序話 戦いのゴング
母がオレのことを見てくれなくなった。
母はいつも縫いぐるみに話しかけている。オレが母を呼んでもこちらを見てもくれない。
まるでオレの姿が見えないみたいだ。
まるでオレの声が聞こえないみたいだ。
そんなはずはないだろうに。まだそこまで老いぼれちゃいないだろうに。なのに、母はオレを幽霊みたいに扱う。
悔しいので母の鼻に指を突っ込んでみたりもしてみたが、苦しそうに呻くだけでやはりこちらを見ようともしなかった。
正直、すげぇな、と思った。
「なあ、アクマ。何で母さんはオレを見てくれないんだろう」
「意地だと思うよ」
そんなとき、オレはいつも自分がこの世界にはいないんじゃないかと不安になる。
本当は、オレは幽霊なんじゃないだろうか。誰にも見えない透明人間なんじゃないだろうか。
そこでいつも父のもとに走った。すると、父はパソコンから顔を上げ邪魔そうにオレを見る。手を払い、母さんのところで遊んでいろ、と言う。そんな冷たい言葉でも、オレはこの世界から消えてしまったわけではないと、安心できた。よかった。オレは死んでないし、消えていない。
けれど、やはり父の冷たい言葉は純真な子供心を傷つくもので。
悪戯で親の気を引くというありがちなこと。俺はパソコンのコンセントを切るという行為で父の気を引こうとしていた。断じてざまあみやがれと舌を出していたわけではない。
父の悲鳴は背中で聞いた。
「なあ、アクマ。何で父さんはオレに冷たいんだろう」
「日ごろの行いだと思うよ」
鼻に指を突っ込んでもこちらを見ない母は、それでも偶にオレを見て、ナツキ、と呼んだ。
枯れ枝のような腕を伸ばし、こけた頬を歪ませ、幽鬼のように虚ろな瞳でオレではない誰かに微笑みかける。
でも生憎、その『ナツキ』はオレの名前じゃない。オレの名前はヒイラギだ。
違ぇよ、と母の額にデコピンをかましながら、俺は顔を俯かせる。
ナツキは妹の名前。
死んでしまった妹の名前。
交通事故だった。最後に見たのはいつだったのだろう。オレは覚えていなかった。
オレのエビフライを取って得意げだったナツキにラリアットをかましたのが、最後だとは思いたくない。できれば思い出は美しいままに。そのときのナツキは白目に口から泡を吐いていた。
オレは覚えていなかった。
葬式のときにも、妹の顔を見ていない。ソンショウとやらが激しくて、人前に晒すことのできないものだったらしい。
母は妹と一緒に買い物に行って、妹は途中で車に跳ねられた。
人に見せられない妹の死体を母は見た。
母がオレを見なくなったのも、その日からだった。
「なあ、アクマ。どうして妹は死んだのかな」
「それが人としての寿命だったんだよ」
オレが俺と言うようになった年。十歳だったろうか。父と母の離婚が決まった。
その頃、俺は大変自立できた少年だった。
離婚でお決まりの父親と母親の決められない二択を迫られたとき、俺はしばらく俯き黙ってから、父さん、と小さく呟いた。実際、もう鼻から決めていたことだったが、即断もどうだろうと考慮した結果であった。悲しそうな顔の祖父母を見て、もう少し悩めばよかったかと少し後悔もした気もする。
そのときにはもう父に対する愛も情もなかったが、どちらに付けば楽な暮らしができるかを考えれば、愛も情も関係ない。母についている祖父母は貧乏だ。おまけに祖父母から母の面倒を見させられることは間違いなく、そんなのは願い下げだった。母を見ているのは正直辛い。
「おい、アクマ。お前も来いよ」
「行かないわけにはいかないよね。契約だもの」
父は俺を見てくれる。しかし、そこに親愛の情はない。あると勘違いをしていた純朴な自分が懐かしい。父は俺を引き取ったが、それは所謂世間体を気にしてのこと。あと付け加えるなら、壊滅的に家事のできない自分の代わりに家事をする人間が欲しかったのだろう。金があるんだからハウスキーパーでも頼めばいいのに、守銭奴な父はそれすら惜しんだ。
がめつい奴だ。死ねばいいのに。
心に思ったことが稀に口にでたのはご愛嬌という奴だった。父の剣呑な視線と怒鳴り声には右ストレートで返した。
「おい、アクマ。父が警察に電話をしようとしている」
「妥当な判断だと思うけど?」
それから五年後。父の再婚が決まった。随分と若い女でまだ二十を幾ばくか超えたばかりだった。エロジジイめ。
しかし相手側は未婚であるというのに、こちらは子連れ。しかも、十五歳の俺のほうが後妻に年が近い。いろいろと不都合な事情が重なり邪魔となった俺は、父の「出てけ」の一言で家を追い出された。ふざけんなと拳を握った俺も、父に渡された貯金通帳の額を見たことで腰を下ろし、深々と頭を下げた。
今まで育ててきてくれた父の愛を、そこで初めて知ったのだ。
零が一杯。零が一杯。
「おい、アクマ。何を買おうか?」
「金で買えないものを知るべきかな?」
高校入学を期に父が契約したマンション。
そこに引越し、乾杯を交わした俺とアクマ。そのときは、これから始まるワンダフルライフに胸をときめかせていた。が、しかしそんな生活もやはりこれまでの人生と同じで突如終わりを告げるものだった。
引越しから一週間が経ったある日、アクマの宣告が悠々自適な俺の生活にピリオドを打つ。
「ねえ、覚えている?」
「何をだ?」
「契約」
「このマンションの?」
「違う。ボクと君との契約」
「忘れた」
「後一年だよ」
「何?」
「十年の契約。君、昨日誕生日だったでしょ。来年の昨日に君の魂を貰う約束だよ」
「おい、ちょっと待て。なぜそれを休日の昼下がりに告げる?」
「ムード出したほうが良かった?」
「いいともを見ながら告げられても緊迫感は伝わって来ない」
「もうすぐ昼ドラの時間だよ」
「変わりはないな」
悩んだ。これ以上ないほどに。
俺は死にたくない。まだ生き足りない。妹の分まで俺は生きなくてはいけないのだ。ああ、十年の契約と言った幼い自分が憎い。百年って言っておけばよかった。
夜を煩悶しながら寝て過ごす。悩みに悩み抜き、俺はある決断を下した。
よし、アクマを倒すぞ。
タイムリミットはあと一年引く二週間。それまでに、俺はアクマをとっちめる。




