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プロローグ

 327人殺した――というのは濡れ衣だ。

 俺は誰も殺していない。ただ首を刎ねて、現代日本に送っただけだ。


 ◇


 夜明け前の貧民街には、音がなかった。


 犬の遠吠えも、酔漢の怒声も、赤子の泣き声も――何もない。生き物の気配だけが、建物の隙間に息を潜めている。


 憲兵のドグは路地を歩いていた。帝都の外縁、貧民街と呼ばれる区画だ。


 両側に崩れかけた建物が並んでいる。窓は板で塞がれ、扉は蝶番が外れたまま放置されている。割れた石畳の隙間から雑草が伸び、昨夜の雨を吸って黒く濡れていた。


 靴底が泥水を踏むたび、ぴちゃりと音が立つ。その音だけが、やけに大きく響く。


 この街に来るのは、いつも死体を見るためだ。


 通報があったのは一時間前。「また首なしが出た」――それだけで、誰の仕業かわかった。


 角を曲がると、廃屋が見えた。他の建物と変わらない。崩れかけた壁。傾いた屋根。塞がれた窓。


 ただ、匂いが違った。


 鉄錆に似た、甘ったるい腐臭。風向きが変わるたびに濃くなり、喉の奥に絡みつく。


 ドグは足を止めた。


 廃屋の前に、何かが落ちている。黒い染み。石畳に沿って点々と続き、入口へと消えていた。


 血痕だ。


 這って逃げようとした跡。途中で力尽きたのか、染みは入口の手前で大きく広がっている。


 息を浅くしながら、廃屋に足を踏み入れた。


 扉は外れている。錆びた蝶番だけが壁に残り、扉板は脇に立てかけてある。中は六畳ほど。窓の板の隙間から、夜明けの光が細い筋になって差し込んでいる。


 最初に目に入ったのは、壁だった。


 赤黒い。


 一面が血で塗り潰されている。天井にまで飛沫が届いていた。光の筋がその上を横切り、乾きかけた血の表面を鈍く光らせている。


 ――どれほどの勢いで斬れば、こうなる。


 次に、床。


 死体が転がっていた。


 首と胴体が、離れている。


 切断面は滑らかだった。肉も骨も、まるで豆腐でも断つように一息に両断されている。刃こぼれの跡も、ためらいの痕跡もない。


 一撃。


 たった一撃で、人間の首を落としている。


 被害者は目を見開いたまま、口を歪めていた。恐怖か。苦痛か。それとも――何も理解できないまま死んだのか。


 黒ずんだ血だまりが床に広がっている。一晩経っても乾いていない。粘りを帯びた血が、ドグの靴底にねっとりと絡みついた。


 壁に手形が残っていた。


 五本の指。引っ掻いた跡。爪が剥がれたのか、指先だけが赤黒く染まっている。


 逃げようとしたのだ。這いずって、壁に手をついて、立ち上がろうとして――


 そこで終わった。


 部屋の隅に、目が止まった。


 薄い毛布。欠けた茶碗。空の水瓶。壁際には小さな祭壇。木彫りの神像と、枯れた花が一輪。


 誰かの安寧を、祈っていたのだろう。


「これで三百二十七人目です」


 背後で声がした。


 部下だった。入口に立ったまま、中に入れずにいる。顔が青白い。唇が震えている。新人だ。まだ二十歳そこそこ。こんな現場を見せるべきではなかった。


「吐くなら外で吐け」


 部下が転がるように出ていった。路地で膝をつく音。続いて、嗚咽。


 ドグにも覚えがある。五年前、最初の現場で同じように吐いた。先輩に背中をさすられながら、情けなくて涙が出た。


 あいつもいずれ慣れる。


 嫌な話だが――慣れなければ、この仕事は続けられない。


 三百二十七人。


 被害者の大半は貧民街の住人だった。物乞い。日雇い。娼婦。孤児。社会の底で息をしている者たち。全員、首を切断されている。例外はない。


 ドグは壁を見上げた。


 血文字。


 飛沫の中に、二文字だけが浮かび上がっている。乾きかけた血が壁の凹凸に沿って垂れ、細い筋を作っていた。


「R.J」


 この二文字から、捜査本部は犯人を「レッドジョン」と名付けた。


 血塗れの現場を残す、身元不明の殺人鬼。半年で三百人以上を殺し、一度も姿を見せていない。今やその名を知らない者はいない。子供の夜泣きを止めるのに使われるほどだ。


