約上手の青年であるということを。Pタートルは、本当に驚いた人がそうなるように、口と目を大きく開いて唖然とすることしかできなかった。
バタン、と車の扉を閉める音でパーキング・タートルはようやく動き出すことができた。
「トクバさん!あそこ!あの人――」
壁に向かって突き飛ばされ、Pタートルは思わず目をつむった。開いた視界に映るのは、発進していく車とそれに向かって何度もペコペコと頭を下げるトクバ氏だった。車が曲がって見えなくなると、若者もそれに続くように歩いていく。
「ほら!あの人、この前の!」
Pタートルの指が追っていた若者もやがて見えなくなっていった。トクバ氏はいつの間にか彼に背を向けて歩き出している。しかし、どうやらあの若者を追いかけるつもりではなさそうだ。
「さっきの人ですよ!あの――」
「お前、俺があいつに騙されたとか思ってるんじゃないだろうな?違うぜ、騙されてやったんだよ。理由なんて、人間でもないお前に話したところで分かりっこないだろうがな」
彼は力なくそう呟き、去っていった。その背を呼び止めることは、不思議とPタートルにはもうできなかった。
その夜のこと。珍しく駐車場には一台の車も止まっておらず、知らない人ならば何を言われても、公園でも物置でも集会所でも、あるいはそういうコンセプトのカフェだと言われても、信じたに違いない。パーキング・タートルでさえ、ふと物思いから戻った時にそこがどこなのか分からなくなるほどだ。初めてホテルで寝泊まりしたときのような感覚に近いだろう。Pタートルは思考の二度寝に耽ってゆく。
今日はなんだか、どっと疲れた。嵐の日みたいだった。どうして僕が車に傷なんかつけなきゃならないんだ?論理的に、別に僕だって論理に明るいわけじゃないけど、論理的に考えれば分かりそうなもんじゃないか。客の車に何かあったらただじゃおかないって、何度も言われてきたんだもの。それに、トクバさんにしたってそうだ。騙されてやった、だって?そりゃあ、うっかり騙されることはあるだろうけど。騙されてやった?わけが分からない。そんなの、全く道理にかなってないじゃないか。やっぱり人間は――。
月明かりが現れた。夕方から夜にかけて空を覆っていた雲が流されていったのだ。少しずつ、少しずつ、もったいぶるように、雲は隠していた月を露わにし、とうとう月明かりは駐車場を真上から照らす。パーキング・タートルは堪らず詰所から転がり出た。ガジャン、とパイプ椅子が倒れる音。彼の顔に柔らかくて優しい色が重なる。空を見上げると、欠けたところの一つもない、大きな満月が浮かんでいた。やっぱり温かい。それが初めに出た感想だった。もう冬も終わりつつあるので、太陽や月の光からいろんなものを奪ってしまう、あの憎い冬の粒子たちはすっかり鳴りを潜めていて、そのために月明かりの温度を直に感じとれたのだろう。彼は体が勝手に動くのを止めることができなかった。気がつけば、駐車場の真ん中まで歩いていき、横になり、手足をすくめて猫のように丸まっていた。ああ、温かい、温かい。もともと思考に慣れていない上に、連日結論の見えないことについて考えていたからだろう、Pタートルはうつらうつらとし、気を失うように眠りに落ちていったのだった。
Pタートルが目を覚ますと、周りは一面真っ青だった。上下左右、どこを見ても青く、何も聞こえない。何かが艶やかにうねりながら素早く真横を通り過ぎる。今のは魚か?魚だったはずだ。そして、魚がいるということは、ここは海かもしれない。彼はそう思うと途端に嬉しくなって、闇雲に泳ぎだす。ここが本来、僕が生きる場所なんだ!しかし、すぐに違和感に気づく。水をかいている手に何の抵抗も感じないのだ。そして、口から鼻から、たくさんの水が入っているにもかかわらず、何の味もしないのだ。彼は動きを止めて笑う。そうか、僕は海につかったことさえないんだから、海水の味も水をかいたときの感覚も、分からなくて当然か。むなしさがこみ上げてくる。それが涙となってこぼれた。いや、本当にこぼれたのだろうか?体を包むハリボテの海のせいでそれさえ分からなかった。
グラリ、と海中が揺れる。そして、青は次第に黒に飲み込まれていく。Pタートルは本当に目を覚ます直前、墨汁のように黒くなった世界で、なんだ、やっぱり夢だったんだ、と落胆すると同時に安堵した。
Pタートルがまだ目を開けないうちに、もう一度グラリ、衝撃が訪れた。目を開けると、トクバ氏がいた。右腕が彼の方へ向かっている。ヒュー、ヒュー、と喉が鳴る。またグラリ。目が合う。トクバ氏は地面に放り投げるようにPタートルの首から手を離した。
「おい、お前、なに寝てんだ?なぁ?昨日あんなことがあって、よくも呑気に・・・」
Pタートルは黙ってトクバ氏を見ていた。月明かりが逆光になって彼の表情は分からない。彼は続ける。
