三十一話
帰宅した後の事は良く覚えていなかった。だが気付いたら隣に靖春が座っていた。ぼんやりと二人でテレビを見ているが、いつもは笑える芸人のネタにも反応出来ない。それは靖春も同じだった。
「・・おもしろくない」
「そうね、クソみたいな芸人だわ」
「・・いつもはおもしろいのに」
「あたしと鈴の感覚がマヒしてたのよきっと」
「・・マヒ、してたのかなぁ」
ぽてん、と後ろに倒れるとベッドに寝転がる形になった。そう大して広くも無い部屋にベッドを置くと決めた時に、猛烈に反対してた靖春だったが結局はベッド兼ソファになってしまっていた。あの時に反対されても買っておいて良かったなぁとぼんやりと思う。
靖春も一瞬遅れてぽてん、と後ろに倒れる。二人で寝転がっていると学生のころを思い出す。よく中庭に出てはレジャーシートを引いて転がって空を眺めた。いつかイケメンの彼氏をゲットする!と張り切っていた高校時代が懐かしい。
「イケメンと付き合えて、ラッキーだったよね」
「だね、一生分の男運使っちゃった?」
「・・かも。ねぇ、本当に別れることになったのかな」
「さぁね。明日になったらケロッとした顔して迎えに来るかもよ?」
想像してみたがあまりうまく想像が出来なかった。それをするのはどちらかと言えば一樹の方だと思う。抱えるほどのバラの花束を持ってスポーツカーで乗り付け、彼女が出てくるのを待つ。そうして何かのタイミングで出てきた彼女に花束を手渡して「行くぞ」なんて言ってドライブに連れ出すのだ。
途中で一昔前の漫画のような展開になってしまったが、そういうことでも卒なくこなすのが一樹だ。反対に、そういうことが一切スマートにできないのが和也である。何をするにも少し抜けていて、バラの花束を買う時点で店員に押されて何種類もバカみたいに束ねられた花束になるに違いない。スポーツカーの狭苦しい後部座席には、いつかと同じように一也が乗っていて「ごめん・・」とバカみたいに謝るのだ。
困ったような、嬉しそうな笑顔を思い出すだけで胸が痛んだ。それに合わせて再び涙があふれ出す。
「鈴、思い出してたでしょ今」
「うう、うん、だって、だってすきなんだもんッ、別れたくないよお」
「・・ハァ、しょーがない子ねぇもう」
そう言いながらもティッシュを手渡してくれる。
「でも、さあ、かえりに言われたままだと、別れたことになるのかなあ?やだよお」
「ヤダヤダ言ってないで、今日の傷は今日のうちに!電話でもメールでもなんでもして足掻きなさいちゃんと」
「拒否されてたらどうしよう・・」
「・・そんときはそんときよ!ほら、自分でやりなさい」
ポンとケータイをお腹の上に置かれる。起き上がって開いてみるが、着信もメールも届いていなかった。鈴が帰宅してから軽く5時間は経過しているため、もう帰っていてもおかしくない時間だった。いつものデート終わりにくるはずのメールすら来ていないところに絶望感しか感じられない。
「メールもぎでない・・」
「あーもう泣かないの」
「ぎらわれでだら、どうじよう・・どうじようう!」
結局その日はメールも電話もすることが出来ないまま眠りについた。
翌朝目覚めると、あれだけ靖春が冷やしてくれていたにもかかわらずパンパンに浮腫んでしまっていた。腫れぼったい目はメイクで隠すことも出来無さそうである。あえて突っ込んで聞く勇者は居ないだろうが、これを一樹や雫に見られると思うととても憂鬱になってしまう。
「・・休もう」
さすがに仕事が出来るような顔と頭ではなかった。こういう時こそ仕事で頭をいっぱいにしておくべきなのだろうが、まず顔に言い訳が出来ない。何があったのかを聞かれた時の言い訳すら思いつかなかった。いつも会社に居る時間に電話をすると舞原が電話を受けてくれる。
心配そうに声をかけてもらうと、申し訳なく思う反面やはり行かなくて良かったと思った。目の前でこんな風に心配されてしまったら、思わず口から色々と零れてしまいそうだ。軽々しく言えない話も多々あるのも確かだ。
とにかく今日の休みは確保できたため、一日ゆっくりすることに決めた。それだけで幾分か気持ちが楽になったような気がする。ここの所あまり手を付けられなかった家中の掃除を始めると、あっという間に午前中が終わってしまった。
「ふぅ・・ここまで家の中片づけたこと、今まで無いよね。失恋ってすごい」
自分で言って笑ってみるが、全く面白さの欠片もない言葉だと改めて思う。失恋、つい昨日恋を失ったわけだがすぐに恋心が忘れられるわけではない。もしかしたら何かの聞き間違いだったのではないかと今でも思っているぐらいだ。
初めての恋があんなに一瞬で終わるだなんて、欠片も予想できなかった。ぼんやりとそれを思い出しているとケータイが着信を知らせる。非通知でかかってきたそれは5コール後に留守電につながった。非通知で鈴のケータイにかける人物に心当たりはない。留守電を再生してみることにした。
