第1話 離婚祝いの夜
小春は、ぼんやりと目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
昨夜はかなり飲んだはずなのに、不思議と頭痛はなかった。
寝ぼけた頭のまま起き上がり、視線をななめ下に向けた瞬間、小春の思考は停止した。
男がいた。
長いまつ毛に整った鼻筋。
少しだけ開いた妙に色っぽい唇。
寝顔なのに綺麗な顔。
うつ伏せで片腕を枕代わりにしていたが、シーツから覗く肩は広く、思わず目を奪われる。
細身に見えるのに、肩から腕にかけてはしっかりと筋肉がついていて、男らしい体つきを隠しきれていなかった。
数秒前まで眠気に支配されていた脳が、一気に覚醒する。
小春は恐る恐る布団を握った。
そして、ゆっくりと視線を下へ落とす。
震える手で布団をめくる。
結果は予想通り、服を着ていなかった。
「なんでだぁあああーーー!!」
女性のセリフとは思えない言葉が、部屋中に響いた。
その声に驚いたのか、隣の男もゆっくり目を開け、起き上がる。
「んんっ……」
ライトブラウンの少しウェーブがかかった髪をかき上げながら、男は迷惑そうに眉を寄せた。
「……うるさっ……」
寝起き特有の掠れた声が、妙に色っぽい。
いや、そんなことはどうでもいい。
男は目をこすると小春を見て、何事もなかったかのように微笑んだ。
その顔は、とっても爽やかだった。
「おはようございます。朝から元気ですね」
腹が立つくらい爽やかだった……。
◇◇◇
昨日の夜。
離婚したその日。
小春は、人生で一番まずい酒を飲んでいた。
「離婚、成立したんですか? おめでとうございます」
少し明るいその声に、小春は隣を見る。
数ヶ月前から、このバーでよく顔を合わせるようになった男が、笑顔を向けている。
この男は、背が高くて、顔が良くて、妙に話を聞くのが上手い。
神城颯太。
27歳。
詳しくは聞いていないが、彼も何か悩みを抱えていて、マスターに話を聞いてもらっているらしい。
小春はジョッキを持ち上げた。
「颯太くん。それ、お祝いの言葉として正しい?」
「少なくとも俺は祝いますよ」
さらりと言われて、小春は思わず黙り込んだ。
行きつけのバー『Blue Note』。
照明は少し暗く、ジャズが静かに流れている。
カウンターの向こうでは、筋肉質なマスター相沢さんがグラスを磨いていて、バーの中はいつも通りの夜だった。
小春はグラスを傾けた。
冷たいビールが喉を通る。
離婚が成立したら、もっとスッキリすると思っていた。
解放感とか、達成感とか。
そんなものがあると思っていた。
でも実際は違う。
ただ疲れた。
ものすごく疲れた。
「32歳で離婚だよ。なんかさ……結婚生活三年間、何やってたんだろって思うわけよ」
「人生勉強してたんじゃないですか?」
「そんな綺麗な話かなぁ……」
「俺はそう思いますけど。離婚なんて、今どき珍しくもなんともないし、32歳なんて、まだまだやり直せる年でしょ」
「颯太くん……。君、いいやつだよね」
小春がカウンターに突っ伏したまま、ちらりと颯太を見る。
颯太は、笑ってグラスのお酒を飲んだ。
氷がカランと鳴る。
「そういや、颯太くんって、なんの仕事してるの?」
「色々やってます。親の仕事手伝ったり、友達と仕事したりですかね」
「ふーん……」
よくこのバーで顔を合わせているが、この男のことを何も知らない。
なんか颯太くんって、定職についてない感じだな。
いつもラフな格好だし、今日もパーカー……。
顔もいいし物腰柔らかいから、失礼だけど、この人ヒモタイプだな。
高身長イケメンだけど、付き合う女の人、苦労しそう。
マスターが、笑いながら小春にオリーブを差し出した。
「はい。これ、サービス! 小春ちゃん、ようやく離婚できてよかったねぇ」
「ありがと、マスター。……本当、疲れたよー」
オリーブを口に入れると、独特の塩気と酸味が広がった。
ほのかな苦みに、酒が飲みたくなる。
「もう一杯飲んじゃおうかな! マスターもう一杯!」
