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第16話 「諸刃」

 深夜。


 旅館の奥座敷。


 治癒のギフトを持つ従業員が、ルーシェの全身に両手を当てた。首の内出血。肩の外れかけ。脇腹の裂傷。後頭部の打撲。温かさが、体の奥まで染み込んでいく。痛みが、層を剥がすように遠のいた。


 しばらくして、従業員が手を離す。


「肩は戻りました。脇腹は塞がっています。首と後頭部はもう少し時間がかかります」


 治療は終わらない。それでも、当初とは比べ物にならない。右腕が動く。まっすぐ立てる。


 その間に、コウメはミラとエリを旅館に呼び、ケンにも連絡を入れていた。


 深夜に叩き起こされたエリは、眠そうに目を細めながら部屋に入ってきた。ルーシェの顔を見るとぱっと笑顔になったが、すぐにルーシェの首の赤い痕、包帯を巻いた脇腹、青く腫れた後頭部に気づいて黙った。


 ケンも来ていた。連絡を受けてすぐに飛んできたのだろう。息が少し荒い。


 五人が奥座敷に集まる。



 ◇



 ルーシェは治療を受けながら、ケンに詳細を話した。ヴァンの戦闘能力。武器。行動パターン。ルーシェが覚えている限りの情報を、痛みをこらえながら伝えた。ケンは何も言わず、ただ聞いている。時折、目だけが動く。情報を整理している顔だ。


 聞き終えると、ケンは作戦があると、ミラとエリを別室に連れていった。どれだけの時間がかかったかわからない。ルーシェはただ、待った。雑炊の出汁の匂いがまだ座敷に残っている。


 やがて、ミラとエリが戻ってきた。二人とも疲れ果てた顔をしている。ミラがエリを座敷の隅に横にさせると、エリはすぐに眠った。ミラもその隣で、静かに目を閉じる。


 最後にケンが戻ってきた。


「必要な情報は取った。あとはこれを使う」


 ケンが小型のボイスレコーダーをテーブルに置いた。


「作戦は決まったが、一つ問題がある——ヴァンはルーシェが転移した瞬間を狙ってくるだろう」

「え……転移した瞬間から戦わなきゃいけないの……?」

「ああ。十中八九ヴァンは待ち構えている」

「そ、そうなの……じゃあ鎌で先制攻撃をして——」

「いや、ヴァンはお前の戦闘スタイルを知っている。鎌だけでは厳しい。新しい武器、できれば遠距離から攻撃できるものが欲しい」

「新しい武器か、急に言われても……」


 コウメが立ち上がった。


「ちょっと待ち」


 そう言うと廊下に消えた。しばらくして、従業員が両手にいくつかの物を抱えて戻ってくる。コウメがその後ろに続いた。


「うちの旅館には一通り揃えとる」


 テーブルにずらりと武器が並べられた。秘書が一つずつ手に取り、説明する。


「閃光弾——視界を数秒奪います。煙幕——追跡を撒くのに有効です。スタングレネード——爆音と閃光で相手の動きを止めます。催涙スプレー——至近距離で目と喉を無力化します。こちらは小型拳銃——」

「け、拳銃!?」

「……使い方、わかりませんよね」


 秘書が落ち着いた声で続けた。


「小型拳銃——撃つ前に必ずここの安全装置を外してください。親指でここを下げるだけです。引き金を引けば発射されます。反動は小さい。初心者でも使いやすいです。ただし、使いやすい分、威力は高くありません。急所に当てるために近づく必要がありますね」

「距離を取れないならだめだ」


 ケンが横から口をだす。


「ほんなら、これを持っていくか?」


 コウメが、ずっしりとした筒をテーブルに置いた。


 ぶっ!? ロ、ロケットランチャー!?


