三十二話
強引に部屋に入るように促されるが、あっという間に一樹は一人掛けのソファに座ってしまった。8畳程の部屋には一人掛けソファ、パソコンテーブル、座り心地のよさそうな移動椅子、ベッド、天井まで届く縦長の大きな本棚しかなかった。窓は壁一面に一か所あり、そこから太陽の光が入っていたため部屋も明るく見える。
ポスターやカレンダーなどは壁に貼っているものは何もなく、全面白い壁のままであった。本棚は上から下まで専門書や図鑑が並んでおり、見たことのないものばかりである。他に座るところが無かったためドアから少し離れた場所に腰を下ろそうとすると、慌てて和也が座布団を持って寄って来る。
「で、返事は?」
「ええと・・」
二人が座布団に座ったところで一樹が苛々したように声をかける。どちらにも尋ねているようだったが、多分鈴ではなく和也の方であろう。目線が射抜くように和也を見ていた。
「・・・」
「何とか言えないのか、会社ズル休みしやがって」
「え・・」
「それ、は、その、違う・・」
思わず和也を振り返ると気まずそうに視線を彷徨わせている。鈴と目が合うことはなかったが、一樹とも目が合いそうにはないようだ。それに更に苛立つようにして舌打ちをすると追及を重ねる。
「何が違うっていうんだいい加減にしろ。お前の勝手で、軽率で、愚鈍な行動で、会社がどれだけ困るか分かるだろうが」
「・・でも」
「でも?この期に及んででもなんて言えるお前のその神経はどうなってるんだ!」
声を荒げた拍子に和也の肩がビクリと大きく跳ねた。鈴は思わず手を伸ばそうとするが、触れる寸前に自分が彼女ではなくなったことを思い出して手を引く。怯えたような、悲しそうな顔で俯く和也を慰めることも出来ない自分に思わず唇を噛みしめてしまう。
「そんな・・こと、ないです。和也さんも、色々考えてそういう結論になったのではないでしょうか」
「どういうことだ」
「勿論社長と対等な関係の社員だということは分かっています。事情があってそういう事をしているんでしょうけど、ずっと日陰にいるのも辛いです・・たまには休憩をとっても、罰は当たらないんじゃないでしょうか」
鈴の言葉を黙って聞く一樹だったが、最後まで聞いたところで大きなため息をつく。そして反論しようと口を開くと、それよりも早く和也が声を出した。
「今回勝手に休みを入れたのは、僕が決めたことだ。一樹に事前の断りなく休んで本当に申し訳なかった。然るべき処分は受けるつもりだから、鈴ちゃんを責めないでくれないか」
「・・で、何で休もうと思ったんだ」
むすっとした表情で和也を見下ろす。先ほどはその睨みだけでひるんでいた様子だったにも関わらず、今度はきちんと一樹の顔を見て返事をする。
「鈴ちゃんが言ってくれた通りだ。日陰に居る生活に少し疲れてきてしまったから、休憩したかったんだ。それ以上でもないしそれ以下でもない。明日からはきちんと出勤するから」
「ハァ。お前もいい大人なんだから、きっちりケリつけるところはつけとけよ」
一樹はおもむろに立ち上がると鈴の首根っこを掴んでドアを開ける。慌てて立ち上がろうとしたところで和也に手を掴まれる。思わずドキッとしてしまう心臓が憎らしかった。
「なんだよ、会社休んでんのにイチャつく気か?」
「帰りは送るから、一樹は先に帰っていいよ」
「ハイハイ。じゃーな日和、お前も休むなよ。あとちゃんと社長からの電話はすぐにかけ直せ」
鈴の返事も聞かずにドアを閉め、すぐに階段を下りていく音がした。ついでに玄関のドアが閉まった音まで聞いてから、手を掴まれっぱなしだったことを思い出す。
「あっ、ごめ、ん」
和也も無意識で掴みっぱなしにしていたらしく、手はすぐに離れてしまった。それをなんとなく悲しく思う自分を押し込めて聞く。
「和也さん、会社休んでたなんて知らなかった」
「僕も鈴ちゃんが休んでたこと、知らなかったよ」