「オッケー!」
「朝倉さん、飲みすぎじゃないですか? 明日面接って言ってませんでした?」
「……ああ、そうなんだよね。書類選考は通って嬉しかったんだけどね。でも、難しいかも……。いくらマスターの弟さんの紹介だからって、あの会社はレベル高すぎ!」
「いや、小春ちゃん、前は大手のシステム開発の会社にいたんでしょ? 俺の弟の会社、即戦力の人募集してるから、受かるかもしれないじゃん」
「即戦力……。三年のブランクが痛い……」
「小春ちゃん、頑張りなよ! 前職では、バリバリ仕事してたんでしょ?」
「うん。……元旦那のせいでやめたの、バカだったなぁ。仕事好きだったのに……!」
マスターが、ジントニックを小春の前に置いた。
颯太はマスターを睨んでから、ジントニックを取り上げようとする。
「朝倉さん……飲みすぎだから。もうやめておきましょう?」
小春は颯太が取り上げようとしたグラスを取り返し、赤い顔をしながら怒る。
「今日はいいの! っていうか、もう“朝倉”じゃない! “榎本小春”! 小春って呼んで!」
ぐいっと飲み干すと、小春は目が回ってきた。
涼介と結婚する時に、“仕事はやめて家庭に入ってほしい”と言われて、まんまとキャリアをドブに捨てた。
この三年間、主婦しかしていなかった私が、戦力として見てもらえるのだろうか。
まぁ、やるだけやってみるけど……。
小春は、再度カウンターに突っ伏して脱力する。
「三年の内、二年間はレスだったんだ……」
「……」
「向こうは浮気相手とお盛んだったのに。……私には女の魅力はないんだって」
「そんなことは……ないと思いますけど」
「いや、浮気相手は年下なのにお色気ムンムンだもん……。背が小っちゃくてかわいい女の子って感じの。……こんなでかくて色気のない女、そりゃ魅力ないよね……」
小春は身長168センチと、女性にしては少し背が高い。
すらりとして見えると言われることもあったが、本人にとっては昔から小さなコンプレックスだった。
顔立ちは整っているものの、若干切れ長の目のせいか、黙っていると気が強そうに見られることが多い。
ダークブラウンのセミロングの髪を、いつも後ろで一つに束ねていた。
「……小春さん、もう飲まない方がいいですって。……マスター、水ください」
「はいよ」
「相手の子、妊娠したんだって」
それを聞いて、颯太の顔は小春を見たまま固まった。
気付けば、小春の視界が滲んでいた。
「うぅぅ……」
颯太は、小春の背中を自然な手つきで撫でる。
「颯太くん……。私……頑張ったよねぇ……」
「頑張りました」
「いっぱい我慢したよねぇ……」
「しましたよ」
「もっと褒めて……」
「世界一頑張りました」
「うわぁぁぁん!」
声を出して泣く小春の背中を、颯太はずっと撫でていた。
小春は完全に酔っていた。
小春は、涙を拭きながら急にジョッキを持ち上げた。
「颯太くん! 乾杯!」
「次は、何にです?」
小春は少し考えた。
それから、ぐっとジョッキを掲げる。
「私の新しい人生に!」
颯太の目が柔らかくなる。
「……小春さんが、明日の面接受かりますように」
そして、颯太は自分のグラスを合わせ、笑った。
小さな音が鳴った。
「乾杯!」
◇◇◇
ベッドの上で、腹立つほど爽やかに笑顔を向ける颯太に、小春はきっぱりと言い放つ。
「おはようございます、じゃないでしょーー!?」
小春は布団を胸元まで引き上げると、にこにこしている颯太を問い詰めた。
「なんでいるの!? なんで颯太くんが一緒に寝てるの!? しかも裸で!!」
颯太は、きょとんとした顔をした。
「なんでって……。昨日のこと……覚えてないんですか?」
「……ない」
小春は頭を抱えた。
この男を恋愛対象として見たことなんて一度もない。
なのに今、その男と裸で同じベッドにいる。
意味が分からなかった。
「あのさ……。どうなってそうなったの……?」
恐る恐る尋ねると、颯太は少し考えるように視線を上げた。
上半身裸で考え込む様子が、また色っぽい。
って、そんなことどうでもいい……!!
