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第2話「美少女転生」~四年前~

 四年前、俺はまだ田中健一だった。


 ルーシェには、別の名前があった。


 田中健一。三十二歳。過労死。

 新刊の漫画を積んだまま読めない。来期の覇権アニメの話題についていけない。


 あの日も、いつも通りだった。


 深夜二時。オフィスには俺しかいない。


 隣のデスクは空っぽだ。先月、同期の山田が辞めた。「もう限界です」と言い残して。正しい判断だと思う。俺にはその勇気がなかった。


 蛍光灯が切れかけている。ジジ、と小さな音を立てて明滅している。フロアには誰もいない。空調の音だけが低く響いている。月二百時間の残業の果てに、今夜も俺一人だ。


 モニターの光が顔を照らす。画面には黒地に緑の文字列。何千行目かもわからない。目が霞む。頭が重い。肩が岩みたいに固まっている。


 ――帰ったら、冷蔵庫に昨日の残りの豚汁がある。


 白米にかけて食べよう。録画した異世界アニメも三話溜まっている。来週には推しキャラの生死がわかる回だ。絶対に見届けないと。


 そんなことを考えながら、目を閉じた。


 ちょっとだけ。ちょっとだけ休もう。


 視界が暗くなる。音が遠くなる。キーボードに指が触れている感覚が消えていく。


 ――あれ、おかしいな。


 体が、重くなっていく。ではなく――軽くなっていく。

 妙な軽さだ。浮いているような。それとも、沈んでいるような。


 そのまま、目が覚めなかった。


 ――推しの生存確認、できなかったな。


 その後のことは、何も覚えていない。



 ◇



 目を覚ました日のことは、よく覚えている。


 見知らぬ天井。木目が走っている。天井板の隙間から埃が舞い落ちてくる。


 体が重い。頭が痛い。


 ――ここ、どこだ。病院か?


 起き上がろうとして、違和感に気づいた。


 軽い。体が軽すぎる。


 三十二年間つきあってきた体とは、明らかに違う。肩こりがない。腰痛もない。あの鉛みたいな疲労感が、どこにもない。


 手を見た。


 小さい。白い。指が細い。爪がきれいに整っている。


 ――は?


 爪なんか手入れしたことないぞ。いつも深爪気味で、ささくれだらけだったはずだ。


 髪が視界に入った。金色。長い。胸の下まである。


 黒髪の短髪だったよな? 床屋で「短めに」としか言ったことないよな?


 慌てて起き上がった。


 バランスを崩す。体の重心が違う。手足が短い。というか、全体的に小さい。感覚が全部おかしい。


 なんとか立ち上がった。足元がふらつく。床までの距離が近い。


 髪が邪魔だ。動くたびに揺れる。顔にかかる。背中にも当たる。肩をくすぐる。


 長い。長すぎる。鬱陶しい。


 手で払った。さらさらしている。絹みたいだ。シャンプーのCMに出てくる髪だ。俺の髪じゃない。


 部屋を見回した。


 古びた木造の部屋。六畳くらい。木の床。木の壁。木の天井。全部木。


 病院じゃない。明らかに。


 窓がある。近づいて外を見た。


 石畳の道。煉瓦造りの家。遠くに塔が見える。空は曇っている。


 見たことない景色だ。日本じゃない。ヨーロッパ? でも何か違う。電線がない。車もない。看板の文字が読めない――いや、読める。なぜか読める。


 部屋に戻って、周りを確認した。


 ベッドは木製。粗末な毛布。枕は藁を詰めたやつ。


 机がある。本が数冊。燭台。インク壺。羽ペン。


 羽ペン?


 机の上に、紙が散らばっていた。手紙だろうか。拾い上げた。


 ――読める。なぜか、この世界の文字が読める。


『ルーシェへ お誕生日おめでとう。いつも頑張っているあなたを誇りに思います。セリアより』


 丁寧な字。姉からの手紙らしい。


 だが、紙は真ん中から破られていた。


 ゴミ箱を見た。同じような紙切れがいくつも詰まっている。全部、破られた手紙だ。


 壁に目を向けた。よく見ると、傷がある。何かを叩きつけたような跡。拳の形をしている。


 ――元のルーシェは、相当荒れていたらしい。


 記憶の断片が流れ込んできた。イリスを怒鳴りつける声。セリアに物を投げつける腕。泣き叫ぶ自分。


 ――こいつ、何やってんだ?


 胸が痛んだ。この姉妹に、こんなことをしていたのか。


 服を見下ろした。白いワンピースみたいなやつ。寝巻きか。胸元がゆるい。というか、胸元に何かある。


 ――いや、今はそれを考えるな。


 足元は裸足。床が冷たい。


 壁に鏡があった。小さな、曇った鏡。


 よろよろと歩いて、覗き込んだ。


 ――誰だ、これ?


