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三十八話

11月に入ると、年末の締めに向けて徐々に仕事の内容が増えてくる。夏の頃と比べてまだ気持ちに余裕はあったが、これからの忙しさを思うと少し憂うつになってくる。


「これ、お願いね」

「ハイ」


あれから神木は上機嫌で仕事をするようになった。どうやら本当にアプローチを始めたらしく、毎日気合の入ったメイクをしてきている。それが様になるのは良かったが、ここまで本気で毎日追い回される一樹はたまったものではないだろう。

だがそういった関係の事はもう鈴とは無縁のものになってしまった。別れてから一度だけ会った和也だったが、その後は再びパタリと姿すら見せなくなっていた。もう連絡先も消した方がいいのかもしれない、と思っているところでケータイに着信が入る。


「・・?」


それは神木からであった。メールには今日の午後2時に地下室へ資料を取りに行ってほしいというものであった。なぜ資料を取りに行くだけなのに時間指定されているかが分からなかったが、了解とだけ返事をして時計を見る。

あと10分もしたら2時になるため簡単にデスクの上の片づけをしていると、5分前に神木が事務室を出て行った。そして鈴も2時ちょうどに事務室を出て地下へ下りると、話し声が聞こえてくる。聞き耳を立てるわけではなかったが、嫌な予感がしてなるべく音を立てないように下へ行くと聞きなれた声が2つした。


「本当に来ていただいてありがとうございます」

「・・なぜこんなところに呼び出したのかは想像がつくが、俺の事は放っておいてくれないか」


神木と社長の声であった。社長のうちどちらなのかは分からないが、低く周囲を警戒するような声を出している。一方の神木は呼び出しが成功した喜びで、大きい声を出すまいとしながらも声色に喜びが溢れていた。


「あの・・前の時は、本当にすみませんでした。私、あの時は自分で自分を止められなくなってしまってて・・。ああして警告されなければ、まだ同じことを繰り返していたと思います」

「その警告には、こうも書かれていなかったか?本件に関しては俺と日和から一切手を引くと」

「でもそれは・・それは、お二人が付き合っている場合、の話ですよね?」


そこから二人の間に沈黙が流れた。鈴は「警告」という言葉と「付き合っている場合」という言葉が耳に残っていた。警告とはいったい何なのか、そして付き合っていない場合はどうなってしまうのだろうか。少ししてから社長はため息をついた。


「そのため息は肯定、ってことでいいんですね?」

「どう捉えるかは任せるが、神木さんの立ち振る舞いにはいい顔をしていない上層部もいるんだ」

「私、また社長にアプローチしても、いいんですよね?」


上ずったような声で言うが、その声には緊張がはらんでいた。一度振られた相手にここまで食らいつくのは、どれほど勇気が要る事なのだろうか。鈴には出来そうにないことであった。


「されても、なびきはしない」

「でも!日和さんはもう他の人と付き合ってるって、自分で言ってました!」

「・・知ってるさ。だからなんだ、日和さんが他の人と付き合ったところで俺に何の関係がある?俺がなぜ受けたくもないアプローチを受けて耐えなければいけないんだ?自分の気持ちを押し付けるのも大概にしないと、立場が危うくなるのは君自身なんだ。よく考えなさい」


苛立たしげにそう吐き捨てると、鈴の隠れている階段の方へ足音が近づいてくる。慌てて隠れようとするが、地下へ向かうのはこの階段しかないのだ。隠れるような場所も無くもうすぐ鉢合わせてしまう、その時だった。


「お願いです・・お願いですから、一度でいいので、デートさせてください・・お願いします・・」


蚊の鳴くような声が聞こえてくる。それは先ほどの剣幕からしたら一息で飛んでしまうぐらいのものであった。だがその声を耳にした瞬間、社長の足は止まった。小さく身を縮こまらせた鈴には見えなかったが、ゆっくりと神木が近づく気配がする。


「一度、したらそれで全てに諦めが付けられるのか」

「ハイ」

「・・週末日曜に10時に会社のエントランスで待ちなさい」


その声を聴いた瞬間弾けるような声が地下室に響き渡った。ありがとうございます、ありがとうございますと何度も頭を下げている様子の神木の姿が目に浮かんだ。


「楽しみにしています、ありがとうございます!」

「これは取引だ。週末が終われば今後一切アプローチ等は禁止する」

「ハイ!」


鈴はその場から早足で事務室へ戻って行った。

席に戻る前に舞原が「大丈夫ですか?」と気遣ってくれたが、曖昧に返事をしてから自分のデスクへ戻る。神木はきっと、これを聞かせたかったに違いない。鈴が未練を残しているのが分かっていたのだ。だがああして他の人からのデートを承諾したということは、もう鈴への義理を立てる必要が無くなってしまったということだ。

それがどういう事なのか、鈴には一つしか思い浮かばなかった。


「皆ー、今日はあたしから差し入れ!一人一個ねー」


10分ほどして戻ってきた神木の手には、大きな袋が握られていた。そこにはたくさんのスイーツが入っていて、皆仕事の手を止めて近くへ寄っていく。鈴は気乗りしなかったが、一人だけ貰いに行かないのは不自然だったため一応貰いに行くことにした。


「ハイ、日和ちゃんは新人でずーっと頑張ってるから、これね」


そう言って手渡されたのは、他の誰よりも豪華なスイーツであった。まるで「聞いてたわよね?」と言わんばかりのその態度と「勝った」という優越感がそこには見えた。大げさにありがとうございます、と言うとデスクへ戻る。