「離婚おめでとうって乾杯して、小春さんいっぱい飲んでましたね」
「うん……それは、覚えてる……」
「で、いっぱい泣いてました」
「うん……それもなんとなく」
「で、そのまま寝ちゃって」
「……」
「マスター困ってたから起こしたら、小春さん、俺の手を引っ張って、ここに連れてきました。……で、俺、帰ろうとしたんだけど、押し倒されて……」
「……待って?」
小春は片手を上げた。
聞きたくない。
でも聞かなければならない。
「私が? 私が颯太くんを襲ったってこと?」
「まぁ……状況的にそうなりますね」
「とめてよ!!!」
「……なんで?」
颯太は、心底わからないような顔をして黙る。
やめて。
そんな間を作らないで。
怖いから……!
「……私達、やっちゃったんだよね……?」
「……本当に、何も覚えてないんですか?」
「覚えてないってばぁ!」
小春のその反応に、颯太は肩を揺らして笑った。
「……俺だけ覚えてるの、ちょっと得した気分ですね」
「最悪!」
反射的に枕を投げる。
颯太は笑いながら受け止めた。
本当に腹が立つ。
なんで私だけこんなに慌てているの。
この人、こういうの慣れてるんだ、きっと!
どっからどう見ても、ヒモタイプだもん!
相当遊んでるでしょ!
小春は、ため息をついて頭を抱えた。
「このことは、忘れようね! なかったことにしよう!」
「えー? ……嫌です」
「忘れて!」
「無理です」
「忘れてぇぇぇぇぇ!」
「だから、それは無理ですって」
小春は涙目で拝むが、颯太は困ったように笑った。
そして、小春の顔を覗き込んで、甘い脅しをかける。
「っていうか、小春さんが俺をお持ち帰りしたんですからね? わかってますか?」
小春は、耳をふさいで聞かなかったことにした。
けれど、颯太はなぜか楽しそうに笑っている。
「……と、とにかく、服! 服着て! 颯太くんも仕事だよね?」
「ああ……。たしかに、俺も今日は大事な仕事がありました」
颯太は素直に頷いた。
床に投げられていた服を拾いながら、颯太は思い出したように言った。
「あ、そういえば。……マスターが朝食用にって、サンドイッチ持たせてくれたんです。冷蔵庫に入ってますから」
「マスターが?」
「“激励を込めて”って。でも、トマト入ってるサンドイッチを作ろうとしてたから、違うのにしてもらいました」
「……え?」
小春は固まった。
「なんで私がトマト嫌いって知ってるの?」
颯太は一瞬だけ黙る。
そして、何でもない顔で笑った。
「前に言ってましたよ」
「……私、そんなこと言った?」
「はい。言ってました」
言っていない気がする。
でも、昨日の記憶もない自分が、何が言えるか。
だから小春は、それ以上追及できなかった。
「とにかく……!! 大人なんだからお互い様ってことにしよう! 私と颯太くんは、“飲み友達”ってことで、なかったことにしようね! じゃ、私、これから面接行くから帰ってね」
小春は、ぴしゃりとそう言い切り、颯太の返事を待たずに玄関の戸を開ける。
「……小春さん、冷たくない?」
「冷たくない! 忙しいの! 帰って!」
「はいはい……」
颯太は、苦笑しながら言われた通り出て行く。
古い安アパートの扉を閉めた後、颯太の口角がゆっくりと上がる。
「さて……。俺も面接官、頑張るか」