『留守電が1件です。和也の兄の一樹だ、聞きたいことがあるから折り返して電話するように』
シンプルにそれだけの内容であったが、なんとなく仕事の話ではないような気がした。嫌な予感というものを信じるわけではないが十中八九和也の件についてだろう。かけ直す気持ちが起きずに10分程テレビを見ていると、再び着信が鳴る。それも非通知だったため5コール後に留守電につながる。誰からなのかは何と無く見当がついているが、一応再生することにする。
『留守電が1件です。先ほども電話したが和也の兄の一樹だ。社長だぞお前、かけ直すぐらいすぐにしろ』
やや怒っているような声色だったが鈴はあまり話をしたくなかった。家の中の片づけをしていて気付かなかったということにしよう、そう決めると再びテレビを見る。あまり集中して見れる気はしなかったが、何もせずにぼんやりとしているよりもマシである。5分もしないうちに再び着信が鳴った。
見ないでもわかる、多分非通知だ。そして留守電が入ることであろう。
『留守電が1件です。社長からの電話をシカトぶっこくだなんて相当仕事が好きらしいなあ?この俺が直々に電話してやってるんだからさっさとかけ直すなりなんなりしろ。さもないと』
そこで留守電が切れていた。さもないと何なのだろうか、思わずブルリと背筋が震ってしまう。これもまた気付かないフリで通すことが出来るだろうか、むしろ外出中にケータイを忘れてしまったという方向で言い訳を考えてみることにする。体調が悪くても腹が減ればどうにかしてお腹を満たさなければならないのだ。
そう思いながらケータイを操作して留守電を消すと、メールが来ていることに気付いた。それを開こうとボタンを押した瞬間、かかってきた電話を取ってしまった。しまった、そう思った時には時すでに遅しだ。
『おい日和だろ?俺の着信散々シカトしやがって。気付いてなかったわけじゃないだろうなぁ?大方外出中って体でシカトすることにしてたんだろ?』
「タイヘンモウシワケアリマセンデシタ」
『お前ら本当にそういう変なところばっかり似やがって。俺をおちょくって楽しんでるとしか思えねぇな・・』
何の事だか分からず無言でいると『そんなことより』と続けられる。
『どうせ仮病だろ?今から駅前に出てこい。40分あれば来れるだろう、じゃあな』
「えっ、ちょ、まっ」
反論する間もなく電話は切られてしまう。本当に仕事の話なのだろうか、それにしてはあまりに横暴な約束である。一方的に時間を言いつけて電話を切るなんて、普通の人間ではありえない。本当に同じ兄弟なのかと考えたところで、昨日の想像もあながち間違いでは無いのだろうと思う。そういった部分が今の鈴にはとてもうらやましく思えた。
「・・ハァー、しゃっちょさん待たせるわけにはいかないか」
渋々着替えて家を出る。歩いて駅前に向かうとすでにそこに一樹が仁王立ちで待っていた。少し離れたところではチラチラと横目で一樹を見ながら歩く人が多かった。性格はアレだが顔立ちは整っている。雰囲気が悪い為誰も近づこうとはしていないが、今からそこに向かわなければならない事に鈴はひどく気持ちが落ち込んだ。
「遅い、何分待たせるんだ」
「すみませんでした。2分です」
「ったく。こっちだ、乗れ」
乱暴な物言いとは反対に手際よく助手席側へエスコートされる。和也とも一也とも違ったその車は、真っ赤なポルシェであった。こんなに赤とポルシェが似合う男はそういないだろう。自信に満ち溢れすぎているその姿はいい意味でも、悪い意味でも人目を引いた。
「後部座席で・・」
「ここでいい。さっさと乗れ」
「ハイスミマセンデシタ」
ささやかな抵抗も空しく助手席へと強制的に座らされると、静かに車が発進した。思ったよりも安全運転な一樹に驚きながら、黙って連れられていくと一軒家の前で車を停めた。車が4台置けるほどの広いスペースの駐車場を持つその家には、光葉という表札がかかっていた。
「あの・・」
「黙って付いて来い」
「スミマセン・・」
良く見てみると家はそれほど大きくは無いようであった。駐車場がやけに広いのは、隣の土地を駐車場の為に崩して作ってあった為であった。門を開けて玄関へ入ると、一般的な広さの玄関に質のよさそうなマットが敷いてあった。
「ただいま」
「やっぱりご実家でしたか」
「えぇ?お帰りなさい一樹さん」
奥からパタパタとスリッパの音がすると上品な声色の女性が出てくる。鈴に気付くと「あっ」と小さく呟いて一旦家の奥へ戻ってしまう。何か失礼なことをしてしまったのかと思い一樹を見上げると、こめかみの辺りを押さえて難しそうな顔をしていた。
良く分からないまま上がるように促されて居間に通してもらうと、そこは立派な和風造りであった。日焼け知らずの畳は青々としており、とても丁寧に手入れされているのが一目で分かった。間仕切りには見ただけでいいものだと分かるような物が使われており、外から見たイメージと違って驚いてしまう。
「あの、外観と内装がここまで違う家初めて見ました」
