後日譚 001
偽ラブレター事件が終わって、夏目先輩からの返事も届いて、学校が少しずつ普通の速度に戻り始めたころ。
後日談というには少しささやかで、事件というには何も起きない放課後が一日あった。
誰かの秘密を抱えた封筒も、新しい依頼人も出てこない。
朝倉文具には、ただ客が来て、棚が乱れて、俺がレジで小銭を数える時間だけがあった。
ただし、客は妙に多かった。
文化祭が終わると、使い切ったペンやなくした定規や、どこかへ消えたノートの補充が一気に来る。学校行事は華やかに終わるが、その裏で文具はだいたい消耗している。うちみたいな校門前の店には、その余波が数日遅れで押し寄せる。
俺がレジで会計をしていると、入口のベルが鳴った。
真白だった。
「今日はただの客よ」
入ってきて最初にそれを言うあたり、本人も自覚はあるらしい。
「じゃあ客か」
「ええ。替え芯を買いに来たの」
「それだけ?」
「それだけ」
真白はまっすぐ替え芯の棚へ向かった。姿勢がいいせいで、ただ替え芯を選んでいるだけなのに、どこか大事な選定をしているように見える。三本入りと十本入りの前で少し迷い、結局十本入りを手に取った。
「勉強熱心だな」
「書く量が増えたの」
「手紙?」
「ノートよ」
即答された。少しだけ負けた気がした。
そのとき、母さんが奥から声を上げた。
「拓馬、ちょっと在庫の箱を動かすから、レジお願い」
「今もしてる」
「あと棚も見て。今日ずっと乱れてるから」
言われなくても分かっていた。レジ前には小学生が二人、ノート棚には一年生らしい女子が三人、ペンの前には部活帰りの男子が固まっている。普段の朝倉文具なら、これで十分に混雑だ。
真白が替え芯を持ったまま、棚の乱れを見た。
「手伝うわ」
「客に棚整理させる店はまずいだろ」
「朝倉文具には、これまで何度か調査本部として場所を借りているから」
「その返済が棚整理なのか」
「妥当でしょう」
真白はそう言うと、曲がっていた消しゴムの列を直し始めた。まっすぐになりすぎて、逆に売り場というより展示みたいになっていく。
母さんが奥から戻ってきて、その様子を見た。
「あら、助かるわ。よかったらこれ使う?」
差し出したのは、朝倉文具の店名が小さく入った紺色のエプロンだった。
「母さん」
「なに?」
「なに、じゃない」
真白はエプロンを見て、それから俺を見た。
「着たほうがいい?」
「普通は着ない」
「でも棚を触るなら、店の人間かどうか分かったほうがいいでしょう」
正論だった。正論はときどき人を追い詰める。
真白は制服の上からエプロンをつけた。結び目を後ろで整えて、髪を少しだけ払う。その姿を見た瞬間、レジ前にいた小学生の一人が小さく「店員さん増えた」と言った。
俺は聞こえなかったふりをした。
「似合うわねえ」
母さんは聞こえる声で言った。やめてほしい。
真白は少しだけ背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
こういうときに真面目に返すから、余計に困る。
最初の客は、小学生の男の子だった。手に短くなった鉛筆を一本持っている。
「消しゴムください」
真白が棚の前にしゃがんだ。
「用途は?」
「え」
「鉛筆の濃さと、使っているノートの紙質で合う消しゴムが少し変わるの。硬めのものは細かい字を消しやすいけれど、力を入れすぎると紙が傷む。柔らかいものは広い範囲を消しやすいけれど、角が崩れやすいわ」
男の子は完全に固まった。
俺はレジから身を乗り出した。
「よく消えるやつと、折れにくいやつ、どっちがいい?」
「よく消えるやつ」
「じゃあこれ」
俺が白い消しゴムを渡すと、男の子はほっとした顔でうなずいた。
真白は少しだけ眉を寄せた。
「情報量を絞る必要があるのね」
「事件じゃないからな」