思わず顔を赤くすると和也は悲しそうに笑みを浮かべた。鈴の胸の内に嫌な予感が溢れたが、和也の口は滑らかに言葉を紡いだ。
「一晩考えたんだ。やっぱり僕のそばに鈴ちゃんが居てはいけないと思う」
「・・言わないで」
小さく首を振るが相変わらず悲しそうな笑みを浮かべたまま更に続ける。
「別れよう」
何かがポタポタと手の甲に落ちてきたことに気付いて見ると、どうやら鈴は涙を流しているようであった。瞬きをすると更に数滴零れ落ちたが、視線を和也に戻してもいつものようにティッシュを手渡してはくれなかった。
ただひたすらその場で涙をこぼすだけで何も言えずにいたが、和也はそれ以上何も言う気はないらしい。
「和也っ、さん、いや」
思わず和也の手を取るが、取られたまま力を入れようとしない。その手は冷たく、熱くなっている鈴の手にはひんやりと感じられた。もしかしたらこの温度差が今の気持ちの温度差なのかもしれない、と頭の片隅で考えている自分がいた。
何も言わずにいる和也の顔には悲しそうな笑みが浮かんだままだったが、もしかしたらこの笑顔も作られたものなのかもしれない。本当は早くこの部屋を出て行ってほしくて仕方ないのかもしれない。手を取って涙する鈴の事を鬱陶しがっているのかもしれない。
全ては鈴の勝手な憶測に過ぎなかったが、あまりに悲しい憶測だった。希望の欠片も無いようなそれは、先ほど取った手を取りこぼしてしまう。ストンと重力のまま下に落ちていく手は、鈴に対して何の悔いも残していないように見えた。
「・・さようなら、ですか?」
無言で頷く和也を見た瞬間に再び涙があふれ出た。思わず顔を両手で覆うと、押し殺せない声が漏れていく。
「っぐ、かなし、いですっ。わたし、っまだ、あのっしたいことっとか、まだっ、かずやさっ」
「・・ごめんね」
必死に言葉を繋ごうとする鈴の頭をポンと一度撫でる。それだけで、ああ本当にダメになってしまったのだ、と鈴は実感せざるを得なかった。昨日告げられてから目を背け続けていたことを完全に認めるのは、まだまだ時間がかかりそうだったが、今はこの場から去るのが重要なことに気付いた。
いつまでもこうしていたところで一度壊れたものはもう二度と元には戻れないのだ。未だ止まりそうにない涙を袖でゴシゴシと拭くと和也から離れて一礼をする。
「今まっで、ありがとう、ございまっした」
鞄を拾い、そのままドアから出て行こうとしたところで和也が焦ったように言う。
「ま、待って、送るから」
「いえ、結構です・・っ。あの、一人に・・してくださっい」
「でも・・」
何かを言いかけた和也の言葉を遮って「失礼します」と言うとドアを閉める。早足で玄関へ向かうと奥から和也たちの母親が出てくる。俯いたまま早足で玄関へ向かう鈴を不思議そうに見ながら、後ろから声をかける。
「お帰りですか?何のおもてなしも出来ず、本当にごめんなさいね」
「いえッ、大丈夫です。お茶美味しかったです。ありがとうございました」
「和也さんが送っていくって聞いてたけど・・後から来るのかしら?」
心配そうに二階に目を向けるが鈴は早口で「そうなんです、お邪魔しました」と言って一礼するとそそくさと外へ出て行った。
どうやって帰ったかは覚えていないが、多分これ以上ないぐらい遠回りをして帰ったと思う。家に帰ってもすることはないし、今は何も考えたくなかった。細い路地に入り込んでみたり、見たことのない公園で遊ぶ子供を眺めてみたり、意味も無く1軒1軒表札を確認しながら歩いてみたりした。
無事に家にたどり着けるかは分からなかったが、大きな通りへ出てしまえば後は早かった。最寄駅まで真っ直ぐ電車で一本で向かうと、家に辿りついた頃には晩ご飯の時間になっていた。もっとも、ここまで徒歩で帰ってきているのだからお腹が空いてもおかしくなかったはずなのに、お腹が空いたという感覚がなかったため水を飲んでベッドへ寝転がる事になるのだが。