 ――レッドジョンが来るよ。


「R.J」が何の頭文字なのか。様々な説がある。犯人の本名。組織の暗号。狂人の戯言。


 どれも馬鹿げている。だが、真実はもっと馬鹿げているのかもしれない。


 足音がした。


 床板の軋み。外から差し込む光が、一瞬遮られる。


 振り返ると、ガルシア大佐が入口に立っていた。


 逆光で表情は見えない。だが、その輪郭は微動だにしていなかった。百を超える現場を見てきた男だ。


 Aランクの賞金首を何人も仕留めた。Sランク犯罪者を捕らえたこともある。この国最強の憲兵。ドグが最も尊敬する人物だった。


「やはりレッドジョンか」


 大佐は部屋に入り、血だまりを避けて壁際に立った。床板が重く軋む。現場を一瞥し、静かに言った。


 レッドジョン。


 その名を聞くたびに、胸の奥が焼けるように熱くなる。


 ドグは拳を握りしめた。


 同期のカインの顔が浮かぶ。最初の相棒だった。「放っておけない」が口癖の男で、新人の頃は何度も助けられた。


 あいつも、首を落とされた。


 発見したのは、ドグだった。


「俺の手で、奴を終わらせます」

「熱くなるな」


 大佐の声は平坦だった。感情を押し殺した、硬い声。


「目撃者はひとりもいない。痕跡もない。犯人の性別すらわからん」

「痕跡がないなら、捜査範囲を広げるしかありません。人員を増やして――」

「どこから引く? 東区の暴動。南区の密輸組織。どこも手一杯だ」

「なら、俺がひとりで追います」

「やめておけ」


 大佐の声が、低くなった。


 血だまりを踏まないよう、一歩こちらに近づく。その目が、ドグの目を捉えて離さない。


「単独で追った者が三人いた」


 三人!?


 そんな報告は聞いていない。初耳だった。


「Aランクの賞金首を単独で仕留めた腕利きだ。三人ともな」


 息を呑んだ。


 通常、Aランクには五人一組で当たる。それを単独で仕留める。憲兵隊でも十人といない精鋭だ。


 そんな男が、三人も――


「全員、こうなった」


 大佐の視線が、床に落ちた。


 首のない死体。黒ずんだ血だまり。壁の手形。


 ドグは何も言えなかった。喉が詰まったように、声が出ない。


「いいか、よく聞け」


 大佐がドグの肩を掴んだ。


 互いの息がかかるほどの距離。指に力がこもっている。骨が軋むほどの握力だ。


「レッドジョンを見つけても、ひとりで追うな。必ず応援を呼べ」


 大佐の目が、ドグの目を射抜いた。


 百を超える修羅場をくぐり抜けてきた男の目。その奥に、かすかな恐怖が見える。


 ――この人でさえ。


「あれは化け物だ」


 大佐の声は静かだ。静かな声が、かえって重く響いた。


「だからこそ、組織で追い詰める。必ず捕まえる――憲兵の威信にかけて」


 肩から手が離れた。


 ドグは血文字を睨んだ。


「R.J」


 窓の隙間から差し込む朝日が、その二文字を照らしている。赤黒い血が、光を受けてぬらりと輝いた。


 まるで嘲笑っているようだ。


 ――お前たちには、何もできないと、



 ◇



 廃屋を出た。


 路地に人だかりができていた。貧民街の住人たちが、遠巻きにこちらを見ている。誰も近づこうとしない。誰も声を上げない。


 また出た――その目が、そう言っていた。恐怖と諦めが、等分に混じり合っている。


 この街では、死体が転がっていても誰も驚かない。レッドジョンが現れてから、それが日常になった。


 明日は自分かもしれない。


 その怯えを抱えながら、それでも生きている。生きるしかないから、生きている。


 ドグは歩き出した。


 朝靄が路地を這っている。湿った空気が肌にまとわりつく。背後から、住人たちの視線が突き刺さる。


 ――必ず、奴を終わらせる。


 拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。


 痛みだけが、今の自分を繋ぎ止めていた。

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