「ハァ・・。そこか?今気にするところはそこじゃないだろうが」
「え?何がですか?」
一樹は呆れたように鈴を見た後で「もういい」と言って座布団に座るように言う。おずおずと正座をしていると、先ほど奥に戻ってしまった女性がお茶と茶菓子を持って出てきた。慌てて立ち上がろうとする鈴を笑顔で制して、お盆のものを全て並べるとうやうやしく頭を下げる。
「一樹と和也の母でございます。いつも二人がお世話になっております」
「いっ、いえ、日和鈴です。私の方こそ御社にの社長さんにはとてもお世話になっております」
「・・いい加減そのバカっぽいのやめろって」
「え?何がですか?」
デジャヴだろうか、先ほども同じようなセリフを言ったような気がする。しかも一樹はさらに眉間のしわを深くしてため息をつくと、母親へ向かって更に続ける。
「母さんも、そんな風だと日和が誤解するだろうが。あいつはまだ上に?」
「あらやだ・・ごめんね、ご挨拶だけはしっかりしておかないとって思ったんだけど・・。昼食はさっき下げに来たところよ。だから寝ているとかそういうのは無いと思うわ」
「そうか。じゃあ行くか」
一樹は立ち上がると居間から出ていくようであった。鈴がそれをぼんやり見送っていると、眉間のしわに力を入れて「日和、お前もだ」と言った。慌てて鈴も立ち上がって後を追うと、緊張のあまり短時間でしびれてしまった足がもつれて転げそうになる。一樹がとっさに腕を差し出してくれたため転げずに済んだが、それを見て「あらあら」と微笑ましそうにしている母親に思わず「違うんです」と言ってしまう。
何が違うのかは分からないが、一樹は鈴の頭を軽くたたくとそのまま襖から出ていく。今度は慌てないようにゆっくりとその後を追うと、母親の方へ少し頭を下げてから襖を閉めた。無言の一樹についていくと階段に着く。
「あの・・」
「静かに」
それからは再び無言で階段を上り、とある部屋の前で止まる。そこは襖ではなくドアになっていて3回ノックをする。
「・・母さん?」
「俺だ、開けろ」
中から聞こえた言葉に思わず一樹を見上げるが、気付かないふりをされてしまう。中から聞こえたその声は、昨日の甘く掠れたような声でもなく、苦々しい声でもなかった。ボソボソと呟くような低い声で、過去に聞いたことのないようなものであった。
だが鈴には分かってしまったのだ。中に居るのが和也であるということが。どうしてかと言われても直感でしかなかったのだが、今すぐその手を取って「大丈夫だよ」と言ってあげたくなるような声であった。
「・・・」
「聞こえてるんだろ、開けろ」
「いやだ」
ボソボソとした声だったのに、妙にはっきりと聞こえたその言葉は昨日の自分を見ているようであった。完全に相手を拒絶しているのだ。心の底から、それを望んでいるという声である。それなのに特に表情を変えることなくドアノブに手をかけて開けようとしたが、鍵がかかっているため開かないようだった。
「どうして会社を休んだ」
「・・調子が悪くて」
「病院には行ったのか」
「そこまでの、ものじゃない・・し」
再びボソボソとした声に戻ると、それ以上言葉は無いようであった。それでも一樹は話しかけ続ける。
「母さんも心配している。雫さんも、今日はお前を見かけないと言っていた」
「・・・」
「日和は普通に会社に来ていた。お前が休んだ理由を尋ねたが、分からないと言っていた」
そんなはずはない、自分は休むと伝えていたはずだ。再び顔を見上げると鈴の口元に人差し指を伸ばしてくる。まだ静かにしていろということらしいが、一体この会話を聞かせてどうしたいというのだろうか。和也が休んだことで一樹に不具合が出来たのかもしれない。
だが鈴にはもうそんな資格が無い事を、一樹は知らないのだ。昨日の今日で情報が伝わっている方がおかしいのかもしれないが、和也はまだ別れたことを伝えていないのだ。
「・・他には」
「あ?」
「他には・・何か、言ってなかった?」
「何も言ってないな」
一樹の言葉に「そう・・」と返事がくるが、鈴が自発的に「昨日別れたんですー」などと言うと思っていたのだろうか。そうだとしたらとても心外である。
「あ、そうでもないな」
「えっ?」
少し間をおいて、思い出したかのように言うと部屋の中でキィという音がした。椅子にでも座っているのだろうか、それが動いたような音がした。
「・・いやでもどうでもいいか」
「そんなこと、ない、教えて」
「いやどうでもいいわ。スマン」
とても焦った声で聞き返す和也に、酷くあっさりとそう言うと一樹はその場で足踏みをした。その時、鍵の開く音と同時にドアが開く。
「待って・・!」
「やっと開けたかバカ和也。入るぞ、日和も来い」
「えっ、は、い」
「え!?」
このタイミングを待っていたとばかりに問答無用で部屋の中へ入っていく一樹は、当然のようにテレビの前に置かれた一人用のソファへ腰かけると言った。
「で、どうなってんだお前らは」