 金髪碧眼の少女がいた。


 目が大きい。まつげが長い。肌が白い。唇が薄い桃色をしている。


 十二歳くらいか。どう見ても美少女だ。こんな顔の人間が実在するのか。


 口を開けた。鏡の中の少女も口を開ける。


「……あ」


 高い。柔らかい。鈴を転がすような声だ。


 ――俺の声じゃない。


 手で顔を触った。鏡の中の少女も同じ動きをする。


 頬が柔らかい。顎が小さい。骨格が違う。ごつごつした感触がどこにもない。


 首を触った。細い。喉仏がない。


 ――ないぞ。


 そっと、首筋を撫でてみた。つるつるしている。髭剃りの必要がなさそうだ。


 ――それは朗報かもしれない。


 胸を見下ろした。


 ……ある。少しだけ、膨らみがある。


 恐る恐る手を当ててみた。


 柔らかい。小さいけど、確かにある。弾力がある。


 ――うわっ!?


 慌てて手を離した。顔が熱い。鏡の中の少女の頬が、赤くなっている。


 ――いやいやいや。自分の体だぞ。

 ――でも女の子の体だぞ。俺の体なのか?


 頭が混乱してきた。中身は三十二歳のおっさんだ。毎日カップ麺を啜って、深夜アニメを見て、推しキャラに課金してきたおっさんだ。

 それが今、美少女の体に入っている。

 喜べるか。喜べるわけがない。

 というか、死んだよな、俺。

 ――落ち着け。状況を整理しろ。


 深呼吸した。肺が小さい。息が浅くなる。でも、なんだか心地いい。体が軽いって、こういうことか。


 もう一度、部屋を見回した。


 ガスもなさそうだ。水道は……わからない。トイレは……考えたくない。


 窓の外の景色。中世ヨーロッパみたいな街並み。


 羽ペン。燭台。藁の枕。


 ――異世界か?


 異世界転生。まさか自分が体験するとは。


 しかも、美少女に転生。


 ――マジか。


 だが、感慨よりも先に、もう一度あれが頭をよぎった。

 壁の傷。ゴミ箱の手紙。

 ルーシェという人間が、この部屋で何をしてきたか――記憶の断片は、まだ消えていない。

 俺がやったわけじゃない。でも、この手でやったことになっている。この声で怒鳴ったことになっている。


 受け継いだ体には、過去がある。

 どうすればいいのかはわからない。でも、何かをしなければならない気がした。何をかはまだわからないけれど。


 記憶が流れ込んできた。映像のように。


 この体の名前はルーシェ。十二歳。屋根から落ちて三日間意識がなかったらしい。その間に、魂が入れ替わった。


 ――そういうシステムなのか。説明がほしい。チュートリアルはないのか。


 まあいい。死ぬよりマシだ。たぶん。


 美少女になったのは予想外だったけど。かなり予想外だったけど。


 ――とりあえず、生きてみるか。


 この体で。この世界で。


 その時、扉が開いた。


「ルーシェ! 目が覚めたの!?」


 銀髪の少女が飛び込んできた。


 ――誰だ、この子?


 記憶が浮かんだ。妹。名前は――イリス。


 銀色の髪。青い目。顔立ちは整っているが、表情は硬い。ドアを開けた勢いのまま、部屋の中ほどで止まっている。


 目が、こちらを見ている。


 泣きそうだ。でも、その目の奥に、かすかな警戒がある。安堵と恐怖が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っているような目だ。


 この子は、ルーシェを怖がっていた。怒鳴られて、物を投げられて、泣かされて。それでも、死んでほしくはなかったのだ。


 その後ろから、金髪の女性が入ってきた。


 ――姉。セリア。


 ルーシェと同じ金髪だが、もっと長い。腰まで届いている。顔立ちも似ている。ルーシェが成長したら、こうなるのかもしれない。


 年齢は……十八歳くらいか。大人の女性だ。スタイルがいい。


 胸が――


 ――見るな。姉だぞ。


「よかった……本当に、よかった……」


 イリスが泣きながら抱きついてきた。


 温かい。小さな体が震えている。銀色の髪が顔にかかる。甘い匂いがする。石鹸の匂いだろうか。


 セリアも駆け寄り、二人を包むように抱きしめた。


「三日も目を覚まさないから……」


 セリアの声も震えている。髪からかすかに花の匂いがした。温かいものが背中に触れている。


 ――え、なに、この状況。


 三十二歳のおっさん、美少女の姉妹に抱きしめられる。


 どうすればいいんだ、これ?


 でも、記憶が囁く。


 ――この子たちは、「ルーシェ」を怖がっていた。


 元のルーシェは、妹をいじめていた。姉に反抗していた。家族を傷つけていた。


 小さな手が、背中にしがみついている。震えている。泣いている。


 セリアの腕が首に回っている。温かい。優しい力で、包み込まれている。


 ――いや待て。これは。


 花の匂い。温かい体温。絹のような髪。柔らかい感触。


 顔が熱くなる。


 イリスが顔を上げた。涙で濡れた目が、すぐ近くにある。長いまつげが濡れて、きらきら光っている。


「ルーシェ……よかった……」


 吐息が頬にかかる。


 ――近い。近すぎる。


 セリアも顔を寄せてきた。額が触れそうな距離。青い瞳が潤んでいる。


「もう無茶しないで……」


 美少女に挟まれている。左右から。逃げ場がない。


 柔らかい。温かい。いい匂いがする。


 ――死んでよかったかもしれない。


 いや、死んでないけど。たぶん。

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