まどろんでいると、玄関でガチャガチャと音がする。ドアが開き、外の空気が入ってくると一気に室温が下がった。するとすぐに部屋に電気がつく。誰かが家に入ってきたようだった。
「やだ、居たの?電気ぐらいつけなさいよーもう」
「・・うん、ごめん、ごめんね」
「・・鈴?」
「春ちゃん、おかえり」
靖春はすぐに駆け寄ってきて鈴を腕の中におさめる。じんわりと温まっていく体は、今更になって寒さを思い出させた。
「暖房ぐらい、かけろよ」
「うん、ごめんね。春ちゃんあったかい」
手元に置きっぱなしのままつけられていないエアコンの電源を入れると、徐々に部屋が暖かくなっていく。そっと鈴から離れるとお湯を沸かして、熱いコーヒーを準備すると直接手渡す。まだ口をつけられず小さく息を吹きかけて冷ますが、なかなか冷めそうになかった。
冷ますことに集中していると、キッチンからは包丁の規則的な音が聞こえてくる。少しずつコーヒーを口に含みながら待っているといい匂いがしてきて、オムライスが出てきた。食欲は無かったが、促されて口をつけるといつもと同じように美味しかった。涙が出るほどに美味しかった。
「我慢すんな、泣いてもいいんだ」
「うん・・泣いてない・・。おいしいね、これ」
「当たり前だろうが、俺が作ったんだから」
相変わらず深くは聞かなかった。今の鈴にもすべて説明をしろ、と言われても到底頭の整理が追いつかないので無理だが、それでも一旦食べ始めるとお腹が空いていたことを思い出したように全て平らげてしまった。
隣で黙ってそれを見ながら同じものを食べる靖春だったが、お茶を淹れるために席を立った時に思わず口から言葉がこぼれ出す。
「あの、ね、和也さんに振られた」
「・・そうか」
そこで涙がボロボロと出てくる。靖春がそっと傍に寄り添い、涙を拭く。
「私の、ことっ、好き、って、思った、けど、ちがくっ、て、知らないひっ、人が、好きなんだって、わた、しあたま、わかんな」
「・・うん、鈴はわかんねぇかもしれないけど、俺は分かる」
「はるちゃっわたっし、どしよ、かなじぃ・・!」
思い切り靖春に抱き着くと、靖春も鈴を抱きしめ返す。鈴が大きな声を上げて泣く間、ずっと背中をさすってやると少しずつ声が落ち着いていく。何も言わずにしゃくりあげていると、優しい声が降ってきた。
「俺にしとけよ」
「・・?」
顔を上げようとするが、後頭部から頭を肩に押さえつけられてそれを阻まれる。
「ずっと言ってただろ?俺は鈴が好きだって」
「でも、それは友達の」
「この状態でまだ言うか?俺が好きなのは、過去から今まで鈴だけだ」
言われた言葉の意味を理解するには、あまりに靖春の言葉がストレートすぎた。ピタリと動きを止めてしまった鈴を心配するように、頭を押さえていた手の力を弱めて顔を覗き込む。心配そうな顔をしているが、仕事終わりのためメイクもしている。
それなのにあまりに男らしすぎた。いつもは何も思わない大きな手のひらも、見た目よりもずいぶんガッチリとしている肩幅にも、力強さにも、いつもの靖春は見当たらなかった。オネエ言葉を使って、鈴に都合のいいように話を合わせてくれながらも間違っていることを正してくれる、そんな親友とは違った部分だった。
「ごめん、こんな状態の鈴に言うのって絶対卑怯だと思う。だけどもう無理だ」
「え、なんで・・?」
「こんな状態の鈴放っておける方がどうかしてるからだ」
真剣な眼差しは射抜いたように鈴の目を逃がさなかった。ガッチリと掴まれている肩から靖春の手の熱が伝わってくる。それは熱く、昼間に感じた自分の手と同じように感じた。それに気付いた時にはもう、靖春の手から、視線から、全てから逃れる気力は全てどこかへいってしまった。
「好きだ、鈴」
その言葉が頭の中で何度も反響しながら、靖春と出会った頃の事を掘り起こしていった。