「消しゴム選びにも理由はあるでしょう」
「ある。でも小学生が欲しいのは、消しゴムの講義じゃなくて消しゴムだ」
真白は男の子の背中を見送ってから、小さくうなずいた。
「覚えたわ」
その次に来た中学生は、三色ボールペンの替え芯を前にして迷っていた。真白は今度、説明を半分にした。
「よく使う色は?」
「赤です」
「なら、この替え芯のほうが減りにくいわ。丸つけが多いなら、こっち」
十分だった。完璧な接客ではない。でも、相手を見て言葉を減らしている。少し前の真白なら、正しい情報を正しい順番で全部渡そうとしていたかもしれない。今は違う。届く量にしている。
人は変わる。大きな事件で一気に変わるんじゃなく、消しゴム一個の前で少しだけ変わることもあるらしい。
店の混雑が少し落ち着いたころ、今度は一年生の女子がカードの棚の前で迷っていた。
「誰かに渡すの?」
真白が声をかけると、その子は少し驚いてからうなずいた。
「部活の先輩に。文化祭のとき、すごく助けてもらったので。ありがとうって書きたいんですけど、重くなりすぎるのも変かなって」
「重くしたくないなら、便箋よりカードね」
真白は迷わず、小さめのカードを選んだ。薄い水色で、余白が多い。飾りは少ないが、手に取ると紙の厚みがちゃんとある。
「たくさん書ける紙を選ぶと、たくさん書かなきゃいけない気がしてしまうから。これくらいなら、一言でも形になるわ」
「一言でいいんですか?」
「本当に言いたいことが一つなら、一つでいいと思う」
その声は静かだった。
事件のときの真白ではない。誰かの本物を守ろうとしている顔でもない。ただ、言葉を渡したい人に、ちょうどいい紙を選んでいるだけの顔だった。
一年生はそのカードを買っていった。レジで会計をしながら、俺は紙の角を袋に引っかけないように入れた。せっかく選ばれた紙だ。渡る前に折れたら、少しもったいない。
「今の、よかったんじゃないか」
客が出てから言うと、真白は少しだけこちらを見た。
「接客として?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺は店員側だから、客観性に欠ける」
「便利な逃げ方ね」
そう言いながら、真白は少し笑っていた。
入口のベルがまた鳴った。
「あ、ましろんが働いてる」
あかりだった。片手に購買の袋、もう片方に空のクリアファイルを持っている。放課後の荷物としては統一感がない。
「働いてはいないわ」
「でもエプロンしてる」
「臨時よ」
「臨時店員ましろん」
あかりは楽しそうに言って、俺のほうを見た。
「朝倉くん、時給いくら?」
「払ってない」
「えっ、労働問題」
「勝手に手伝い始めたんだよ」
「ましろんが勝手に朝倉文具の棚を整えてるの、なんかすごく分かる」
真白は反論しかけて、やめた。たぶん自分でも少し分かっているんだろう。
あかりは付箋を一つ選び、レジに置いた。明るい黄色の、どこにでもある普通の付箋だった。
「これで」
「また何か貼るのか?」
俺が聞くと、あかりはにやっと笑った。
「忘れないように。明日の小テスト」
「それは付箋じゃなくて勉強で解決する問題だろ」
「朝倉くん、正論が冷たい」
「勉強しなさい」
真白が言うと、あかりは大げさに肩を落とした。
「ましろんまで店員側になってる」
「私は最初から勉強しなさいと言う側よ」
「そこは変わらないんだ」
あかりは会計を済ませると、出口の前で振り返った。
「でも、いいね。二人とも、事件ないほうが顔が普通」
一瞬、店の中の空気が止まった。
あかりは何でもないように笑っている。けれど、たぶん本当に何でもないわけではない。あかりは明るい顔で、必要なことをさらっと置いていくのがうまい。
「普通って何だ」
俺が返すと、あかりは付箋の袋を振った。