 銃刀法違反どころの話ではない。言葉が出なかった。


「コ、コウメさん……」

「米軍さんと仲良うなってな。譲ってもらった。いっちゃん威力あるで。手榴弾は来月入荷予定やった」

「う、嬉しいけど……ギフトの特性で、手のひらに収まるものしか持っていけないから」

「……そうか。それは残念やったな」


 コウメは名残惜しそうに、引っ込めた。


 ケンがしばらく黙っていた。テーブルに並んだ武器を一つずつ見ていく。


「手のひらに収まる。かつ、一瞬で隙を作れるもの……この中で使えるのはこれだ」


 ケンは閃光弾をルーシェに渡し、次にボイスレコーダーも手に乗せる。そして、ルーシェの耳元に口を寄せた。低い声で、短く伝える。


 ルーシェが頷いた。


 ◇



 作戦が固まった後、部屋に沈黙が落ちた。


 コウメは台所に立って、黙ってお茶を淹れ直している。


 ルーシェは壁に背をつけて座っていた。


 ヴァンの顔が、頭から消えない。首を掴む手の感触。ナイフが顔に向けられた瞬間。あの重さ。あの速さ。


 また対峙しなければならない。


 体が、言うことを聞きたくないと言っている。


 膝を抱えた。手が、わずかに震えていた。


 エリが自宅から持ってきたクレヨン画が壁に貼ってあった。ママ。エリ。パパ。三人が手を繋いでいる。太陽が黄色く笑っている。


 ――会わせたい。でも……


 手が震えていた。


 ――怖い。恐ろしい。


 そこへ、コウメがルーシェの前に立った。


 しゃがんで、目線を合わせる。


「ひとつ、ええか」

「……わかって、る。行かなきゃ、いけないのは。でも、体が、動かなくて……怖くて……また、あのナイフが迫ると思うと——な、情けなくてごめん」

「実践経験もないあんたが凄腕の傭兵とやるんや。震えて当然。恥じることはない」

「……でも私、ミラさんエリちゃんのために、私のせいなのに、私しか会わせることができないのに。やらなきゃいけないのに……立てない。手が震えて、弱い自分が情けない――」

「弱くはないで」


 コウメの声が、静かに遮った。


「うちがユズと一緒に死のうとしてたとき、見て見ぬふりもできたはずや。でも来てくれた。あんたはほんまに強くて優しい」

「……コウメさん」

「少し我慢しいや。その強さ、今から引き出してやる」


 返事を待たずに、コウメの目が金色に光った。光が蝶の形をとり、ひらり、とルーシェの目に舞い落ちる。


 ――何かが、変わった。


 胸の奥の、深いところ。普段は蓋をしている場所。そこに、何かが灯った。


 熱い。


「深層に眠っとったもんを、引き出した。火事場のバカ力みたいなもんや。人は無意識に力をセーブしとる。それを引き出したんや。恐怖も取り除いた。ただ、これは諸刃の剣や。恐怖は必要なもんでもある——まあ、今はそれでええ。どうや」


 ルーシェは立ち上がった。


 恐怖が消えていた。あれほど震えていた手が、嘘のように動く。体が軽い。


「ありがとう、コウメさん。震えが止まったよ」


 ルーシェがコウメにお礼を言った後、秘書が静かに顔を出した。


「女将、議員の先生がまだお待ちで——」

「わかっとる。もう少し待てゆうてるやろ」

「……もう三時間になります。このままでは裏で動いている案件がすべて白紙になりかねません」

「はぁ~、しゃあないな。へそ曲げられても困るし……」


 コウメが立ち上がり、ルーシェの肩を軽く叩いた。


「ルーシェ、少し外すわ。お茶でも飲んでリラックスして待ちいや」


 秘書と共に部屋を出ていく。


 それを見届けて、ケンが壁に背をつけた。腕を組んで、目を閉じる。


「少し寝る」


 それだけ言って、すぐに寝息を立て始めた。


 静かになった。


 ルーシェは座ったまま、手を見つめていた。震えていない。不思議なほど、震えていない。


 最初は、ただ震えが止まっただけだった。それが、じわじわと変わっていく。指先から熱が広がる。胸が膨らむ。息が深くなる。体が、自分のものになっていく感覚。


 むしろ——()りない。


 もっと欲しい。もっと高く。もっと遠く。人を斬りたい。老人も若者も男も女も関係ない。平等に、全員斬りたい。血しぶきが見たい。この感覚が、胸の奥から溢れて止まらなかった。


 口元が、緩んでいく。自分では気づかないうちに。止まらない。


 腹の底から、笑いが込み上げてくる。


「っははははははははっ——っは、ははははっ」


 馴染む馴染む馴染む、ガリガリと頭を掻く。


 ――あの程度の雑魚(ヴァン)に、なにを恐怖していたのか?


 ――俺は最強最悪の殺人鬼レッドジョンだぞ。かの悪名高きテッド・バンディーも、ロンドンを恐怖に陥れた切り裂きジャックも、俺の前では霞む。最強の憲兵も、腕利きの賞金稼ぎも、誰であっても立ちふさがれない。レッドジョンの前では、斬れないものなどないのだ。


 笑い声が廊下まで響き渡る。口元が吊り上がって止まらない。涙が滲むほど笑った。目が、ぎらりと据わっていた。獣が目を覚ましたような、そういう目だった。


 座敷の隅で、小さな気配がした。


 エリが目を覚ましていた。ぼんやりとルーシェを見上げる。


 次の瞬間、ミラの胸に顔を埋めた。


「ルーシェお姉ちゃん……怖い」


 エリの声が聞こえていた。でも、どうでもよかった。ルーシェはただ笑い続ける。


 壁のクレヨン画の中で、太陽が黄色く笑っていた。

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