温かな腕の中で
「きゃあっ!?」
ヴィオラが大きな悲鳴をあげる。
焼き尽くされる幻の湖を見て、カイルが青ざめた。
「兄上! どうしてそんなことを!?」
「はっ、何が幻の湖だ。願いなんて叶わない、役に立たない湖じゃないか」
アダムは忌々しそうに言うと、ヴィオラに視線を移した。
「ヴィオラ、もう一度だけ言う。どうか、俺の元に戻ってきてくれ。……今の君たちの状況はわかるだろう?」
アダムが手の上に炎を浮かべる。
ヴィオラは青ざめてカイルと目を見合わせた。
二人とノクティスがいる場所は、アダムが見下ろす崖の先端だ。戻る道を炎に焼かれてしまえば、逃げ場はない。
「さあおいで、ヴィオラ。君が戻ってくれるなら、カイルには手は出さない」
「兄上、いくら何でも横暴です。そんな要求は、とても呑めません!」
カイルに続いて、ヴィオラも叫ぶ。
「お願いですから、こんなことはやめてください……!!」
「それは君の返事次第だ」
にやっと笑ったアダムが、掌の上に勢いよく炎を燃え上がらせた時、突然、地鳴りのような低い響きが聞こえた。
「!? 何だ……?」
続いて、山に鈍い揺れが走る。
表情を硬くしたアダムの前で、カイルが叫んだ。
「地震だ! このままでは危ない……!!」
ノクティスの身体が、あっという間に大きくなる。カイルはヴィオラを抱き上げると、ノクティスの背に跨った。
「ノクティス、頼む!」
来た道を風のように駆け戻っていくノクティスを眺めて、アダムが歯ぎしりをする。
「逃がしてたまるか……!」
彼らの行く手に向かって炎を放とうとした彼の身体が、ぐらりと傾ぐ。
「!?」
さらに地面の揺れは激しくなり、アダムはまともに立っていられなくなった。足元がミシミシと嫌な音を立てる。
慌てて遠ざかろうとするも、アダムもろとも崖が崩れ落ちる。
「うわあっ……!?」
アダムの叫び声は、山崩れの轟音にかき消され、カイルとヴィオラの耳には届かなかった。
***
ノクティスの背に乗ったヴィオラとカイルは、陽が落ちる直前に、無事に村の宿まで戻っていた。
滅多に起きたことのない地震に、村民たちも驚いていた様子だった。ただ、一部の崖や山肌は崩れたものの、村民には大きな被害はなかったという。
「こうして無事に戻れたのも、ノクティスのお蔭だね」
「ええ。アダム様はお怪我をなさったようですが……」
崖崩れに巻き込まれたアダムは、崖下の沢まで転落し、そこに居合わせた村民に運良く助けられ、どうにか一命は取り留めたようだ。ただ、村には重傷を負った彼の治療ができるような病院はなく、別の村へとすぐに運ばれたという話だった。
噂好きの宿の主人からそんなことを聞かされて、ヴィオラの表情は翳っていた。カイルがそっとヴィオラの肩に手を置く。
「僕は、兄上には罰が当たったんだと思うよ。神聖な『幻の湖』にあんな真似をするなんて……命が助かっただけでも幸運だったんじゃないかな」
カイルは溜息交じりに続けた。
「今まで、兄上は大きな失敗をしたことがなくて、きっと人の痛みを知らずにきたんだと思う。君が兄上を庇った時ですら、自分のことばかりを優先していたし、こういう目に遭って初めてわかることもあるんじゃないかな。それよりも――」
カイルがヴィオラの身体を優しく抱き寄せる。
「君が生きていてくれて、本当によかった」
彼の腕の温かさが、ヴィオラには心地良かった。
窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。標高の高いこの村では、夜になるとしんと冷える。暖炉の火が勢いよくはぜる音を聞きながら、ヴィオラは呟くように言った。
「今こうしてここにいられるのも、カイルが幻の湖に願ってくれたお蔭だと思うの。まだ、夢を見ているみたいだわ」
目の前で煌々と燃える暖炉の火が、ヴィオラには今までよりもずっと明るく輝いて見えた。何を見ても終わりの予感を感じていた昨日までとは、何もかもが違うように感じる。
「夢じゃないよ。ほら、君はここにいる」
カイルがヴィオラに回した腕に力を込める。
「ふふ、そうね」
微笑んだヴィオラを、カイルは熱の籠った瞳で見つめた。
「さっきの君の言葉、凄く嬉しかった。心のどこかで、兄上の存在が少しでも君の胸に残っていたらって心配だったから」
アダムに復縁を望まれても、きっぱりと断ってカイルを選んだヴィオラに、彼は喜びを隠せなかった。
「もう、とっくにアダム様のことなんて忘れていたわ。すべて、カイルのお蔭よ」
感謝を込めて、ヴィオラがカイルを見つめる。
カイルはヴィオラに回した腕をそっと解くと、彼女と並んで暖炉の火を見つめた。
「幻の湖は、僕の願いを叶えてくれた。でも、ノクティスを望んだ兄上の願いは叶わなかった。……違いはどこにあったんだろう」
手を伸ばしたヴィオラが、暖炉の前で寝そべるノクティスの頭を撫でる。幻の湖の前で見た不思議な夢の中で、ノクティスが何かを言っていたような気がするけれど、はっきりと思い出すことはできなかった。
「――これは私の推測なのだけれど、私利私欲のための願いは、叶わないのかもしれないわ」
「そう言われると、すっと胸に落ちるような気がするよ。兄上の願いは酷く利己的なものだったからね」
ヴィオラの青紫色の瞳を、カイルが見つめる。
「君は、幻の湖に僕の幸せを願ってくれたよね? その願いも叶ったよ。……僕の幸せは、君の側にいることだから。君を失っていたら、僕の幸せなんてなかった」
噛み締めるように言ったカイルは、改めて居住まいを正してから口を開いた。
「これからも、ヴィオラにはずっと僕の隣にいてほしいんだ」
「それは、つまり……」
緊張を滲ませて、カイルが頷く。
「僕と結婚してくれないか」
「……本当に、私でいいの?」
「ああ。僕が生涯を共にしたいのは、ただ一人、ヴィオラだけだから」
ヴィオラは、まるで花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「ええ、喜んで」
幸せそうに頬を染めて、カイルがヴィオラを抱き締める。
「僕はクローヴェン侯爵家には戻らない。それでも構わないかい?」
「もちろん。私はカイルと一緒にいられるなら、それだけで十分だわ。それに……」
ヴィオラがにっこりと笑う。
「私に残された時間は、すべてカイルのものよ。約束したでしょう?」
「……ああ」
カイルは熱の籠った瞳でヴィオラを見つめると、そっとヴィオラの顎を持ち上げた。二人の唇が、ゆっくりと重なる。
これからどんな道を進むとしても、カイルと一緒なら何も怖くはないとヴィオラは思った。
(もしかしたら、ノクティスが私たちを導いてくれたのかもしれないわ)
ヴィオラには、光と闇を統べるようなノクティスの存在が、自分たちを守り導いてくれたように感じた。カイルが闇属性、自分が光属性であることも、ただの偶然ではないように思える。
カイルの温かな腕に包まれて、ヴィオラの胸にひたひたと喜びが満ちていく。
二人の前で身体を丸くするノクティスの尻尾が、どこか嬉しそうにゆっくりと揺れた。
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