「普通は普通。じゃ、ましろん、また明日」
「また明日」
真白がそう返した声は、少し柔らかかった。
あかりが出ていくと、店は急に静かになった。さっきまでの客足が嘘みたいに途切れ、夕方の光が棚の間に長く差し込んでいる。ペンの金属部分が細く光って、ノートのビニールカバーに窓の形が映っていた。
真白はエプロンの紐をほどいた。
「返すわ」
「母さんに返せばいい」
「あなたに渡す」
「なんで」
「今日の上司でしょう」
「いつからだよ」
真白はエプロンを畳んで、カウンターに置いた。畳み方まできれいだった。
「接客は、思ったより難しいわね」
「推理より?」
「別の難しさ。正しいことを全部言えばいいわけじゃないから」
「それ、事件のときも同じじゃないか」
言ってから、少しだけ驚いた。自分で言ったくせに、妙にしっくり来た。
真白も同じことを思ったのか、短く黙った。
「そうね」
それだけ言って、彼女はレジ横のメモ帳を一枚取った。試し書き用の安い紙だ。ペン立てからボールペンを抜いて、さらさらと何かを書く。
『本日の朝倉店員は、少しだけ店主みたいだった』
「なんだこれ」
「勤務評定」
「俺は毎日店番してるんだけど」
「だから、少しだけ」
「厳しいな」
「かなり褒めているわ」
真白は真面目な顔で言った。真面目な顔で言われると、受け取り方に困る。
俺はそのメモを捨てずに、レジの横へ置いた。捨てなかったことを真白に見られていた気がするが、何も言われなかった。
閉店時間になって、俺は店の外に出した看板を中へ入れた。母さんは奥で在庫表をつけている。店内の照明を一つ落とすと、棚の影が少し濃くなった。
レジの引き出しには、売上の小銭と、真白が書いたメモだけが入っている。
封筒も証拠品もない。誰かの秘密を預かっているわけでもない。
それだけで、引き出しの中がいつもより軽く見えた。
真白が横から引き出しを見た。
「気になっている顔ね」
「何が」
「そのメモ」
「気になってない顔の作り方を知らない」
「それは確かに下手そう」
「悪かったな」
俺が引き出しを閉めると、真白は何も言わなかった。ただ、今日のところはそれでいいという顔をしていた。
店の扉を閉める前に、外の空を見る。夕焼けはもうほとんど消えて、校舎の向こうが薄い青に沈んでいた。文化祭の騒がしさも、恋文ポストの噂も、少しずつ遠くなっていく。
「一ノ瀬」
「何?」
「エプロン、似合ってた」
言ってから、言う必要があったのか分からなくなった。真白は一瞬だけ目を見開き、それから視線を少し横へ逃がした。
「そういうことは、もう少し前置きをしてから言って」
「接客としての感想だ」
「今の逃げ方は雑」
「便利な逃げ方ってさっき言われたから」
「便利と雑は違うわ」
そう返す声が、少しだけ軽かった。
店のベルが小さく鳴る。外へ出ると、夜になる前の空気が制服の袖を冷やした。
事件のない放課後だった。
誰も泣かないし、誰も転校しない。偽物の手紙を暴く必要もない。消しゴムを選んで、カードを選んで、付箋を売って、エプロンを畳むだけの時間。
それだけの一日なのに、引き出しにしまった一枚のメモのことが、妙に頭から離れなかった。
『本日の朝倉店員は、少しだけ店主みたいだった』
安い試し書き用紙だ。明日になれば、棚の隙間に紛れてもおかしくない。それでもたぶん、俺はしばらく捨てない。
先に歩き出した真白が、店先で少しだけ振り返った。
「遅い」
「店主は戸締まりがあるんだよ」
「少しだけでしょう」
言い返せなくて、俺は鍵をポケットに入れた。
偽物の手紙に振り回された日々のあと、放課後はこんなふうに戻ってくるらしい。
大きな答え合わせも、次の依頼もない。
ただ、隣に歩く人がいて、明日もたぶん同じ棚の前で会う。
それくらいの続き方が、今はちょうどよかった。