周りからはブーイングが起きたが、それには苦笑で返して仕事を再開しようとする。


「ずるくない?日和だけソレって」

「・・別に、神木さんの優しさなんでいいじゃないですか」

「は?上司に対して別に、ってどういうことだよ・・俺がそれ貰ってやろうか」


ニヤニヤしながら手を伸ばしてくる氷上に、鈴はあっさりと「どうぞ」と手渡す。


「え、いや、ちょ、冗談なんだけど・・」

「そうなんですか?じゃあいいです。いただきます」


ポカンとした顔で鈴を見る氷上に、少しだけ胸がすいた思いがした。

家に帰ると、まだ靖春は帰っていなかった。帰っていないとはいえ、付き合い始めてからこのアパートに来ることが多くなったため、まるですぐ近くにいるかのような空気がある。いつもはそれに安心するのだが、今日はさすがに気まずかった。

地下室で話を聞く前に、本当は二人の声が聞こえた瞬間に事務室へ戻る事だって出来たのだ。だけど自分がそれをしなかったのは、和也に対してまだ思いが残っていたからに他ならない。それなのにあのようなやり取りを聞いてしまい、気持ちが切り替えられたと思っていたのに未だ諦めていない自分を見つけてしまって自己嫌悪になっていた。

勿論その後の神木の態度には傷ついたが、それもこれもあの時に自分が盗み聞きをしてしまったせいなのだ。まだ引き返すことが出来た時に引き返さなかった自分が悪い。


「・・そんなもん、だったのかな」


無意識にケータイを開き、和也とデートで撮った写真をスライドしていく。甘酸っぱい気持ちが胸いっぱいに満ちて、とても幸せな気持ちになった。それが徐々に靖春のものになり、靖春に対して申し訳なく思う気持ちでいっぱいになってしまう。

靖春とデートをするのは楽しい。楽しいし、とても嬉しいのだが、和也としていた時ほどのときめきが無いのだ。10年近く一緒に居てときめきが、などと言うのも変な話だが、男として見てくれというのはそういうことなのだ。

友達ではなく、恋人として見る。それだけのことがこんなに難しいとは思っていなかった。頭では分かっていても、心は正直なのだ。


「ただいまー・・って何してんの」

「こたつむり」

「何それ、可愛いんですけど」


こたつに肩までしっかりと入り込む姿は、人間がこたつを背負ったように見えるため「こたつむり」と言う場合がある。靖春は嬉しそうに隣に潜り込んで顔を出す。


「あったけーな。もう出たくなくなる」

「でしょ?こたつむり最高」

「・・あーもう、可愛いな」


最近靖春は二言目には可愛いと言うようになった。そう言われるとくすぐったい気持ちになって、思わず顔が赤くなってしまう。更にそこをからかってくるため、最近は手で顔を隠すようになった。


「手どけて?ね、どけてって」

「またからかうんでしょ!もう知らないんだからね!」

「しない、しないってば。だからどけて?ね?」


そっと手をどけると、目の前には靖春の顔があった。「あっ」と思った時には唇が合わさっていた。

あの日、初めて鈴から靖春にキスをしてから、頬や額にばかり口づけていた靖春は自分から唇に口づけるようになった。鈴からしてもらうのを、ずっと待っていたそうだ。

それは乙女チックな理由などではなくて、友達の延長線での好きから、男として異性として捉えてくれた証拠なのだそうだ。そう言われてみれば鈴は靖春に対してかなり親密な空気を出せるようになってきた。「そういうこと?」と聞くと「やや違う」と言われたのは記憶に新しい。


「あー今日も仕事終わったーって感じするな」

「人の口でそんなこと思わなくても・・」

「帰らないと出来ないだろ?だからいーの」


胸を取った次の日、会社に行くと上司から呼び出された末にどういう事かと詰め寄られたらしい。所属している課の全員が固唾をのんで見守る中でこう言い放ったそうだ。


「こんなの・・俺、変ですよね・・」


胸を取ったとはいえ、まだ髪の毛は長いままだったため一応メイクをしていったそうで、悲しげに眼を伏せると誰も何も言えない雰囲気になってしまったらしい。肯定してくる人は居なかったそうだが、仕事中も意味深にため息をついたり、たまに遠い目をしていると上司に呼び出されて聞かれたそうだ。


「あー・・履歴書を見る限りこちらは女性として雇用したのだが、君は本当は男性ということかね?」

「そうです。必要が無くなったので取ってしまいました。無断で実行したことを謝ります、申し訳ございませんでした」

「いや、その・・そういう意味じゃないんだ。えーただ、なんだ、女性だとばかり思っていたから・・」


靖春が素直に頭を下げたことで、突っ込み場所が見当たらなくなってしまったようだった。しどろもどろとデリケートな問題にどう触れようかと模索する上司を尻目に、靖春は再び悲しそうに目を伏せたのだそうだ。


「こんなの、やっぱり・・俺おかしいですよね」

「おかしいというか、ええと、なんというか、そうだな・・いや突然のことで僕らも何と言っていいものか」

「皆さんの仕事の邪魔になるようでしたら、このまま仕事の方も辞さるを得ません」


その言葉でハッと靖春の目を見据えた上司は、まんまとその表情に籠絡されてしまったようだ。元々清楚で通っていた靖春のその姿に、同情しないような仕事ぶりはしていない。結局そのままなあなあにすると、上司から更に上司に話が伝わり、社長に決断が委ねられた。

靖春の容姿で仕事が増えた面もあり、今回はお咎めなしということになったそうだ。それを楽しそうに話す靖春に、鈴は苦笑したが本人曰く「あとは周りが適当にどうにかしてくれる」のだそうだ。


「さ、とっとと飯作って食うか」

「うんっ。今日は先に野菜煮込んでおいたから」

「偉いなー鈴は。ちゃんと指を切らずに出来るようになったんだな」


褒めているのかいないのか良く分からない事を言いながら、上機嫌に晩ご飯を作る姿に鈴はほっとしていたのだった。

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