「言っているよな、いつも。居眠りなんかするなって。言ったよな、俺を舐めるのも大概にしろって」
「別に、いいじゃありませんか。ほら、一台も車なんてありませんよ」
「一番初めに規則を教えてやってよな?規則は絶対守れって、いつも言ってるよな?」
Pタートルは思わず吹き出してしまった。
「規則?規則だって、ハハ、お笑いだ。僕はずっと守ろうとしてきましたよ?でもあんたらが邪魔してきたんじゃありませんか。昨日だって、この前だって、僕は規則通りに仕事をしようとしたけど、あんたはどうやら他人のご機嫌取りの方がずっと大事みたいじゃないか。あんたが軽んじる規則ってやつを、僕まで守ってやる必要がどこにあるんですか?ハハ、おかしい、おかしい、お笑いぐさだ。木も草も大笑いだ」
「・・・ずいぶん生意気な口を利くようになったじゃないか。え?規則を軽視してご機嫌取りばかりだって?はん、やっぱりお前はただの畜生だな。分かっちゃいない。お前は人間社会ってやつを分かっちゃいないんだ」
「そうかもしれませんね。でもあんたのことは分かりますよ。僕にはでかい口をたたけるくせに、人間相手だと途端にペコペコ頭を下げて、犬みたいに従順になって、薄ら寒いニヤつき笑いを浮かべる小心者の浮浪者もどき。自分だけが損をすれば相手は嫌な気持ちにならずに済む、とでも思ってるんですか?ハハ、間抜けだな、あんた。あんたが、あんな嘘つきで横暴な連中に媚びへつらうと、僕が迷惑なんですよ。本社の人も損をしているでしょうね。あんたは、他人を思いやって衝突を避ける、わざと騙されてやる、そんな人間じゃない。あんたはただ自分だけが傷つきたくないだけなんだ。相手に下手にくってかかって、揚げ足を取られたり手痛い反論を食わされたり、そういうことを恐れているんだ。だから、相手の言うことに全部ヘェヘェなんだ。その気になれば、なんて虚勢を張るだけの臆病者。それが――」
再びトクバ氏の腕が伸びてきて、Pタートルの首をつかむ。
「言ったからな?次俺を馬鹿にするようなことをしたらぶっ殺してやるって」
彼は顔を近づけてそう言った。顔がゆでだこみたいに真っ赤で、Pタートルはつい吹き出しそうになる。
「そうですよ、そう。気に入らない奴、舐めたことを言う奴。そんな奴らはぶっ殺しちまえばいいんですよ。ハハ、でもあなたはできないんでしょうね。どうせ虚勢ですよ。僕を殺しても犯罪になんかならないんですから、迷う理由はありませんよ。でも殺せない。だって、犯罪にはならないとしても、生き物を殺すのは気が引けますもんね、寝覚めが悪いですもんね、心が痛い痛いしちゃいますもんね」首が絞められているせいで、かすれた声が出た。
トクバ氏はPタートルを丸呑みにしてしまいそうなほど顔を近づけていた。歯ぎしりと荒い鼻息が聞こえる。しかし、次の瞬間、Pタートルは地面に打ち付けられていた。息が詰まって苦しそうに咳き込む。
「お前なんか自殺しちまえ!とっとと消え失せろ!」
トクバ氏は去っていった。
ははは、自殺しろ、だってさ。臆病者の言葉は、虚勢張りの言葉は、やっぱり違うねえ。殴り殺すのも刺し殺すのも、感触が残って嫌だから、言葉で殺そうとする。言葉には感触なんて無いものな。やっぱり、人間は理性的生物なんかじゃない。人を傷つける嘘つきや虚勢で自分を飾る傑物気取り。知性も道理もあったもんじゃない。少なくとも僕は人を騙して傷つけたことも虚勢を張ったこともない。これじゃあ、僕の方がよっぽど理性的じゃないか――。
パーキング・タートルは知らなかった。人間は、悪意でもって人を傷つけることができるからこそ、理性的動物であるということを。そして、虚勢でもって互いに騙し合い、終わることのないやせ我慢の耐久レースに敢えて臨むからこそ、理性的動物であるということを。
パーキング・タートルは再び横になった。胸の中のモヤモヤはまだ消えておらず、それどころか、ますます濃くなった気さえする。涙が流れた。今度は本当に、目からこぼれ落ちた。Pタートルは、明日の朝までに自身の鼓動が止まっていることを切に祈りながら、眠りに落ちた。睡魔に取り込まれる直前、口に涙が流れ込む。しょっぱい。ふと直感した。海水の味だ。彼は自嘲する。海水の味なんて知りもしないくせに、よくも海水の味なんて言えたもんだ。本能?まさか。クツクツと笑いながら、気がつけば意識を失っていた。
春の風が夜を押し流し、カラスがその風に乗って朝の訪れを告げる。木々が揺れてはスズメが歌い、梅が落ちれば桜咲く。車が路面を横切れば全ての音を奪い去る。仕切り直し――。以下、繰り返しだ。そのようにして朝は過ぎていく。
パーキング・タートルは目を覚ました。何も、起こっていなかった。何もかも、昨日の夜から一つとして変わっていなかった。