第2話 黒髪
「う゛っ……!」
言いようのない不快感が腹部を巡る。
ラシャンテは立ち上がり――あれ、手枷も首枷もないわ、
トイレに向かい――ここ、いったいどこかしら? でも、こっちだって知ってるわ、
便器に顔を突っ込んで――つやがあって美しい便器ね、
胃の中で渦巻く毒――いや、飲み込んだのは薬だって知ってる――を吐いた。
「おぇっ! ゲホッ、ごほっ!」
吐瀉物を水で流し、ラシャンテは口を拭った。
頭がくらくらする。
ふーっ、と長く息を吐いてから、ゆっくり立ち上がる。
トイレを出ると、人が見えた。
「あら、どうも……」
視界に入った黒髪の少女に声をかける。
だが、彼女はきょとんとしてこちらを見つめているだけだ。
王女に向かって挨拶をしないとは、礼儀がなっていない娘ね。
「ごきげんよう……?」
――違和感。
黒髪の少女の口が動きはしたが、彼女の声は聞こえなかった。
それどころか、口が動いたタイミングが、私が声を発したのとまったく一緒だったような。
「あなた……」
手を伸ばすと、彼女も同じ側の手を伸ばした。
「これ……鏡、ね」
近づいて、彼女の頬に触れる。
ひんやりした平面の感覚が指先に伝わる。
鏡に映った姿を見る。
艶のある黒髪は短く整えられてはいるが、贅を尽くした香油で輝かせたロングのブロンドはない。
二重の優しげな目はぱっちりとして可愛らしいが、国を背負う強さは感じられない。
濃い栗色の瞳は奥行きが感じられるが、見慣れたコバルトブルーではない。
「これが、私……」
別人だ。
これはこれで可愛らしい顔だとは思うが、見慣れた顔とは似もつかない。
見た通り十代半ばくらいだとすると、だいぶ若返ったことになる。
どうやら体は発達の途中なのか、元の豊かさはない。
何がどうなって、こんなことになったのか。
ラシャンテ――といっていいものかどうか、彼女は来た道を戻り、自室と思しき部屋に帰った。
記憶にない部屋なのに、見覚えがある。
目が覚えている、とでも言おうか。
同様に、体が覚えている、あるいは染みこんでいることがいくつもあった。
黒髪の少女は、スマホ――そう、これは「スマホ」と呼称していたことを、口と耳が覚えている――を手に取った。
電源を入れ、指紋を認証させる。
混乱した頭で、しかし冷静に、彼女は情報を収集し始めた。
かなりの時間を経て、少女はおおよそのことを理解した。
ここは、自分が元いた世界とは違う世界だ。
それどころか、自分が元いた世界とは、つくりものの世界でしかなかった。
「プリンセス☆レボリューション」。
下町で生まれ育った悲劇の姫君リセノワールが、母の死をきっかけに宮廷に入り、そこで出会った素敵な男性と恋に落ちるという、娯楽のために創られた虚構。
「義妹の方が主人公で、私はただの悪役だったのね」
驚きながらも、「道理で」と納得できることが多々あった。
義妹は、まるで何かに守られているかのようだった。
忍び込んだ盗賊が放った黒塗りのダーツが、かすりもしなかったし。
天井から降ってきたシャンデリアは、彼女を避けて飛散したし。
高熱に寝込んで侍医が匙を投げたのに、都合よく東国の行商人が訪れるし。
「物語の主人公なら、終幕まで死ぬはずないものね」
自嘲気味に、苦笑がこぼれる。
ありとあらゆる困難をものともせず、結局、義妹は一人の殿方と添い遂げた。
二人の婚約を、国中が喜んだ。
だが、それもどうやらゲームにおけるひとつの人生に過ぎず、攻略次第では他の男性と結ばれることも出来たのだという。
そんな義妹とは対照的に、第一王女ラシャンテの最期は初めから決定されていたようだ。
五つある攻略ルートのどれを進んでも、悪役ラシャンテは、死ぬ。
国中の人間に嫌われ、疎まれ、死を歓迎されて、断頭台の露に消える。
衝撃を通り越して笑うしかないのは、隠し攻略ルートではアランデュカスを恋愛の対象と出来ることだった。
つまり、義妹の選択次第では、姉姫の婚約者を奪い取る人生にもなりえたのだ。
「私が……ラシャンテが幸せになる未来なんて、初めからなかったのね」
涙は出なかった。
絶望も虚無も、あの断頭台に忘れてきたらしい。
ラシャンテだった少女は、スマホをオフにして、『自分』を知るために部屋中を漁り始めた。
作者の成井です。
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